logo #64 麗しのドンナ・アンナ


どうやら終電に乗り込めそうなので、もしあなたがまだ眠っていないなら駅まで車で迎えに来て欲しい、遠慮がちに君は僕にメールを送ってきた。僕は、仲間内で盛り上がっている内輪のブログの原稿を書いている作業中で、ちょっと中断すると集中が切れるかもなと思い、でもここで一息つくのも悪くはない、そんなふうに思い直し、車のキーを手にして家を出た。迎えに行くといったって、歩いたって15分ほどの距離だから、僕の中古のホンダはあっという間に駅についてしまった。
ヘッドライトを落としてスモールライトだけ点灯させ、駅前のロータリーに停車している列の最後尾に車を滑らせて、君が階段を下りてくるのを待った。ぽつぽつと雨が降り始め、駅のホームに目をやると、上りの列車がちょうど入ってくるところで、ボリュームを落としたカーステレオの低いジャズをかき消すように大きな音がして扉が開き、人々がその扉を押しのけるようにいっせいに電車から降りてきて、一様に無表情で無言のまま階段を上り始めた。彼女は下りの列車だからあと数分で着くだろう、僕はシートを少しだけ後ろに下げて、見るとはなしに表情のない彼ら彼女らを眺めていた。僕が待っている出口はコンビニもなくあまりぱっとしないほうの出口だったから、平日の終電ということもあって、乗客はさほどいなかった。最初に足元をふらつかせて酔った感じでネクタイを締めた会社員風の男が下り、次に制服姿の女子高生が大きなストラップをぶらぶらさせて携帯の画面を見つめながらやってきて、そのあとは細身の若い男と小柄なOL風の女性が腕を組んで出てきた。

