logo #63 Tomorrow


10才のときにシンちゃんは初めて私の目の前に現れた、転校生として。
「おれシンっていうんだ」
と学級委員だった私にシンちゃんはそう名乗った。前髪がさらっとしていて横分けだった。東京の23区のどっかの区から来たという噂は本当らしく、クラスの男子たちはたいていが坊主頭なのに、その前髪はちょっとおしゃれな感じがした。
「あたしはミミ、よろしく」
シンちゃんの都会っぽさなんか全然気にならない、というふうに振舞いたかったので私は学級委員であることを少し強調したような高圧的な言い方をした。
「よろしくな」
そんな私の子供っぽさを知ってか知らずか、シンちゃんは笑顔を見せながら握手を求めてきた。男子と握手する、ということをクラスメイトたちが見たら何か言いそうな気がしたけれど、シンちゃんはいたって平然と手を出してきたから、私も手馴れたふうに右手を差し出した。私たちは握手をした。
シンちゃんの手は、骨ばっていて思春期の入り口に立ち始めた男のそれで、私の手のひらの何倍も大きくて温かかったことを私は今でもよく覚えている。

市内の同じ中学校に進学したけれど、3年間一度も同じクラスにならなかったせいか、中学時代の私とシンちゃんの思い出はあまりない。ただ廊下ですれ違ったりすると、シンちゃんはあの人懐こい笑顔で、
「よう、ミミ」
と声をかけてきた。小学校を卒業するまでは私とシンちゃんは家が近所だったこともあってよく一緒に登下校していたから、なんとなく幼馴染に近い感覚で、私も、
「シンちゃん、なんか久しぶり」
などと、10代の子供たちが大人ぶってよく使う、久しぶり、元気?を連発して軽く立ち話をした。シンちゃんは背はあまり高くなかったけれど、野球もサッカーもバスケも上手で明るい性格だったから、どんなタイプの女子にも人気があって、そういう相手を前に親しげに振舞うとたいてい女子たちの強烈な嫉妬に巻き込まれて面倒になるため、立ち話といっても本当に専業主婦の井戸端会議のような、どうでもいいことを大きな声で言うくらいで済ました。たぶんそんなふうにいつもそそくさと話を切り上げる私の立場もシンちゃんはよくわかっていたと思う。自分が人気がある、ということを自慢するのではなく、自覚している男だった。

高校は別々の都立高校に進学した。お互いいくつか駅を乗り換えて通学する場所だったけれど、放課後友人たちと寄り道をしたり街をほっつき歩いて帰宅する途中や、朝寝坊をして電車を1本か2本遅れて乗ろうとしたりすると、よく駅でばったりと出会った。お互い同じような生活をしていた。
もうこの頃は、私とシンちゃんが電車で仲良く話しながらそれぞれの高校へ通学していても、噂をたてる女子軍団もいなかったから、私たちはいろんな話をした。シンちゃんはその頃、バイクの免許をとりたいからバイトを始めていて、それでクラスの中に好きな子がいるから免許をとったらその彼女を後ろに乗せて海に行きたいと言っていた。
「ミミは?」
「なにが」
「彼氏」
「うーん、なんとなくうまくいってない」
私は高校1年のときからサッカー部所属の彼氏がいたのだが、彼の友人で最近ギターとアンプを買って猛烈にストーンズをカバーしている別の男子のことを好きになってしまい、そのことで揺れていた。
「ちゃんとしなきゃ、ミミ」
電車で話しているといつの間にか私が見上げるくらいの身長になっていたシンちゃんは、私の頭を小突いた。
「わかってる」
「二股はよくないぜ」
「だからわかってるってば」
私が口を尖らせぷいと横を向くと、なんかあったら電話くれよな、少しは力になれるぜとシンちゃんは笑った。

私は大学に進学したが、シンちゃんはしなかった。かと言ってきちんと就職をしたわけではなさそうだった。その頃は私も授業にバイトにサークルに、と目まぐるしい学生生活を送っていて毎日忙しくて楽しくて、幼馴染に近いシンちゃんのことを考えていることは少なかった。家の近所できどき見かけることはあったけれど、どうやらシンちゃんは実家暮らしをやめているようで、必要なものがあったりすると戻ってきているみたいだった。
「今何やってんの? シンちゃん」
「いろいろ」
「どこで働いてるの?」
「あちこち」
「ちゃんと教えてよ」
私がそう言うと、シンちゃんは真顔で、
「じゃあミミは、おれに大学の話を全部するのか?しないだろ?」
と聞くのだった。
「確かにしないけど」
「だろ?お互い違うところで生きてんだ、今は。細かい話をしたってしょうがない」
シンちゃんは何か投げやりで陰鬱そうにそう言った。中学時代のきらきらした面影はそこにはなかったけれど、余計なことをうっかり言わない青年になっているようだった。

