logo #65のブルース ストレンジ・デイズ


私の人生の邪魔をしない、というのがその男との約束だった。
今までだってきみの邪魔をしたことなんかないよ、これからもするつもりはないと男は言った。男とは別れた夫のことで、その約束をしたのが今から11年と半年前のことだから、私と夫がそれぞれの時間を過ごすには充分なものだった。たいていのことは、10年もたつと色があせ、たいがいのことは、10年もたてば落ち着くものだと、私は考えていた。

夫だった男とは15年前に知り合った。
私の勤め先に、印刷物を運ぶ業者のひとりだった。私は総務課で、出入りの業者の搬入や搬出などに対応する窓口の仕事をしていた。勤めている会社は、そこそこ名のある中堅どころの出版社で、エリート予備軍の男たちが同期だった。同僚のOLたちは、スーツ姿の男子たちが残業を始める前に、Yシャツの腕を少し捲くる姿や、ちょっとだけネクタイを緩めたりするところに無防備な男の色気を感じる、などと騒いでいたけれど、私はそういう彼らよりも、余計な軽口をたたかず、黙々と印刷物を運び入れる出入りの業者の、日に焼けた腕の血管が青く浮き出ている男の様子に見とれていた。何度見ても飽きなかった。私は結構じろじろと露骨に視線を向けて、男の作業が終わるのをじっと見ていた。
男はそんな私の態度に最初はおずおずと、少しの時間を経てからは堂々と、照れることもなく応じ始めた。お互いの間にぎくしゃくしたものがなくなったとき、私は男と寝た。

男は仕事が終わると、仲間とビールを飲みに行ったり、家でギターを弾いたりしていた。私は誘われれば男と一緒に出かけ、家にいるときは男の横にすわって本を読んでいた。いつも男と一緒にいた。男の隣で猫のように眠り、男と一緒に煙草を吸った。男と同じ時間に家を出て仕事に行き、男とスーパーに立ち寄って晩御飯のおかずを買って帰った。もう私と男の間にはほとんど垣根がなくなったなと思った頃、私は子供を授かって男と籍をいれた。私と男は夫婦になった。男の血管が浮き出た腕を好きになったことから始まって、いつの間にか結婚をしたことがなんだかおかしくて、私はまだお腹の中にいる赤ん坊に手を当てながら、ときどき含み笑いをした。ふふふ、なんだかおかしいねえ、こうして物事って進んでいくんだねえ、と。私は幸せだった。思わず含み笑いをしてしまうほど、私は幸せに暮らしていたのだった。

どうしてうまくいかなくなったのか、男は寡黙でありながらいつも女の影がちらついていたし、私は私で初めての子育てに苛立ちを隠せなかった。うまくいかなくなることの理由はひとつではない。最初はひとつだけだったはずなのに、気がつくと問題は山積みでどっちの方向に向いても行き止まりしかなかった。
もうどうにも関係が修復できそうもない頃、男はある日男友達から借りたと言って軽自動車を運転しながら帰宅したことがあった。しばらく乗っていて大丈夫だからと説き伏せられ、見知らぬひとの見知らぬ車に乗って、男と私と赤ん坊は買い物に行った。ダッシュボードの上に小さな犬の置物があった。男友達はよほどの犬好きだということだった。いくら犬好きの男でもダッシュボードの上にちょこんと乗せられたそれは、男が選んで置いたりするものには見えなかった。自分の男は、そんなわかりきった嘘を私に平然とつくまでになっていた。翌日、私は洗濯をするために男のジャケットを手にし、そこについていた犬の毛を丁寧に払った。指が震え、体が震え、自分自身が震えた。飼い犬の散歩をするほどの仲の女がいる。私は全身から力が抜けていった。
男は、とうとう私の男ではなくなった。夫は、もう他の誰かのものだった。
それまでちらちらと女の影があったとき、男がすぐに私の元へ戻ってくることはわかっていた。男の態度はあからさまに浮かれていてそれを隠そうともしなかったし、むしろ妻に察してほしいくらい見え透いた様子だった。私は少しの嫉妬と怒りをくすぶらせてはいたが、それは激しく自分をうちのめすほどのことではなかった。自分の元に帰ってくるのがわかっていれば、なんとか私は生きていけた。
しかし、今回は違うと私は思った。今回だけは、男は私の男ではなくなり、しかもそれをよしとしていることが、はっきりとわかったのだった。車を共有し、犬の散歩まで請け負っているのなら、それはもう一緒に生活をしているのと同じだとわかったのだった。

男と知り合ってからの私は、起きている時間も寝ている時間も男を中心とした生活だった。
私はそれで全然構わなかった。自分の生きている時間をすべて男に捧げても、本当に私は全然構わなかった。
それほど私は男を好きだった。人生を、男と一緒に生きるつもりだった。そういう私の毎日を、私の気持ちを、私の生きかたを、私は自分の手で終わりにさせなければならなかった。
それは恐ろしいほどの喪失感と、失うことへの恐怖感と、はっきりと突きつけられた挫折感と、奈落の底へ突き落とされた虚無感が、渾然一体となって私の心の奥底に入ってきた。濁流に飲まれるように、私の心はぐるぐると渦を巻き、泡をたて、沈み込んだ。
ああ、私は強く思った。この男は一瞬にして私からすべてを奪った。それなのに、のうのうと生きている。別の誰かに恋をして、飄然と生きている。そんな男は自分の目の前から消えてほしい。どこかにいってほしい。いなくなってほしい。死んでほしい。いや、死なれては困る。死なれたら、この瞬間でこの男との関係が終わってしまう。そんな終わりかたはみっともない。
哀しすぎる。つらすぎる。苦しすぎる。過不足のない、尚且つ、生きていくのに最善で的確で重要で最短な方法は、私が別の生きかたを模索し男と訣別して生きていくことだけだった。
私にはもうそうするしかなかった。強い意思を持って乗り切らなければ、どうにかなってしまいそうだった。だから私は男に言った。
私は自分の人生を生きる、もうあなたのためには生きない、そしてあなたはこれからの私の人生を決して邪魔しないでください、と。

