#70のブルース 愛のシステム
「それでね、コンタクトレンズをなくしちゃったの」
と大きく息を吸い込んで何か思い切ったようなことを言う様子で、彼女は言った。
「ああ」
俺がそう答えると、え?リアクションそんだけ?薄くね?みたいな半ばがっかりした表情を彼女が、した。
「てか、ほかに言いようがないから」
彼女が何か言うより先に俺が早口で押さえ込むと、
「…別になんにも言ってないじゃん」
彼女はバッグをぱかっと開け、ごそごそとiPodのヘッドフォンを捜しながら俺の顔を見ずにそう言った。
「むっとしてる」
「そう?」
「ほら、してんじゃん」
「別に」
「急によそよそしい」
「前から」
俺はこういうとき、女って面倒くせえなと思ってしまう男だった。だからうっかりあーあと声を出してため息をついてしまった。
「やなの?」
「へ? 何が?」
「そのため息」
「あ、ごめん」
「私と一緒にいるのが、やなんでしょ?」
「なんだよ、それ? 話しがいきなりそこに行くわけ? 一足飛びすぎね?」
「ため息なんかつくから」
「それは悪かった」
「ため息って、ひどいよ」
「だから、ごめんって」
「ため息ってさあ、息をためるんだよ?ためんなよって感じ。ためずに普通に息しろよって感じ」
その変な理屈とふてくされ方がなんとなく愛らしく思えて、俺は笑ってしまった。はははは、変な奴と言いながら、笑ってしまった。しかし笑ったあとで、ああまたここで彼女に、なんで笑うわけ?とつっこまれるなと身を硬くすると、
「ねえ、『春琴抄』って読んだことある? タニザキの」
と、全然違うことを言い出したので、女ってよくわかんねえなと俺は再び思う男だった。
「ちゃんと読んだことはない」
今度は何の話をするんだろう?と俺はちらちらと彼女の表情を伺う。
「でもあらすじは知ってるでしょ?」
「多少は」
「主人公の春琴ってさあ、盲目のお琴の師範なわけ。盲目で美人でわがままのお嬢。佐助は最初、春琴の身の回りのお世話をするお手伝いさんだったんだけど、お師匠さんを慕うあまり、お琴も覚えるようになって春琴亡きあとはものすごい立派な師範になるんだけども、ともかく師匠と弟子って関係で…。
ねえ、聞いてる?」
「聞いてる」
「私の話し、つまんない?」
「いや、そんなことはない」
「そう…、それでね、春琴と佐助って結果的にはデキてるんだけども、周囲には絶対に認めないの。でも春琴は未婚のまま子供産んだりしてんのね、佐助の」
「へー! 明治の設定だろ?そんな時代にそんなこと!」
「うん、でもねポイントはそこじゃないの」
「……」
「あるとき春琴は暴漢に襲われて顔に大火傷を負うのよ。それでそのとき佐助が助けに入るんだけど、春琴は佐助に、自分は大変な目にあったと思うけど、この顔をおまえにだけは見られなくないって言って見せないわけ。わがままで傲慢なんだけど、春琴も佐助を愛してたわけ。それで佐助にとって春琴はお慕いする無償の愛の相手だから、春琴の言うことは絶対で、見るなって言われたら見ないわけ。春琴は盲目なんだから、はいはいって言ったあとちらっと盗み見とかしたってわかんないわけじゃない? チラ見をさ。でも佐助ってひとはそういうことをしないの」
「ええー? なんだ、それ」
「あなた笑ってるけどさ、タニザキが描くマゾヒズムの世界ってそこなわけ」
「なんだか都合がいいって気がするけどな」
「でもさ、昭和初期の小説だからね。ディテールだけ細かくて、あとは結構おおざっぱなのよね」
「文豪なんだろ、タニザキって」
「そう」
「それで、そんなツメの甘い小説なのかよ」
「でも、ポイントはそこでもないのよ」
「……」
「でね、佐助は春琴の気持ちを汲み取ってさ、春琴の一番美しかった顔を脳裏に刻むためにも、自ら自分の目をつぶして、翌日春琴の前に現れるの。『お師匠様、私はめしいになりました』って言って。
それで春琴が『佐助、それは本当か』って言うの。このシーンがさ、たぶんこの小説の中のシーンでも最も重要で、映画だったらなんの音もなくて盲目のふたりがただ向かい合って座っている、という場面だと思うのね」
