logo #72のブルース 十代の潜水生活


アスファルトのむっとするような照り返しが、都会の夕暮れをまだ熱気の中に包んでいる。
私は同僚のひとりが運転する車のバックシートに座り、横に座っている息子と息子の友人のやりとりを聞くともなしに聞き、車窓から、通りをぐらりぐらりとけだるそうに歩いている人の流れをじっと眺めている。信号待ちで車が止まると、コンビニの横に何か大きな会館の建物があり、正面の入口に5、6段の階段があって、そこにひとりの青年がタバコをふかして座っているのが見えた。そこへ似たような青年がつつつ、と近づき彼に一言二言声をかけ、同じように彼の横に腰掛けた。遠くを見ているようで、何も見ていない4つの視線。その視線はどこかで見たような気がした。どこかで見て、そしてそれがずいぶんと郷愁を誘うもの。ああ、私は思い当たる。おそらくそれはずいぶん昔の自分の視線と同じだと。何も見ていない、けれど何かを見ようとまっすぐに目をこらす。ときどき視線をずらす。そしてそれを元に戻す。見えるものと見えないものと、見たいものと見たくないもの。選択し、選別し、分別し、振り分ける、あの視線。自分で自分の視線など見えるわけないのだから、私が今、あの視線は自分が持っていたものだったと断言するのもおかしな話だけれども、私にはどうしてもそれらが同じに見えてしまい、重なってしまい、懐かしさで胸がいっぱいになってしまうのだった。

高校を卒業したあとの私の学生生活は、学校の講義が終わると週3、4回バイトに行き、残りの週3、4回は繁華街をうろつくといったものだった。合コンに顔を出したり、友人同士で飲みに行ったり、ライブを見に行ったり、週末は踊りに行ったりした。季節が夏のときは、遊んだ先からどこかで落ち合って海に行った。遊び仲間は、自分が住んでいる地元の小学生のときからの仲良しの友人たちや、高校時代の友人や、大学のサークルで知り合った仲間や、アルバイト先のバイト仲間や、いつも遊びに行くディスコで知り合ったDJや常連たちで、とりあえず意気投合して会話が楽しく進む勘の良ささえあれば、誰もかれもが友達だった。
そんな私のような日常を過ごしている10代、20代の男女は、街じゅうにあふれていた。遊ぶ場所はどこにでもあり、遊ぶ方法はいくらでもあり、ただ遊んでいるだけのことになんの罪悪感も抵抗感もない。あの夏の晩も、そんないつもと変わらないありふれた夜のはずだった。確かにただのありふれた夜だった。それなのに、20数年たっても今でも忘れられない、どうしてだかいつまでも心に残っている会話をかわした、そんな夜だった。