赤ん坊とふたりで始めた生活は、思いのほか私の水に合っていたようで、私は軽快にシングル・マザーとしてのスタートを切った。本当に軽快なのかは怪しいものだったが表層部分だけでも軽快にしていると、どうにか気持ちが落ち着いた。私にはやるべきことがたくさんあり、泣いているだけでは生きていけなかった。そうして生活を改め、男との生活の匂いを振り払うと、頑なに閉ざしていた自分の心も自然に凍解していくような気になった。デートに誘われたりするようになった。数年間、夫だった男との生活しか知らなかったから、他の男とお酒を飲んだり、ボウリングに行ったりするだけで華やいだ気持ちになれた。嬉しかった。誰かと恋をしたいなと思うようになったことも、他の男たちから恋の対象と見られたりすることも、嬉しかった。
私は髪に軽くムースをつけて支度をし始める。マニュキュアの点検をしたり、ブーツのかかとを気にしたり、お気に入りのカッターシャツにアイロンをかけたりした。
そうすると、決まって男から電話があった。それはどうという他愛もないことだった。赤ん坊は元気にしているか?とか俺のほうの仕事は順調だとか、本当に普通の世間話で、だからこそどうしてこんな日に電話をしてくるのだろうと私は思った。

どういうことなのか、男には特別な嗅覚があるらしかった。別れてからこの11年と半年、男が思い出したように電話をしてくるときは、決まって私が恋人と出かける直前の時間だった。男は私が暮らしている街からずいぶん離れたところにいるから、どこかで見張っているというわけでもなさそうだった。ありえない、私はいつもいつも苦虫を噛み潰したような暗い気持ちになった。
自分の子どもの父親だから、男のことを忘れることはないけれども、だからといって毎日男を想って生きているわけではなかった。あれほど男のことを好きだったから、私はずいぶん長い間男の幻影におびえて生きていた。いくつかの短い恋をした。恋が深まっていく頃に、男の電話があり、そうして新しい相手と口論になり、終わっていった。男のせいだけではないとも思う。けれども男のせいでもあるとも思えた。男はいつも、俺は特定の恋人はいないんだけどきみは?と聞いて来た。男に現在恋人がいようがいまいが、今となっては私にはどうでもいいことだった。
もう10年以上たった。まったく無理をしないで、男と暮らしていたことがずいぶん昔の思い出となっている充分な時間だった。私は男も自分と同じような気持ちでいるものだとばかり思っていた。恋人のことなんかどうでもいいのに、と私は思った。それ、今、必要なこと?と私は言った。
すると、絶対きみは彼氏いるだろう?いつだって男がいるじゃないか?今度はどんな男だ?男は妙に粘っこい口調で重ねて聞いてきた。どんな男か言わなくちゃいけない?私の人生の邪魔をしない約束でしょう?つっけんどんに私が答えると、ああそうだった、悪かったとまるで悪びれずそんなふうに男は謝った。

私が男のものではなくなったのは、いつだったのだろう、と私は考える。
男が私のものではない、と悟ったあの瞬間、私はまだ男に捕らわれていた。心も身体も男のものだった。男と別れたあと、最初の恋をしたときは、まだ完全に夫だった男のことを忘れてはいなかった。あのときの恋人には申し訳ないことをしたと思う。でもそのときの私はまだ男のものだった。でもそれ以降のことはわからない。男のものだったのかもしれないし、そうでなかったかもしれない。たぶんいつ、なんてものはなく、自然に男から心が離れていったのだろう。
しかしそれは全然おかしなことじゃないはずだった。時間は人を解き放つものだし、そして人はたとえ絶望の縁に立たされても、時間と共に気持ちが変わっていくことは間違ってはいないのだ。
私たちは限られた時間の中で生きている。生きていくためには、残された時間の中でなんとか折り合いをつけていかないといけないのだ。

男は、私が男のものじゃなくなった、そのことを自覚してから私に執着しはじめた。
男の中では10年たとうが何年たとうが、私は男のものでなければならないのかもしれなかった。
自分のものではない、それをはっきりと確認して、そこからすっきり訣別すべきなのに、男はまだそれを始めていない。フェアじゃないなと私は思う。私はあの苦しみの中、ひとりで闘って膿を出し、傷口を自分で縫合しながらこの場所に戻ってきた。ひと針ひと針、傷口から膿が出ないようにそっと縫いあわせて、ようやく元の場所に帰ってきた。それなのにこの男ときたら、今でも目の前の孤独から目をそらしている。
男の中の流れる時間と、私の中に流れている時間はもう一致していないというのに。

そんなことはとうにわかっているくせに、はっきりと男にそれを告げず、男の様子をじっと見ている。初めて男の腕を見つめたあの視線で、私はただ男の様子を眺めている。



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