logo #66のブルース I'm in blue


After Party

男は、うつぶせで寝ている私の首筋に唇を這わせながら、
「ダンナさんはどんなひとだったの」
と聞いてきた。
「アメリカ人」
男の質問に素直に答えると、ええっ、そうなの? 男がいったんその行為をやめ起き上がる気配がした。
ちらりと顔を向けるとさっきまでのやわらかな表情が曇り、困ったような顔をして男は私をじっと見ている。汗ばんだ額に前髪がぺたんとくっついている。
「なに」
「いや、なんかびっくりしちゃって」
「そう?」
「だって言わないから、そんなこと」
最初に話したら、男は私と寝なかったというのだろうか。それを知っているのと知らないのでは、何か違いがあるというのだろうか。私は身体をひねって男と向かいあう。気の効いた言葉をかけようと思ったけれど、うまい言葉が見つからず、私は男の黒目がちな目をただ見つめそのままじっとしていた。何事も饒舌になることはない。昨日読んだ美しい小説の主人公の女性は、恋をしてもまったく饒舌でなかった。本当に寡黙に恋をしていた。思っていることを話さない、それはなんて素敵なことだろうと私は感じたのだった。それはなんて大人で、なんてはかない、なんて孤独な作業なんだろう、私はそう思った。そんなふうに生きてこなかった。夫だった男には、自分をわかってほしくて私は本当によく喋ったものだった。初恋の話も、苦手な科目の勉強の話も、通勤電車の話も、クライアントの接待の話も、私はいつも夫だった男に言葉で説明した。ゆうべの夢の続きの話さえ。ねえ、ゆうべの夢の続きは、今晩また見れると思う? そしてそれは明日の夜も見れるものかな? そうして私は死ぬまで、ひとつの物語を見続けていけるかな? それをあなたに毎晩話しても、怒らないで聞いてくれる?
私はそうやっていろんなことを夫だった男に話し続けた。うんうん、そうか、OK, I understand、夫だった男は、そんなふうに私の話を聞いていた。私はあくまでも饒舌な女だった。饒舌であることが夫婦の間に必要なコミュニケーションである、と私は長い間思っていた。そういうことで結婚生活は成り立っているもの、ずいぶんと長い間、私はそう思っていたのだった、あの日離婚するまでは。

「まだ質問がある」
男は、上半身裸のままベッドの上に正座のような格好で、私を見下ろしている。
「どんな」
「離婚してから俺で何人め?」
「何人めって、何人と寝たかってこと?」
「うん」
「そんなこと聞いてどうするの?」
「ただ、知りたいから」
ああ、もうそんなこと。そんなことをこの男に話したくはなかった。離婚して何年も特定の恋人はいませんでした。離婚は私のそれまでの人生において、いやその後の人生にもおいて、あれ以上もそれ以上もないくらい大きな大きなダメージでした。どれほどの長い夜を私が過ごしてきたのか、それを言葉にして誰かに話すつもりはありません。それほどの衝撃と困惑と傷心と損傷と損害と責苦と苦渋と辛苦と辛酸と慟哭でした。それでもようやく夜明けが見えてきて恋をする気持ちになって恋人が出来ました。本当に好きでした。でもその恋は夏が始まる前に始まって、夏の終わりには泡のように消えてしまいました。そうして私は再び傷つきました。壊れました。病みました。狂いました。堕ちました。そして私はここにいます。初めて会ったあなたとこのホテルに今います。同じようなことを今まで何回かしてきました。何回? 何人? だから? モラルがない? だから? よくないこと? 何が? 間違っている? どこが? そんなことを、この男に告げてどうなるというのだろう。本当の名前さえ住んでいる場所さえ何も知らないこの男に、私を語って何が変わるというのだろう。
「言う必要はないんじゃないかな」
「どうして」
私は深く、それは深くため息をつき、身体を起こした。下着のままでじっとしていたから寒さを覚え薄っぺらいブランケットを羽織った。あのさ、私は男に顔を近づけて答える。
「私に興味あるようなふり、やめてほしい」
「……」
「そんなこと、恋してるわけでもあるまいし、聞かないで欲しかった」
「寂しいこと、言うなよ」
「寂しいこと、してんのよ、私たち今」
「楽しいこと、だろ」
「楽しいこと?」
私は相手の言葉をリピートする。楽しい、なんてそんなこと、このホテルにはいってから一度も感じてはいなかった。楽しくも嬉しくもうきうきもしていない。どきどきもわくわくもにこにこも、そんな様子を私は見せてはいなかったはずだ。ただその場の流れに身を任せてみたかった。何も言わずにぐいぐいと私の腕をひっぱって、飲んでいた飲み屋からほど近い遠慮も何もないようなけばけばしいこのホテルに男が私を連れて入ったときから、このままあっという間に夜が過ぎればいいと思った。男の本名や年齢や出身地や母校や細かいプロフィールなんてどうでもよかった。ただ少しだけ男が私に優しくしてくれればいいなと思った。見知らぬ男と過ごす夜は、長くて冷たいものであればあるほどよかった。私は、意地悪く勝手に、そしてできるだけ自分の意思を尊重する一夜にするつもりだった。さっきまで、それは案外たやすく手に入り、案外あっさりと過ぎていけそうだった、さっきまでは。

