logo #69のブルース ぼくは大人になった


「あれ?」
一度私の前を素通りして行った男が、そんな声をあげて引き返してきた。
「おまえ…」
男は私を見つめて絶句した。私はゆっくりと煙草の煙を吐きながら、周囲の喫煙者たちの煙を浴びないように腰をかがめ、ホームに設置してあるスタンド型の灰皿に煙草を捨てた。
朝の東京駅の東海道新幹線乗り場は、これから関西に出張するビジネスマンたちであふれ、そんな中でオレンジ色のキャリーバックを置いてブーツにミニスカート姿でひとり煙草を吸っている私は、どうしたって周囲の目を引いてしまう。だから男は私に気づいたのだろうと思った。
私は男が最初に私の目の前を通りすぎていったときから、男の姿を認めていた。
それでも私から声をかけなかったのは、何年も前に終わった恋の相手と、楽しく話をする自信もなかったし、何より、この男とばったり会うことだけを慎重に避けて暮らしていたはずなのに、どうしてこんなふうに再び出会ってしまうんだろう、私は軽く舌打ちしたい気持ちになった。
「久しぶり」
ようやく私が口を開くと、ぽかんとして私を見つめていた男に笑顔がもれた。
「何やってんだよ、こんなところで」
「何って、これから新幹線乗るから」
「どこ行くの?」
「京都」
「ひとりで?」
「そう」
連れがいないことを確かめると、男は、
「おれはこれから名古屋に出張に行くんだけど」
と言い、
「京都に何しに行くんだよ?」
と聞いてきた。私は心底うんざりした。

男は昔から、いつでも私の行動のすべてを把握したがった。何年も会っていない時間があるのだから、行き先さえ尋ねたらそれ以上は聞かないというのが大人としてのルールであるような気がするが、男は私の恋人だったときから(そして今も恐らく)大人ではなかった。厳密に言うと男も私も40才になっていたし、世間では立派な大人の年齢であるには違いないのだが、恋人としてつきあった数年前の数年間、男は酔っ払って私をつきとばしてなじったり、私の服装やネイルの色など細かく管理したり、メールの返信が遅いと電話をしてきて、どうしてメールがすぐ返信できないのか、他の誰かとメールのやりとりをしているのかなどと、ひとつひとつ疑惑の理由を挙げて、尋ねてきたりした。
「おまえはいつもいつも他の男の気を引こうとしている」
男は私にそう言い、
「その髪も、その指も、全部そういうオーラを出してる」
と顔をぐっと近づけてくるのだった。
「そういうのをパラノイアっていうのよ」
私が顔をそむけて答えると、男はぐいっと私のアゴを持ち上げて、
「おまえさ、おれとつきあっている以上、おれの女だかんな。おまえの身体も、心も、全部おれのもんだかんな」
とまっすぐ目を向けて言うのだった。
私は男が怖くもあったけれど、一番きつかったのは男がそれほど孤独であり、そしてそれを私にまったく隠そうとしなかったことだった。誰かの100%の孤独が自分の元にやってくるとき、それらはあっという間に2倍、3倍にも膨れ上がり、恐ろしいほどの絶望や虚無や悲しみが付加され、私にそれを受け入れろ、理解しろ、と目の前に迫ってくるのだった。私にとってそれらは、負担で憂鬱で、ひどくつらい気持ちになるもので、それでも男の元からなかなか立ち去ることをしなかった私は、結局は男を哀れんで受容し、慈しんで愛撫し、親しんで可愛がっていたのだと思う。
男は私を簡単には手放そうとしなかった。男の不安や怯えやいたたまれなさが、私には手に取るようにわかっていて、男の目に映る私はある種同じ匂いを放つものだったからだと思う。そしてそれは、たぶん私が男を愛していなかったせいだと思う。
私は男を好きではなかった。
男が私を扱う態度や言葉や、彼の思考やあるいは夢や、あらゆることが好きにはなれなかった。
それなのに、私は男と会っていないときは、男のことを想ってよく泣いていた。
フローリングの床にごろんと横になると、真夜中の静寂が私を包み、私はしずしずと涙を流した。寂しい寂しい寂しい寂しい。男と会いたくて泣くのでなかった。男をいとおしく思って泣くのではなかった。
男もおそらく私を好きではなかったと思う。そんなことも私にはわかっていた。わかっていながら何年も一緒に同じ時を過ごし、別の方向を向いて、男はますます私に対して横暴になり、私はただ黙って男を受け入れた。
私の涙はどんな種類の涙だったのだろう。人はたいていのことは乗り越えて生きていけるけれど、孤独だけは違う。孤独は人を生かさないこともある。そんなことを私は身をもって感じていたかったのかもしれない。
目の前に突き出され、確認し、そして受け入れる。その作業を、男も私も必要だったせいかもしれない。私と同じように、私のいないところで男も寂しい寂しい寂しい寂しい、そう言って泣いていたかもしれない。
お互いがお互いを愛してはいない。恋でもない。孤独であることだけが、お互いをつなぎとめている。
私たちは激しくその存在を求め合っていただけなのかもしれない。

男は私を管理することで、自分の一番の理解者を身近に置く安心感と充足感に、ただ執着していた。
その証拠に、私たちが別れた理由は、男に別の恋人ができたからだった。
男は私に、
「好きな女ができた」
と至極まっとうで率直な言い方をした。
「もうおまえとは一緒にいられない」
私が何も言わずに黙っていると、
「ごめんな」
と言い、そうして男は涙をこぼした。どうしてこの場面で涙なんか流すのだろう、私はそう思ったけれど口には出さなかった。こんな安っぽい涙を見るために、私はこの男と一緒にいたわけじゃない。私は本当にそう思ったけれど、口をつぐんだ。何も話さなければ、何事もないのだ、ということを私はこの男から学んだ。
饒舌であればあるほどトラブルがあり、ドラマがあり、クライマックスがある。
寡黙に徹すると、変化も変容も様変わりも繁栄も持続も永久も、何もなかった。結局何もなく、何も残らず、何も残さず、私たちは終わり、終わらせ、終えた。

京都へ何しに行くんだと聞かれて、私はわずかな間に男との数年間を一瞬で思い出していた。
「また話さなくなってる」
男はくすっと笑った。そういう男の表情が、私には見慣れない感じがしたけれど、男も私も40代になった今となっては、お互い見知らぬ場所で見知らぬひとたちと関わり、少しばかりのエッセンスが加味されたのかもしれない、たとえ本質的なものが変わらないにしても。私はそんなふうに、男の様子を見守った。
「男か?」
男は重ねて聞いてくる。
「どうせ待ち合わせかなんかしてんだろ?」
あーあいいよなあ、京都で待ち合わせかよぉ、あれっ? やばい、もうすぐ発車になっちゃうな、おれは禁煙席だからあっち行かないと、と男はぶつぶつとひとりごとを言い、さっと右手をポケットに入れたかと思うと、
「ほれ」
と缶コーヒーを私に差し出した。
「気をつけてな」
「あ、ありがとう」
私はまだ生暖かいそれを受け取り、
「いただきます」
と答えた。
「またな」
男はアタッシュケースを持ち替えた。
「あ、そうだ」
ま、どうでもいいことなんだけどと男は言いながら、それでも少しはずんだ感じで、
「おれ来週結婚すんの」
と言った。本当に、あたかもたった今思い出したかのような言い方で、男はそう言った。



Copyright Reserved
2010 Baby Julia / Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com