logo #73のブルース シーズン・イン・ザ・サン - 夏草の誘い


さっき、交差点の巨大ハイビジョンに写された映画はヘップバーンの「ティファニーで朝食を」のハイライト・シーンだった。黒いノースリーブの身体にびっちりとしたあのドレスに、髪をきゅっと高く盛った素晴らしいアップスタイル、そしてドレスとおそろいの肘の上まであるぴったりとした長い手袋は、モノクロームの映画でもひときわ輝いていて、それは何より、彼女のあの愛くるしい笑顔が数十年の時を経た現代でもまったく遜色のないほど美しいものだから、そして高校生のときから何度も何度も繰り返し観た映画だから、見間違えようがなかった。
夏のかげろうが、信号待ちをしているタクシーのバックシートにぼんやり座って外の風景を見ている私にもはっきりと見えるほど、残暑の厳しい午後だった。スクリーンの中のヘップバーンは男に、「ホリー、ちょっと待てよ」と言われて、腕をつかまれていた。私の好きなシーンのひとつだ。小説でも何度もこの箇所を読んだ。原作はカポーティで、高校生のときに読んだ旧訳の文庫本の表紙はヘッブバーンの映画からそのまま転写したもので、私はこの文庫本をまるでバイブルのように長い間持ち歩き、ヘップバーンの表情がまだあどけない少女のそれであることをいつだって確認しては安心し、気持ちが静まって心が穏やかになるのだった。その旧訳は、旧訳ではなかった、去年までは。新訳を手に入れるまで旧訳も新訳もなかったのだ。

毎年夏になると、大体どこの書店でも、学生向けに「この夏の一冊」フェアみたいなコーナーを設け、名作旧作を紹介したりする。たまたまそのコーナーを丁寧に見ていたのは、恋人と一緒に買い物に来ていて、彼が熱心に歴史ものの本を読んでいて動かないため、私は手持ち無沙汰になってぶらぶらしながら時間をつぶしていたからだった。文学作品のいくつかを手にとり、ふとそこに「ティファニーで朝食を」の新訳がひっそりと並んでいたのを見つけた。去年の夏のことだ。
「ええっ?」
声を出して新訳を手にとりしばらく眺めてから棚に戻し、恋人のいる歴史もののコーナーに向かった。
「まだ?」
「ん、もうちょっと」
「好きなの見つけちゃった」
「どれ?」
恋人のくたっとしたポロシャツの袖口を引っ張りながら、こっちだよと私はせかした。
「ほら、私の好きなティファニーが村上春樹の新しい訳で、出てる」
「本当だ」
全然知らなかった、ノーマークだった、知らなかったことが悔しい、それにすっごく読みたいし、私はぶつぶつとつぶやきながら、表紙をするするっと撫ぜた。
「おれが買ってやるよ」
と恋人は言った。
「え、なんなの唐突に」
「おまえ、誕生日もうすぐだし」
「そうだけど」
「欲しいんだろ」
「うん、…いいの?」
「いいよ」
「ありがとう」
「誕生日のプレゼントって欲しい物をもらったほうがいいだろ」
彼はそう言って、さっさと売り場に行き、ラッピングをしてもらって戻ってきた。
「はい、お誕生日おめでとう」
「ふふ、ありがとう」
恋人は私よりもずいぶん年が下だったから、私は自分の誕生日の話を避けていた。できれば自分は年をとらず、恋人だけ1年に何度も誕生日がくればいい、などと思っていた。年齢差なんて気にしないと言いながら、その実自分が年齢を重ねることにひそかに抵抗があった。恋人が友人と電話で話しているときに「ああ、そうだよ。年は結構上なんだけど、でも一緒にいると全然そんなこと気にならなくて」といった会話が聞こえたときは万歳をしたいくらいに嬉しくなった。またひとつ年齢を重ねるその日、いくつになってもその日は特別な日だと私は思っていた。たとえ世の中の誰も自分の誕生日など知らなくても、自分だけは今日まで生きてきた祝杯をあげようと思っていた、ひっそりと、恋人には悟られないように。だから私は大好きな小説をギフトに選んでもらって、本当に嬉しかった。どんなものより、そのときは本当に嬉しかった。
「私、お誕生日に本をもらったのって初めて」
「おれも、本あげたの初めて」
「すごく嬉しい。残るものだから、本って」
「来年はもっといいもんあげるかんな」
彼は怒ったようにそう言うと、ほら行くぞと私を促した。
大人になっても。私は思った。大人になっても恋って同じだと思った。高校時代につきあっていた彼氏と同じような会話をして、同じようなことをしている。同じようにケンカをしたり、同じようにバカみたいなことで笑ったりする。同じように映画を見たり、同じようにジュースを飲んだり、同じようにキスをする。
自分が10代のときには考えられなかった。大人になったら思慮深くなって物腰も落ち着き、ロックンロールを聴かなくなり、大人らしい服装をして、迷いも悩みもないものだと勝手に思っていた。大人になったら、いろんなことを知っていて、いろんな答えを持っているものだと、大人とはそういうものだと思い込んでいた。
10代のときから好きだったカポーティを読んだり、ヘップバーンに憧れたり、本を買ってもらって喜んだりするものだとは、まったく思っていなかった。大人にならないとわからないものだ、と私は思った。
大人が言うんだから間違いない。皆が思っている大人は大人像であって、本当の大人は大人じゃないんだ。
私は買ってもらった新訳本を胸に抱え、そんなことを思った。