私は六本木の外苑東通り沿いの、あるビルの正面の階段に座って友人のひとりが来るのをぼんやりと待っていた。時刻は深夜を回っていたけれど、周囲にも似たような人待ち顔で座っているひとたちや、酔っ払ってはしゃぐひとや即席のカップル、外国人や仕事帰りにそのまま遊びに来たOLとサラリーマン、いろんなひとたちがいろんな目的でこのスペースに座っていた。
「ちょっと、いいかな」
喧騒の中で声をかけられ私は少し顔を上げた。口の上に髭をたくわえた、たぶん自分より一回りかもしくはそれ以上の年恰好の男性だった。
「どうぞ」
と私は言い、どうぞって言うのもなんだかなあと思いながら、もし何か面倒くさい話しやお誘いだったら通りの反対側にあるマクドナルドに走って行こうとすばやく頭をめぐらせた。
口髭男はどうも〜、と言いながら私の横にすわり、
「週末の六本木はやっぱり人が多いね〜。いつも来るの?」
と聞いてきた。ああ、やっぱり面倒くさそうと私は思い、
「え? うん」
と無愛想に答え、腰を浮かして通りを渡ろうとした。
「あ、待って。変なナンパとかじゃないからさ」
口髭は慌てた様子で私に言った。
「話をさ、聞いてみたいなって思ったから」
「なんの話し?」
私は浮かした腰を下ろした。
「ほら、おれなんかの世代だと、赤坂のムゲンとかああいうところで遊んでたからさ、六本木のこんなバカ騒ぎの遊び方とは違うからさ」
「……」
「なんか遊びに目的があったっていうかさ」
「そういう昔話だったら、私じゃなくてもいいんじゃない?他にもこうして座っている女の子たち、たくさんいるじゃん」
私は少しあきれて、口髭と初対面だと言うのに敬語を使わずに話した。というより、私は敬語の使い方をよく知らなかった。はい、と言うべきところを、うん、と答え、これはいくらですか?と聞くべきところを、ねえ、いくら?と質問する、無作法な学生だった。相手が誰でどこのひとであろうと、だから何?それってえらいの?と思っている、無軌道な学生だった。
「いや、他の女の子と君はちょっと違うよ」
「……」
「まずその服…、どこの?」
「上はコムサでボトムはワイズ」
「だろうね。好きな洋楽のアーティストは?」
「マービン・ゲイとプリンス」
「やっぱり。本もよく読んでるんだろうなあ、好きな作家は?」
「谷崎潤一郎と武者小路実篤とサガン」
「ああ…、じゃあ、好きなお酒は?」
「ビールとジン」
「なるほどねえ・・・じゃあ」
「待って」
私は口髭が次々放つ矢継ぎ早の質問を止めた。
「なんなの、さっきから」
「あ、ごめんごめん」
「あなた、ライターかなんか?」
「のようなもの」
「もういいでしょ」
私はすくっと立ち上がった。面倒くさいと思いながら、なんとなくこのままずっと話してもいいような気持ちに似たものが、沸いてきてしまったのだった。けれども素直に応じてしまったあとで、何かのネタにされるのだったら、まっぴらだと思った。大人は信用できなかった。なんだかんだと甘い言葉を駆使して夜遊びの現場に近づいてくる大人たちから、気が付いたときには何かを搾取されていたり、取り返しのつかない傷を負ったり、大きな揉め事に発展したりすることに、私は大きく失望してきた。大人たちの話しを聞くことも私は好きではなかった。大人たちは、生きていくことに妥協しているように見えた。いつも疲れていて、何事にも否定的な様子だった。うらやましいとはまったく思わなかった。こちらの話を真剣に聞いているとも思えなかった。だから私は大人に対して丸腰で向かうことだけは避けなくちゃいけないと感じていた。警戒し、慎重に、余計なことは言わない、聞かない、見ない、関わらない。
「気を悪くさせてごめん。記事にはしないから」
「あたりまえでしょ」
私は立ち上がったまま答える。口髭を見下ろす格好になった。
「じゃこれで最後」
「なに」
「君は、何か楽しそうには見えないよ。ここにいる若者たちのなかで、君は全然楽しそうには見えなかった。目が違うもの。見ている先の目が違う。だから声をかけたんだよ」
「……」
「おれの推測が正しければ、君は大人の中で育ってきたように思う」
「……」
「違う?」
口髭の質問に私はどきりとした。5分前に偶然隣り合わせに座った見知らぬ大人に、私の素性を指摘されたような気がした。
「いや、それはきっと小さいうちから大人たちの世界にいたから」
もごもごと私は答える。大人を好きじゃないのは、大人の中で育ってきたせいなのかもしれないという誰にも言ったことのない葛藤を、この見知らぬ男に見透かされてしまった気がした。
「そこは子供のいない世界だろう」
「いない。大人たちに囲まれた唯一の子供だった、ずっと」
「家庭の事情?」
「習い事してて、6才のときから。お琴なんだけど」
「そうか」
「16才で師範のお免状もらって」
「うん」
「どこにいても自分の将来は絶対その世界だと思ってた。何をしていても、自分は最終的にそこに戻らなきゃいけないと思ってた。子供のときからそこにいたから、そこが自分の居場所だと思ってた」
「うん、うん」
「だから自分の居場所では、そこに慣れ親しまないといけないから、お弟子さんたちはみんな大人で、でもその中のたった一人の子供でもしょうがないって思ってた。お稽古は週2回あって、演奏会が近づいてくるとお稽古は毎日あった。それでお稽古が終わると必ずみんなでお茶飲むんだけど、みんな私が子供だから何もわかんないと思って、大人の事情をいつも話していた。私は子供のくせに大人な子供だったから、おせんべいを食べながら皆が話すことをじっと聞いていた。ときどき皆が私のことを思い出して話しかけてくるまで、ただじっと話を聞いていたの。相槌すらうちそうになったこともあった。私は理解してるよって言いたかった。でも大人たちは気が付いていないようだった。大人はみんないろんな顔を持っていて、いろんなひとのことが嫌いで、その場所にいないひとのことがいつも好きじゃなくて、家族の中にも好きな家族と嫌いな家族がいて、会話の中に混ざる浮気とか殺傷沙汰とか養育費とかそういう言葉を覚えたんだけど、とにかく毎日毎日いろんなことがあるもんだなと思った。大人同士は大変だなと思った。でも大人であればあるほど、子供のことはわかっていないんだなと思った。子供は子供なりに大人を理解しようと務めているのに、そういうことをまったくわかっていない大人って案外多い。そういう大人はだめだね。そういう大人は大人じゃなくて、ただ年齢を重ねてしまった子供なの。そんなことを思いながら、私は大人たちが話す会話を聞いていた、おんべいをかじりながら。でもね、だからって私が大人びてるとか、そんなふうには思わないけど」
私はそこまで一気に話すと、うつむいた。どうしてこんな話を、この男にしているのかよくわからなかった。人生には、よくわからないことのほうが多いことを、私はわかっていなかった。
口髭は私をじっと見つめ、しばらく何も言わなかったけれど、
「でも君は醒めてるっていうか、ここにいる中では明らかに無邪気とは程遠い」
と言い、
「人より少しだけ早く、大人になっちゃっただけだよ。それを否定的にとらえなくてもいいと思うよ。悪くないじゃないか。他のひとたちと足並みが揃っていなくたって」
そんなことを言った。
「いつもいつもみんなと同じじゃなくたっていいんだよ。それに気づいていることを、隠さなくていい。そして、大人とたくさん仕事するといいよ。もっといろんなタイプの大人を見たほうがいい。君の知らない大人たちも捨てたもんじゃない」
六本木の交差点のほうから、私の名を呼びながら友人がごっめ〜んと言って走ってくるのが見えた。
「もう行かなきゃ、踊りに行くから」
私は立ち上がり、口髭に向かってきっぱり言い放つ。
「楽しかった、ありがとう」
いつも誰かと別れ際に手を振るときのセリフを言った。
「20年後の君を見たいよ」
口髭がきびすを返した私の背中に向かってそう言うのが聞こえ、それには答えず友人に、おっそ〜いと私は叫んだ。



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