logo #74のブルース 君のせいじゃない


これを恋と呼ばないなら、僕らは何を恋だと言うんだろう。
あれを恋と呼べないなら、僕らは何が恋だと思うんだろう。

「着いたよ」
さっきから助手席の窓に顔をへばりつけて、運転席に座っている僕を見ようともしない彼女の家の前に車を止め、僕は彼女に言う。
正確には彼女の家の前、ではなく、彼女の家の手前1キロだった。
僕は彼女の恋人のつもりでいたけれど、彼女に言わせると僕は恋人、ではないらしい。そりゃあそうでしょ、だってあなたには奥さんがいるんだもの。カノジョ?なんかそれおかしくない?あなたのものにしたいなら、私と同じ条件じゃなきゃフェアじゃないわよ。だから私はあなたのものにはなりません。あなたのカノジョではありません。したがってあなたの恋人ではないのです。
…なので、家の前まで送ってはいけないそうだ、カレシではないので。
「着いたって」
彼女が何も言わないので、僕はもう一度言う。
「知ってる」
ようやく低い声でぼそっと答えたかと思うと、ありがと、と彼女は言いバッグをつかんでそのまま車から降りようとした。
「待てよ」
と僕は彼女の右腕を掴む。
「なに」
きつい、何か怒った表情で彼女が僕を振り返る。
「なんだよ、その態度」
「なんだよってなにが?」
「そのふてくされた感じが気に入らない」
「私は前からそうよ」
痛いから離してよ、僕の腕を振り払い、彼女はふんっといった様子でまた顔を背けた。
「あのさ、別れ際のそういう態度って、あとあとまで残るんだぜ? 今日のデートが全部、だいなしになるんだぜ?」
「……」
「どうして、そういう態度をとるんだよ?どうして笑顔で締め括らないんだよ?」
僕は噛んで言い含めるように彼女に言う。僕たちは学年で言うと2学年離れていて、彼女はもうすぐ30才になろうとしていた。まだ実家暮らしのせいか、30才にしてはなんとなく幼い部分が多く残っていたから、僕は彼女の保護者よろしくときには何かを教えてあげるような、それでいて何かを諭してあげるような、いつもそんな態度で彼女に接していた。わがままで、すぐふてくされて、そのくせいつも自分にまとわりついて離れない小さな子猫のようなこの彼女を、僕は多少持て余してはいたものの、手放すことなんかまったく考えられず、言葉にはしなかったけれど彼女と一緒にいる時間を本当に大事にしていたのだった。
神様が、このずうずうしくて小ずるい男に、そっと与えてくれた宝石のような時間だと思っていたのだった。
会える時間も限られているから、会っている間はずっと幸せな気持ちでいたかった。楽しくて嬉しくて素晴らしい時間を過ごさないといけなかった。帰り際、ぶすっとしたまま別れるなんて考えられなかった。
おやすみのキスもしないで、苦い気持ちのまま次に会うまでの時間を嫌な気分で過ごすなんてとんでもないことだった。
「じゃあ、笑顔を見せたげるっ」
彼女はそう言って鼻にシワを寄せてイーっという顔をした。
「…だからあ…」
「なんにも言わないでよ! もういいんだからっ!」
「いいってさあ」
「だから、もうこれで終わり!」
「……」
「おしまい!!」
「え…」
いつものすねた様子とはちょっと違う声のトーンに僕は驚く。
「別れたいの」
まっすぐに僕の顔を向けた彼女は、ぼろぼろっと涙をこぼした。
「ああ…」
「ごめん。もう今日で最後にしたいの」
僕から目を逸らさず、ぼろぼろとこぼれる涙をそのままにしている。
その様子はもう子猫のようにはとても見えず、彼女はなんだか凛として毅然として大きく見えた。
僕は頭が真っ白になったままで、自分が何を言うべきか全然わからなかった。さっきまであんなに泰然とふるまっていた自分がまるで嘘のように思えた。僕は自分にできることは何ひとつないんだということに愕然としていた。自分の中では、幸せな時間だと思っていたものが、誰かにとっては苦痛の時間だったということにも心が震えたし、はっと気づいたときには愛しいものが、とうてい自分の手が届かない場所に行ってしまっていたというあっけなさをやはり認めたくはなかった。
これが、頭ではわかっていても実際そのときが来るとこんなにも悲しいというやつなのか…と僕は思った。よく皆が、理性ではわかっているけれど感情が邪魔をする、とビールを飲みながらしたり顔で話す「女との別れ」はこれなのか…と僕は悟った。
恥ずかしい話だけれど、これほどのダメージを僕は知らなかった。学生時代から長くつきあった女性となんとなく結婚した自分は、恋人との別れ、を知らなかった。結婚しているくせに、奥さんがいるくせに、それでも恋をしてしまった。それはどれほどの罪だったのだろう。それはどこまでが許されないことだったのだろう。
「いつか、ちゃんと話せるかもしれない。でも今はこのままさっと別れたい。そういう気持ちなの。だから行かせて」
彼女は頑張っていた。涙をこぼしながら、今この瞬間言いたいことを頑張って話している。
この頑張りはきっと、ゆるぎない気持ちだからこそ頑張れるのだろうと僕は思った。
だったら、この頑張りを僕も受けてあげないといけないのだと思った。
「わかった」
「元気で」
「僕は君に…」
「ああ、なんにも言わないで」
「……」
「さよなら」

恋はもう、嵐のように猛然とやってきて、あっという間に心を盗んで、そうして静かに行ってしまった。
それは確かに恋だった。
それはどうしても他のひとじゃだめで、どうしても君だった。
それは僕がずるくていけなくて、君は全然ずるくもいけなくもなかった。

そしてそれはやっぱり君が去っていってしまうものだった。
そしてそれはやっぱり君に去られてしまうものだった。

僕はひとり残って、今日も君のことを考える。
あれは、さようならを教えてくれる恋だった。
あれは、さようならを言うための恋だった。
僕は今、どこもかしこも、ぜんぶが痛い。
あまりにもぜんぶが痛むから、少しだけ涙が出てくるときがあるよ。
男のくせに、少しだけ涙がこぼれてしまうときが。



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