logo #68のブルース グッドバイからはじめよう


Party Time

一昨日から夫は家に帰ってこない。
そんなことは初めてのことではなかったけれど、今日も夫は家に帰って来ないかもしれないという胸騒ぎがすると、私は毎回ひどくつらくなり、何度も何度も携帯電話に連絡をする。夫の携帯は大抵電源が切られていて、それでも今の自分に出来る方法は携帯に連絡をいれることしかないと思うと、機械的な音声メッセージの声を聴くために私は携帯を耳にじっとあてる。そんなとき知らず知らずのうちに涙を流していることもある。あるいは苛立たしげに携帯電話を壁に投げつけるときもある。けれどもまた10分後には、私は夫の携帯電話に電話をしている。たぶん私はあきらめが悪いのかもしれない。あきらめが悪い? 妻でありながら、家に帰宅しない夫をあきらめる? それが正しいのだろうか? 私のしていることはちょっとノイローゼ気味のうつ病気質である頭のおかしなワイフなのだろうか? 私にはもうよくわからない。自分が何をすべきかが私にはもうよくわからなくなっていた。携帯電話。その便利で汚らわしい現代のツール。そんなものにしか今の私は自分の結婚生活を実感できない。
そんなものでしか今の私には心の指針を見出せない。
そんな状態でありながら、昨日の朝は何十回めかの電話で突然女性の「Hello?」という声が応答した。
「Is my husband there?」
私は尋ねた。ハズバンドとひと際はっきりとイントネーションをつけて。私の夫はそこにいるの?と。
最悪だと思った。私は妻なのに、夫はそこにいるのかと知らない誰かに尋ねるなんて。
私の見知らぬ、けれども夫の携帯を手にしている、夫とは懇意であろう誰かに尋ねるなんて。

一昨日の晩は、小さな赤ん坊の息子が発熱した。
高熱でぐったりしている息子に解熱剤の座薬を投薬した。泣き叫ぶ息子の足を持ち、ごめんねごめんねと謝りながら一瞬私は自分が何をやっているのか、よくわからなくなった。小さな赤ん坊は足をバタつかせて、お尻からの異物に対して全身で抵抗し、一度入れたはずのカプセルを力の限り排出した。全力の拒絶。私は赤ん坊の小さなお尻を見ながらあたかもそれが夫からのメッセージのようにも思え、祈るような気持ちになって、もう一度渾身の力を込めてカプセルをぐいぐいっと親指で押した。しばらく待つ。赤ん坊はまだ泣いている。阿鼻叫喚という熟語が頭をかすめた。何か見てはいけないものを見た気がし、やってはいけないことをやっているような気がした。ごめんなさい。私は心の中で赤ん坊に手をついて謝った。この赤ん坊に対して申し訳ない気持ちを、どうして親の片割れで一緒にいるべきはずの夫が立ち会わないのか、どうして一緒に作業するはずの夫はいないのか、私は夫とこの気持ちを共有したかったし、この時間を今ここで過ごすべきだと思った。
そんなふうに思うと、どこから涙が出てくるのかと思うくらい両目からそれはボタボタと落ちてきた。私の全身は液体で出来ていて、それは今にも爆発しそうなくらいマックスな状態の風船で包まれている液体のようなもので、どこを突付いてもほんの少しどこかを突付いてもそれらはあふれ出てくる種類のものだった。ほっぺたをつねっても、赤ん坊の様子を見るため振り返っても、あるはずのない夫の車が置かれるべき駐車場を窓から覗いても、どんなことをしながらでもそれはぽたぽたと、時にはじわじわと湧き水のごとく、流れ出てくるのだった。

昨日からは、冷蔵庫が壊れた。
赤ん坊は座薬の効果があったのか、よく眠っている。冷蔵庫の音がしなくなり、赤ん坊も寝静まると、この家には外からの騒音以外、なんの音もしない。
私はキッチンとリビングの間の柱に背を預け、さっきからカレンダーを見ている。4月のカレンダー。もう季節は冬の始まりだというのに。手を伸ばして7枚分のカレンダーを破ればいい。たったの7枚。なのに、それが私にはできない。カレンダーを破いて、この7ヶ月分の出来事をくしゃくしゃにして、そうして今を生きていけばいい。それなのに、私はそれをためらう。まるで、この7ヶ月の出来事がまったくなくなってしまうような気がしている。7ヶ月分の毎日が、まったく日常化してしまうような気がしている。