タクシーは、長い信号をじりじりと待ち、ようやく渋滞を抜けて走り始めた。
「夏休み中って、毎日どこでもこんな調子で混むんですよ」
運転手がミラー越しに私に話しかけてきた。ええ、そうですねと私は短く答え、夏はあるとき突然夏の体裁をしてやってきて、そうしてあっという間に去っていくと車窓を見ながら思う。ゆらゆらと水にたゆたうように揺れているかげろうの中に、多くのひとたちが強烈な白い日差しを浴びながら、のろのろと歩いている。
本を買ってくれた恋人とは、夏の初めに始まって秋が深まる前に別れた。
物静かなひとで、私の話を辛抱強く聞いてくれたひとだった。
「おまえは、はねっ返りで扱うのに大変だよ」
と笑い、
「おれ、じゃじゃ馬ならしって感じ」
そんなことをよく言っていた。別れるときには、
「おれのことはどうでもいいから、自分のこの先のことを考えて生きていきなさい」
などと言った。お互い、なかったことにするような性格じゃないのに、多くを語らず私たちは終わった。
静かに始まり、そっと終わった。それでも、あれはまぎれもなく恋だった。
どこにでもある、ありふれた恋だった。誰もが持っているような、他愛もないような恋だった。
「じゃあ、この先の信号を右に曲がったところですね」
タクシーの運転手が声を張り上げる。そうです、私も大きな声でそう返す。
1年なんて信じられないくらい早い。幸せな夏があれば、不幸な夏もあり、喜んだり悲しんだり笑ったり怒ったりしているはずなのに、その思い出はかげろうのように揺らいでいる。
他愛もない恋だったのに、終わってしまったあと、私はずいぶん泣いた。
夜のとばりがおりる頃、この瞬間もう自分のことを想ってくれるひとはどこにもいないのだと思うと涙が出た。もう自分を恋しく想ってくれるひとは誰もいないのだ、探しても、あたりを見回しても、もうどこにも。ぽろぽろと泣きながら眠りにつくと、目覚めた朝はまた瞼からぽろぽろと涙がこぼれた。
たくさん生きても、ちょっとしか生きてなくても、恋の終わりですら10代のときと同じだと思った。
「このあたりでいいですか」
タクシーの運転手はそう言いながらゆっくりとブレーキを踏んだ。結構です、私は答える。
そうだ、私は思う。今日はあの本をもう一度読もう。覚えていること、忘れていいこと、夢を見たこと、絶望したこと、全部ひっくるめて、あのわがままで繊細なほおっておけないホリー・ゴライトリーの小説をすっきり読もう。あの夏の一冊は、この夏の一冊にもなる。きらきらと輝いていていたのは夏の眩しさだけでなく、あの日のふたりだったのかもしれず、そして終わってしまったからこそあの日が眩しくもある。モノクロームの濃淡の中で生きるホリー・ゴライトリーが今なお輝きを増しずっとそこで鮮やかに笑い軽やかに飛ぶ、それはもう過去のものだから美しいあの本を、今日は。



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