「だろうね」
「私はね、10代のときにこの小説のこのシーンで、これが究極の愛の形だと思ったの。すごすぎると思って体が震えたの。だから何度も何度も読んで、今だってこうしてソラで言えるくらいに読み込んで、こんなふうに誰かを愛して、愛されたいと思ったの。お互いの存在を肉眼では見えないんだよ?でもお互いの存在を見えないことで愛し合っている。見えている世界よりも、見えない世界を選び取ったふたりなわけ」
「……」
俺は、なんというか彼女の話をある意味圧倒されながら聞いていた。
「コンタクトレンズ」
唐突にまた彼女が言う。
「え?」
「コンタクトレンズなくしたって言ったじゃない?」
「あ、さっきの話し」
「私、コンタクトレンズないと生活できないの、乱視と近視がひどいから」
「知ってる」
「それでコンタクトレンズがないと見えないの。見えないって言ってもまったく何もかも見えないわけじゃなくて輪郭がないっていうか、世界が薄ぼんやりしたままで」
「うん」
「そうすると薄ぼんやりしているから、そこにあるものが明快じゃないっていうか、クリアじゃないの。ぼやんとしたままの世界なの。その世界にずっと留まることもできるよ。でもその世界はこのクリアな世界とは違うの」
「……」
「春琴と佐助はもっと深い暗闇の中で手探りで愛し合ったわけだから、それは見えている私たちにはまったく想像つかない世界だと思ったわけ。その深さとかエロティック加減だとか。でも私思ったの。このクリアな世界にいる人間は、いろんな想像と妄想を駆使して、どうにかこうにか暗闇の世界を描くことはできる。でもそういう行為自体、自分たちのクリアな世界が上にあると思っているってことだなって。ここから下を見下ろしている。本当はこっちの世界にいた二人が、今はあっちの世界で愛を見つけ仲良く暮らしましたとさ、っていうのはなんだか違うなあって。もしかしたら、あっち側の世界のほうが上にあるのかもしれないじゃない? 本当は目に見えてる世界のほうが、間違っているのかもしれないじゃない? 見えない世界のほうが正しくて、見えてる世界が違っているとしたら、私たちはとんでもない誤解をしながら毎日生きてるわけじゃない?」
彼女はそこまで一気に話し終えると、ふうっと軽く息を吐いた。
「ねえ」
「ん?」
「愛ってなに?」
「えっ、そんなこと」
「わからない?」
「わかってる奴なんかいるかよ」
「私たちが思っている愛ってなんだろうって思うの」
眉間にシワを寄せて彼女は俺を見ている。コンタクトレンズと春琴抄か。女ってやっぱわかんね、俺は今度もあやうく口にしそうになった。でもきちんと彼女の目を見返したら、俺は別の言葉もうっかり言ってしまいそうになる。
「えーと」
俺は少ししどろもどろの口調で言う。
「あの、それはたぶん誰もが探しているもので、誰もが手に入れたいと思っているものなんじゃないか」
「愛を?」
「みたいなものを」
「見つけられるのかな」
「すべてのひとが見つけられるとは限らないだろ」
「でもね、見えている世界で生きている私たちは、たとえ誤解や錯覚の中で生きているにしても、もうここでしか生きていけないんだから、この中で私なりのやり方で誰かを愛して愛されていかないといけないんだなって思ったの」
「……」
「誤解でも錯覚でもいいの、強い気持ちで誰かを信じて生きていきたいだけだから」
「そっか」
「見つけたい」
「うん」
「どこかにあるなら。誰かと」
「誰か」
「だって目の前にいるひとは、なんにも言ってくれないから」
ばか、Love is hereだと俺はその言葉を飲み込んで、少し男らしい感じで、
「帰るぞ」
と言った、彼女の手を引いて。
「行くぞ」
もう一度野太い声を出して俺は言った、彼女の手を引いて。うん、彼女がうなづいたから俺は少し安心して、女ってよくわかんないけど、でも俺はこの女が好きだと強く思ったのだった。
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