どんな言い訳も通用しない覚悟で、僕は家に戻った。
冬の早い夕暮れ、家の中は薄暗い状態で、彼女はぼおっとキッチンのテーブルに頬杖えをついて座っていた。
「Hi」
とりあえず僕はそう言った。ちらりと彼女は僕を見て、冷蔵庫が壊れていると言った。
「What's wrong?」
僕がそう聞くと、彼女はWhat's wrong? …あなた今What's wrong?って言った? 何がWhat's wrong? よ、こっちが聞きたいわ、冷蔵庫が壊れた理由なんか私は知らない、と大きな声を出した。
冷蔵庫にも寿命はあるしな、と僕がつぶやくと
「I don't care about refrigerator right now!!」
彼女は猛然と僕に向かって叫んだ。なんだよ、君が冷蔵庫が壊れたって言ったからそれに対して答えただけじゃないか、と言うつもりで僕が顔を上げると、彼女は顔を覆って泣いていた。
「I don't know what should I do anymore」
もう私には何をすべきかわからないの、彼女は小さな声でそうつぶやき獣のような咆哮をあげて泣いた。

夏が始まる前から、ずっと同じことの繰り返しだった。僕が家に戻る。言い争いになる。彼女が泣く。僕が家を出る。そしてしばらくしてまた僕が家に戻る…。いつから僕たちはこんなふうに顔を合わせば怒鳴りあい、いがみあい、悲しみの上に悲しみを上塗りするようになってしまったんだろう。
僕はずいぶん前から自分が結婚生活をまっとうできない男だということを悟っていた。卑怯で女が好きで誰かに縛られたり管理されたりするのが嫌いな男。彼女を傷つけた。彼女を深く傷つけた。そして今現在も傷つけている。ずるくてやばくてどうしようもない体たらく。それでも彼女を愛していた。僕が不在の間、彼女がどれほど泣いて落ち込んでやりきれない気持ちになっているか、僕にはわかっている。正しくて美しくて優しくてスマートで洗練されている、そんな妻になった僕の彼女。
彼女も僕を愛していた。こんな男を愛している僕の妻。壊れた夫は何も言うべき言葉が見つからず、僕によって壊されてしまった妻はただすすり泣いていた。僕と結婚してから彼女は本当によく泣くようになった。いつも泣いていた。どんなことにでも泣いていた。何もかもが僕のせいで、一体何から手をつけたらどこにメスを入れたらこの状態から逃れられるのか、彼女と同じように僕にももうわからない。それでも、僕にはたったひとつだけわかっていることがある。この壊れた僕らの間の結論はとうの昔に出ているはずじゃないか、ということだけは。ただ僕らはその結論を導く過程を今、歩いているだけだ。そこに向かってただ歩いている。後戻りはもう出来ず、ゆっくりとそこに辿り着くのをお互いが待っている。どちらが先に辿り着いてもいいように、お互いが譲歩しながら歩幅を緩めている。僕らの歩いている道の先は、もうそのひとつしかない。

昨日から壊れているという冷蔵庫には、色あせたコースターが、無造作にマグネットで貼り付けられていた。バラの花束のイラスト。僕が彼女に最初に贈った贈り物。ボールペンがにじんで、もうそれはどう見ても古くなったいたずら書きにしか見えないけれど、どうしても捨てられないの、と一緒に住み始めたときに彼女は照れくさそうに言い、ぺたっと貼った。僕はそれを今じっと見ている。
なす術もなくただじっと見ている。彼女のすすり泣きの声はまだ聞こえている。