「帰るわ」
私はその薄っぺらいブランケットをほおって、男の手で脱がされたタートルネックのセーターを着る。
男はあっけにとられたように何も言わずに私を見つめている。
「お金、ごめん」
Guessのバッグから無造作に千円札を何枚か掴んで、ベッドの脇に置く。
「まじかよ」
男はそう言って私を睨んだ。
「変な女」
「そうかな」
「何、考えんてんのか全然わかんね」
それは、私の考えをあなたが理解できないってこと? 当たり前じゃん、そんなこと、私は思う。今日出会っただけで、私の考えを理解する? ずうずうしいにもほどがある。
「いつも、こんなことしてんのかよ?」
男に背を向けてブーツを履く私に、男の声がかぶさる。
「こんなことって、寝るってこと?途中で帰るってこと?」
「両方」
私は何も言わずにすたすたとドアに向かって歩く。饒舌になってはいけない。私は胸に言い聞かせる。明日になれば顔もおぼろげな印象のお互いに、饒舌な空気は建設的ではない。私はらせん階段を駆け下りる。男が追いかけてこないとも限らない。入り口のところだけ、およそセンスとは無関係な派手なネオンが灯っていた。そこを通り過ぎると、さっきまで飲んでいた居酒屋があり、駅がある。
もう大丈夫だ、私はようやく安堵のため息をつく。ほんの少し息が上がり、緊張していたことがわかった。ばかみたい、あの男。私もばかみたい。ばかばかばかばか。何も考えなしに、それでも本当は思い切ったことをしたのに。それは本当は私には似合わない種類のものなのに。私にはこういうこと、いっさいが似合わないはずなのに。
私は着ていたダウンジャケットののファスナーを首までびっちりと締め、ファーのついているフードもかぶった。なんとなく身なりの怪しい女に見えるだろうと思ったが、歩きながら何かをしていなくてはいられない苛立ちがあった。iPodも取り出し、とりあえずシャッフルでパンクロックを耳に流し込む。
大音量の音が耳に流れてくる。ぐんぐんとそれは、耳の奥から私の身体の芯まで染み込み、さっき男が首筋に這わせてきた唇の熱さを、あっという間に忘れることができそうな気がした。そうしたかった。
さっきのことは何もかも、あっという間にどこかへいって欲しかった。
もううんざりだ。私は思う。男も女も欲望を手にしたときから、後に引けなくなる。愛情とか情熱とか熱情とか肉欲とか発情とか激情とか、それらはどんな男と女の前にも公平に訪れ、そして公平に去っていく。男と寝る、それは私にとっては激しい怒りにも似た、たったひとつの熱波なのかもしれなかった。その衝動は、突き上げる憎悪と寂しさからなる、ふっと吹けば飛んでいってしまうような一瞬で通り過ぎる、熱波なのかもしれなかった。
そしてその熱さは、氷のように冷たい何かにも似て、私の心を今夜も激しく揺さぶり続ける。



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