あれ?
その小柄なOL風の女性に見覚えがあった。1年ほど前になろうか、僕がまだ彼女と暮らす少し前だ。こちらの出口の反対側にあるケーキ屋に僕はいた。僕と彼女はどちらかがどちらかの部屋を訪ねるときに、大概が何か手土産を携えていた。つきあい始めて2年くらいたっていたけれども、手ぶらで部屋を訪ねるのは気がひける、という僕らはいつまでたっても遠慮がちな恋人同士だった。
僕はその日、前回がワインだったから今日はケーキにしようと思いたち、以前から気になっていた駅前の商店街の中でもひときわ老舗っぽいそのケーキ屋へ立ち寄った。チェーンストアのケーキショップと違い、地元のひとたちから長年愛されているといった感じのそのケーキ屋は、出入り口の自動ドアとショーウィンドウの幅が極端に狭く、店に入ったら絶対何か買わないでは出られないといった多少の圧迫感があったが、手書きでかかれたウィンドウのお品書きは温かさがあった。
「いらっしゃいませ」
若い女性が笑顔で僕を出迎えてくれた。僕は小さく頭を下げ、ショーウィンドウに整列しているケーキたちに目をやった。彼女は世界中の食べ物の中でも特にチョコレートを愛していたから、ここはやはりチョコレート・ケーキにしようか、それともやはり手土産の王道のショート・ケーキがいいだろうか? ケーキを1つづつだけ、というよりもこのホールのアップルパイのほうが無難だろうか? 僕はかなり真剣に頭をフル稼働して考え始めた。すると何か笑い声がしたような気がして、僕は顔を上げた。
ブルーのエプロンと三角巾を頭に巻いた店員の女性が笑顔で僕を見ていた。
「あ、ごめんなさい、笑ったりして」
「いえ」
「あんまり真面目に悩んでいらしたので、なんとなく微笑ましくなってしまって」
その女性はそんなことを言った。僕よりもいくつか年が下のような気がしたが、落ち着いた物腰で綺麗な日本語を話すひとだと思った。
「こういうとき、何がいいかいつも迷うんですよ」
普段こういう場面では、僕はあまり軽口をたたくことはしない。それなのにその女性の笑顔につられついつい僕はそんなことを話していた。
「男性のお客様はそういう方多いですよ」
女性は何かトレーニングでもしているのか、口の開け方も大変品があって思わず僕は店員の女性の口元をじっと見つめてしまったほどだった。
「あの」
「はい」
「何か日本語が非常に綺麗に聞こえます」
僕はどうしてもそう言わずにはいられなくなりそんなことを言った。
「ありがとうございます」
唐突な僕の発言に彼女は特に驚いたふうもなかった。
「何かそういうお仕事でもされているんですか」
やれやれ、なんだか口説いているみたいじゃないかとちらっと頭の隅で思いながら僕は尋ねた。
「はい。本職は日本語教師です」
きちんとした口調で彼女は僕に言う。それは、彼女のほうは口説かれているんじゃないかなどとはまったく思っていないという様子のきちんとさ、だったから僕は少し安心した。
「日本語教師、ですか?」
「はい。在日外国人の方々に日本語を教える職業です」
「ああ、なるほど。だから口の開け方も綺麗だし、日本語そのものも綺麗なんですね」
「本当ですか? そんなふうに聞こえますか?」
「聞こえます。だからお尋ねしたんです」
嬉しいです、はにかみながらその女性は本当に嬉しそうに笑った。
「普段そんなこと、生徒たちからは言われませんから」
そう言って、ありがとうございます、と頭を下げた。
「日本語を教えている方がどうして今ここでケーキを?」
僕も笑顔のまま彼女に重ねて尋ねると、彼女はふふふと含み笑いをし、ケーキを入れる箱やリボンを触りだし、それ以上は何も答えなかった。わずかな間があいた。ああ、やってしまったかなと僕は思った。少し立ち入りすぎたのだった。ただケーキを買いに来た客に話したくない何かがあるのはあたりまえだ。話の流れで思わず余計なことを聞いてしまい申し訳ないことをした、と僕は思った。
しかし、すいませんでしたと急に謝るのも、あなたが話したくないこともあるのはわかっていますよ、といったサインを送るようにも思え、それもまたずうずうしい気がして僕はそれ以上何も言わず小さな会釈をし、結局チョコレート・ケーキをふたつと、ブルーベリー・チーズケーキをふたつ購入した。
「ありがとうございました」
小さくて清潔なケーキの箱を抱えて店を出るとき、店員の彼女は元のあのはっきりとした口調で笑顔も戻っていた。

それから何度かそのケーキ屋に足を運んだ。彼女が店先に立っているときもあったし、そうでないときもあった。僕は彼女が立っているときは殊更ていねいに会釈をした。それを彼女が気づいていたかどうかはわからない。僕たちはあの日以来何かを話したことはほとんどなかった。誰もが触れて欲しくないものを持っている。うっかりそこに触れそうになったら、何も言わずに立ち去るだけだ。
それでいい。人生の大部分はそれでいいことになっている。
ピロピロと携帯のメールが鳴った。
私の乗った終電は急病人が出たためいったん止まっていたのだけれど、今再び動き出しました。あと5分ほどで駅に着きます、と彼女は送ってきた。了解です、と僕は返信し、細身の若い男と腕を組んでいたOL風の女性の後ろ姿を目で追った。ケーキ屋さんの店先に立つ、日本語教師を職業としているあの女性は、OLのような身なりをして今細身の若い男性と腕を組み、ケーキ屋がないほうの出口に降り立った…、なにもかもが全然一致していなくてまったくわけがわからなかった。
でも僕はあの女性の売るケーキをときたま買うだけの客で、そうして今恋人が電車に乗って帰ってくるのを駅の前でじっと待っている、ただそれだけの男だから、あの女性について考えても仕方のないことだった。そんな考えても仕方のないことを、ひとはときどき考える。こんな小雨が降る静かな晩、車の中で誰かを待っているときは尚更そうだ。
彼女が帰ってきたら、僕は穏やかな気持ちで彼女を抱きしめてあげよう、僕はふとそんなことを思いついた。今自分にできることを今僕は彼女にしてあげる、優しい気持ちになってそんなことを思っていた。



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