あのふたりは、クリスマスが終わるまでは一緒にいて、そのあと別れた。
姉貴から電話でそう報告された。俺は今東京じゃなくてハワイに住んでいるから、お正月も日本に帰れなかったけれど、姉貴も義理の兄貴もそれぞれ元気でやっていると聞いているよ。
確かに、幸せそうなカップルがだめになった話はショックだよな、ああ、あのふたりはそんなふうなことになっていたんだ、俺たちは全然知らなかった、あんなに仲良かったのに、あんなに笑って楽しそうに見えたのに、って幸せそうな笑顔だけが目に焼きついていたりしてな。誰かの別れはときには自分の恋の終わりより心に残ってしまうことがある。特にあのふたりは周囲の反対を押し切って婚約してから2年たってようやく結婚した経緯があったし、結婚式であんなに仲良くIt's party time!! なんて叫んで、涙でぐしゃぐしゃになりながら酒飲んで陽気に騒いでいたから、あれから一体何があったんだろうって考えたりしちゃうのも、わかるよ。
姉貴から電話もらったとき、とっさにああ俺は東京にいなくてよかったなあ、なんて思っちゃったもんな、東京にいたらふたりのそれぞれの引越しとか手伝わされていたはずだからさ、俺はちょっとそんなこと耐えられなかったと思う。
俺はね、あのひとが兄になることが嬉しかったんだよ。俺も男だからさ、ちょっとこの男あぶなっかしいな、くらいはわかってた。あぶなっかしいし、なんか煮ても焼いても食えない感じの雰囲気あったし。それでも全然憎めない男。こんな男っているんだなと思ったの。俺も仕事柄アメリカ人のことよく知っているからさ、そういう意味では自分の姉が選んだ男は、他の誰とも違うなと思った。でも姉貴もわかってた。俺が遠まわしに義理の兄のことを評したら、どんな結果になってもこのひとと結婚したかったって俺にそう言ったの。このひとの子供を生みたいって俺に言ったの。他のひとの子供じゃ嫌だって。すごいよね、そんなふうに言い切るってさ。
それで俺が、それって愛? 愛しちゃってるわけ? って聞いたらさ、ほら身内だとそういうこと聞くの、なんか恥ずかしいからふざけた感じでね、聞いたわけ、そしたらなんて言ったと思う?
愛しているけど、愛していたに変わっても、愛は終わらないからって。
それが愛だとわかったからって。
そう言ったんだよ、俺に。姉貴はああ見えても純粋なとこあって、本当にあのひとのことを引き受けたんだよ、自分の人生の中に。そう一人の男を丸ごと引き受けたんだよ、全力でさ。まったく手加減もしないで、自分の持てる力を全部振り絞って。女のくせに男みたいな潔さだった。
それでね、あのひともさ、姉貴のそういうとこ全部わかっているひとだったの。わかっているのにそれが出来なかったんだから、あのひとも本当に出来なかったんだと俺は思う。もちろん努力はしたと思うよ。あのひとも姉貴も、俺がこんなこと言うの恥ずかしいけどさ、愛し合ってたの。うん、それは俺だって本当のことはわからないよ、でもあのふたりの放つ磁力っていうのがすごくてね。何かこういちゃいちゃするとかべたべたするとかそんなものじゃなくて、なんていうのか強い磁力があって、その磁場には絶対誰も入れない真摯な感じがあって。圧倒的な関係だった。そう、俺たち周囲の人間を圧倒するような関係だったんだよ。
だからお互いがお互いのこと全部わかっていて、同じように一緒に歩いているのに、全然歩み寄ることができなくて、どんどん距離が離れて行ってしまったというのかな、目的地は一緒なのにだよ? ある意味すごい夫婦だなと思った。変な話、これが夫婦っていうんだなとも思ったんだよ。いつかさよならするために出会った夫婦、と言えばわかりやすいかな。うん、そんな話、どこにもないと思うけど、でも俺はさ、あんな夫婦って見たことなかったし、これからも見ることはないと思う。
壮絶で凄惨で崇高で厳かだった。思い出すと胸が痛い。いつも笑っててさ、いつも泣いてるんだよ。最高に幸せで、最大限の不幸せを知ったって俺の兄貴だったあのひとはそう言ったよ。俺にはできない。そんな覚悟もないし、もっと細く長く小さくてもいいからずっと長く、そんな関係を築いていきたい。それが普通じゃないかな。あのふたりは、やっぱり普通じゃなかった。
でもきっとそれしかなかったんだろうな。それが彼らの結婚生活の全部だったんだよね。
だから結果的には別れたけど、あのふたりの場合は、これからまたスタートしていくんじゃないかな。たぶんこれからまた別の形で始まっていくんじゃないかな。俺はそう思うし、そう思いたいし、そうであるといいなって思ってる。



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