logo #71のブルース インディビジュアリスト


「トシちゃん、トシちゃん」
とキッチンから母親がおれを呼ぶ声がする。おれは、手にしていたDSのゲームをいったんセーブして、はいはい何すかぁ?と思いながらキッチンに行く。
「なに」
いつの間にか自分より身長が低くなっていた母親はキッチンのシンクの前でじっと前かがみになっていたから、おれは肩越しに覗く。
「ほら」
と言って母が見せたものは大きなクモで、洗い物をしていたらしく洗剤の泡だらけの両手で、そのクモの長い右足をシンクの底に押さえ込んでいた。
「なにやってんだよ」
「足つかんだとこ、見せようと思って」
「んなことで呼ぶなよ」
「夜のクモはね、よくもよくも!って言って縁起悪いのよ」
「じゃなんでそんなことしてんだよ」
「捕獲しといて、逃がすのよ。ほら」
母が手を離すと、よろよろとそのクモは左に位置をずらした。
「まだ生きてるでしょ」
「気持ち悪くないわけ?」
そりゃ気持ち悪いよぉ、と歌うように母は言う。つきあってらんね、とおれはつぶやいて自分の部屋に戻るつもりで身体を翻すと、
「トシちゃん、話があるからそこに座って」
と妙に落ち着き払った声で母が言い、おれはしぶしぶ狭いキッチンの小さなダイニング・テーブルにゲーム機をほおり投げて腰を下ろした。母はじゃあじゃあと流していた水道の蛇口をぎゅっとひねっておれと向かい合わせに座った。まだ白髪染めをしたことがないその髪は、ポニーテールがほつれ、頬に数本くるくると渦巻いていた。
母は40代半ばで、ひとりでおれを育てている。おれの生物学上の父親は、のらりくらりと言い訳をして、母と別れたあと養育費めいたものは一銭も寄越さないらしく、母はいつもお金がない、お金がないと騒いでいて、けれどもそのことで父親を責めるような言い方をしたことはなかった、少なくともおれの前では。
「なんかあったの」
おれの予想では、きっとまた、お金がないからこないだ言ってたあんたのスニーカーは来月のお給料が出てからでいい?とかなんとかそういうことだと思って、まあそれはいつものことだからおれ的には別にいいし、自分中学も3年になりましたから少しはこの家の状況が飲み込めるくらい成長していて、ちょっと大きいところを見せちゃいたい気持ちも少々ありまして、と母がもしそう言うのならそう答えるつもりでいた。
「あのね、私、仕事辞めてきた」
まったくおれの想定外のことを突然母は言った。
「い、いつ?」
ぎょっとしておれはそう聞く。
「今日。正式には今月末付けということだけどね。明日から有給消化しようと思っているから、もう職場には行かない」
母はきっぱりとそう言い、何故か笑顔でおれを見た。
「いや、あの」
「すっきりしたわぁ」
「てか、なんだよ、いきなり」
「私の中では別にいきなりじゃないんですけど」
「そうだろうけど、でもおれに相談なかったじゃん。なんで勝手に辞めんだよ?」
おれの声は少し大きかったかもしれない。この母親は、たぶんヨソの家庭の母親とはどこか違う、とおれは小さい頃から思っていて、それは小さいときから数ヶ月にいっぺん居酒屋におれを連れて行き、好きなものを食べなさいとおれに言い、自分はビールを飲んだり、メニューについてウンチクをたれたりともかく居酒屋でそんなことをして夜風に吹かれて二人で帰るとか、小学生は塾なんか行かなくていい、塾行くくらいなら外で遊んでなと言って、おれは本当は公文ぐらいは行ってみたかったのだけれど、母親が行くなというもんだからともかく小学校の6年間はいつもいつも外で遊んでいて日焼けしていて、成績もよくなかったのに、元気なんだからそれでいいと言い、でも小学校も6年になれば皆受験用の学習塾とか行きだして、あのねもうおれ遊ぶ友達もいないんだけど?と相談すると、じゃあおばあちゃんの家の庭掃除とかすれば?1回100円のアルバイトにしてもらうから、とかそんな話を祖母に取り付け、知らないうちに祖母の家のこまごまとした手伝いなんかもさせられて小学校を卒業し、そうして中学に入学する前は、あのね学校なんて行きたくなかったら行かなくていいんだよ、正当な理由があればね、正当な理由っていうのは私が納得する理由のことね、いじめられてるとかそういうこと、勉強がつまんないとか、友達とうまくいかない、とかだったら行かなくちゃだめだけど、もしいじめられてて学校に行きたくないってことが本当にあったらすぐ言ってね、そんなことがあったらもう学校に行かなくていいから、なんてことを言ったり、好きな楽器があれば言いなさい、それだけはどんな高価なものでも買ったげる、音楽はね絶対に裏切らないよ、人間は信用できないこともあるけど音楽は違う、心の支えになる、No Music No Lifeだよと説得してきたり、今夜は30分二人で夜空を見ようと提案してきたり、今日はお買い物デーにするから、ひとり5,000円まででなんか買わない?何個買えるか競争しない?とショッピング・モールで名案を思いついたり、ともかくそういう母親だった。
おれは、ヨソの母親はもっと勉強しろと言うと思ったし、学校へ行けと言うだろうし、高価な楽器は我慢しろと言うはずだとわかっていた。このひとは、おれに父親がいないからこういうことを言っているのだろうか、それとも元々こういう性格なのだろうかとよくいぶかしんだ。こっそり観察していると、母は別に無理をしておれに何かを言っているふうではなかった。母の友人が家に来たときも友人たちは母に対し、んもう、どうしてそういうふうに考えるの?わっかんないわーと口々に言っていたりするのを聞いて、これはいわゆる天然っていうやつなんじゃないか?おれの母親は、ものっすごく自然児なんじゃないか?と推察した。しかし気づいたときには母親から受けたこの自由な様子はおれもガチで受け継いでいて、おれの友達からは、おまえって自由だよなとかおまえのその発想ってどっから出てくんの?なんてふうに言われ、まあそれをいいとも悪いとも思わないけれど、とにかくおれもまた母親と似た側面も充分あって、母親のことを母親と思えないだけでなく、年の離れた似たもの同士が息を潜めて生活している気がしていた。
まっすぐな道に同じような形をしたふたつの球体が、同じように並んで進んでいる、それは明らかに従属する関係ではなく、平行に平等にほんの少しづつだけ進む、そんな気がしていたのだった。だからまさか、おれに相談なしに仕事を辞めるなんて、おれとしては非常にショックだった。なんらかの相談があってしかるべきだったと思った。わかりあっていると思っていた。そういう話を屈託なくできる関係だと思っていたのだった。
「トシちゃん」
母は今度はぞっとするほど低い声でおれの名前を呼んだ。
「あなたに相談ってなに?」
若干上目遣いで母はおれを見た。
「なにって、だから仕事を辞めようと思うとかそういうこと」
おれは大きい声を上げただけでなく、荒々しくとげとげしい感じになっていたかもしれない。少しばかりいらいらした。
「なんであなたに私の仕事のことを相談しなくちゃいけないわけ?」
母は挑むような様子でそのままじっとおれを見る。
「だって関係あるだろ、仕事辞めたらどうやっておれたち生活してくんだよ?それはおれにだって関係あることじゃんか」
おれは今年に入ってから、頭に来ると椅子とか壁とかそういうものを思いっきり蹴っ飛ばしたくなるくらい気持ちが激しく高ぶることがあって、そういう激情みたいなものを時折抑えることができなくなる。今も母に対してはっきりと殴ってやりたい衝動にかられたが、おれの中にわずかに残っている理性みたいなものと思いやりみたいなものが働き、かろうじて立ち上がって声を上げるだけで済んだ。
「トシちゃんさ、勘違いしないでもらいたいんだけど」
母はそんなおれの様子を、しれっとした態度で眺め、低い声のままそう言った。
「私が仕事を辞めたあとどうするか、ってことを迷っていたら、息子であるあなたに相談すると思うよ、家族としてね。でもね、私がどんな仕事をしてどうやって仕事を続けるかとか、そういうことはあなたに相談はしない。私の人生は私の生き方そのもので、それは息子の人生とは違う。どんな仕事をするかっていうレベルの問題は私が決めることで、それに対してあなたのレスポンスはいらないの」
「よく意味がわからない」
「だから、私の生き方や現在進行形のものについては息子には相談しないってことだよ。息子に相談するのは家族として機能していくことについての問題でしょ?」
「……」
「あなたは大事な家族であり、息子でもある。でも私の夫でもないし、私の相談役でもない」
おれから目をそらさずに母はそう言った。おれは、なんていうか唐突に突き放された感じがした。おれの思っていた平行に走るふたつの球体は、実は全然速度が違うんじゃないかと思った。
「おれ、なんか…」
うまく言葉が見つからないでいると、
「寂しいと思うの?」
と母はおれに聞いた。
「うん、少し」
「違うよ」
母はきっぱりと言った。
「違うよ、私は昔からそうだったよ。あなたが成長してきたから、こういうことに口出すようになっただけで、私のスタンスは昔から同じだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ。あなたは子供だったからわからなかっただけ。ずっと同じだもの、寂しいなんて思わないでほしい。それに寂しいなんて間違ってる。お互いの人生はそれぞれ。依存したり依存されたりもない。協力や協調は大事だよ、家族だもの。でもね、それとこれとは違うの。わかるかな」
「あんまりよくわかんない」
「なんて言えば伝わるかな。伝わらないかもしれない。言葉にすると意味が変わってしまう。それに嘘くさくなる。でも違うから。それは違うってことだけは覚えておいて」
母はやけにきっぱりしていて、それとは反対におれは自分の声のトーンがどんどん下がって、おれの態度もなんだかしょげたものになっていてずいぶん格好悪い、残念な感じになっていて、でもなんていうかはっきりと境界線を引かれたのがおれ的にはショックだったのに、母はそんなおれのことを最初からわかったふうに見ていて、それもなんか癪に障る気がして、おれは何も言えなくなった。どうしてだか、やけに寂しくやるせなく力不足に思えるのだった。
「トシちゃん」
母は笑顔でおれを見る。
「なんだよ」
「退職金ちょっと出るから、私、旅行に行くかも」
「ええ? おれ受験生だぜ?」
ははは、と母は笑った。
「いつも勉強なんかしてないくせに、急に受験生とか言ってるし」
へへへ、おれもなんだかおかしくなってつられて笑う。
「一週間くらいだよ。いいじゃん、それくらい」
その間、トシちゃんはおばあちゃんちに行っててよ、母はなんだかもうそれが決まっているかのようにそう言ったので、おれはわかったと言った。母がそれでいいなら、おれたちはそれ以上もそれ以下もないから、おれはただわかったとそう言っただけだった。



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