私の就職先は都内の広告代理店に決まった。多摩地区の私の実家から、勤め先まで1時間半の通勤時間だったが、私は住まいと仕事は別とわりきって職場に近いところで暮らすことはしなかった。早い時間に起きて、夜遅くになって帰ってくる。その代わり週末はたっぷりと地元で過ごすことが多かった。
相変わらずシンちゃんとは、ドラックストアや道端でばったり出会ったりしていた。シンちゃんはトラックの運転手とか大工とか鳶とかそういう仕事を転々としていた。転々としているくせに、仕事をしていないことは一度もなかった。就職して3年もたつと、今度は地元の飲み屋で鉢合わせすることが多くなった。飲み屋でシンちゃんと遭遇すると、たいがいお互いの連れも一緒に別の店に飲み直しに出かけた。3軒めはたいていカラオケに行き、朝方になってふらふらしながら帰るのだった。朝もやの中しらじらと夜が明け始める頃、シンちゃんと私は酔っ払って同志のように肩を組みながら大声で歌を歌った。
「ミミ、おまえ小学校の校歌は歌える?」
「えー、覚えてないよ」
「なんで? おれなんか転校生で3年間しかいなかったけど、まだ歌えんぜ?」
「うそだあ、じゃあ歌ってみー」
「♪むさ〜しの〜の〜」
「あ、本当だ。すごいなーシンちゃん」
私たちはさほどおかしくもないのにげらげらと笑いながら、校歌を歌った、何度も何度も。

そうして私は30才のときに結婚をすることになった。相手はシンちゃんの知らないひとだったけれどシンちゃんは結婚式にも2次会にも出席してくれた。久しぶりにシンちゃんのスーツ姿を見た。あまり似合っていなかった。しかし久しぶりのスーツ姿、と思ったのだがよくよく考えてみるとシンちゃんのスーツ姿なんか見たことなかった。学生時代の制服姿と普段着しか知らなかった。まだ私の知らないシンちゃんの姿があったことに驚いた。この話は、私が結婚している最中、よくシンちゃんと飲みに行っては酒の肴にした。この頃は本当にシンちゃんとよく飲みに行っていた。私の結婚生活があまりうまくいっていないことを、シンちゃんだけはよくわかっていたからだと思う。具体的な内容は話さなかった。でも私からシンちゃんに電話するとシンちゃんは何も言わずに、いつも飲み屋で待っていた。
とうとう結婚がだめになったあの日も、私はシンちゃんに電話した。
「シンちゃん?」
「ミミか、どうした」
「あのね、やっぱりだめになっちゃった」
「そうか」
「だから、あのちょっと飲みたいなと思って」
それだけ言うと私は嗚咽した。手に持っている電話器も震えていた。シンちゃんは私の嗚咽が終わるまで何も言わなかった。ようやく我に返って深呼吸をし、
「ありがとう、ごめん」
と言うと、
「じゃ、いつものとこで。30分後」
シンちゃんはそれだけしか言わなかった。

それから数年して、私は再び結婚することになった。私は正直なところ複雑な気持ちのままの再婚だったからほとんどのひとに報告しなかった。できればしばらく誰にも知られたくないという気持ちでいた。シンちゃんにも言わなかった。なんとなく言う必要のない気がしていたのだが、その予感はまた悪夢のような結末を迎えたときに、これがあるから私は言いたくなかったのだなと思ったものだった。もうだめになるのも2回目だから私はたいしてショックを受けないだろうとタカをくくっていたのだが、そんなことはまったくなくて、私は生きていく気力をなくし、勤め先も辞めた。
しばらくひとりで悶々としていたが、このままでは自分が壊れていくような恐ろしさに耐えかねて、私はしばらくぶりにシンちゃんに電話をした。
「ずいぶんごぶさただな、ミミ」
シンちゃんは相変わらず具体的なことは聞いてこなかった。
「シンちゃん、あたしこないだまで結婚してて」
「そうなの?」
「うん。それでね、まただめになっちゃった…」
私は早口でそう言うと、そのあとの言葉を続けることができなかった。わかっていたことだけれどシンちゃんは何も言わなかった。電話口の息遣いで私の言葉を待っていることもわかっていたから私はいつものように繰り返した。
「シンちゃんと飲みたいんだけど」

今、私は金屏風の前でものすごく晴れやかな笑顔を見せているシンちゃんを見ながら、今までシンちゃんと出会ってからのことを思った。すっかり目じりに皺がたくさんできてしまった花婿は、5歳下のお嫁さんになるひとよりもずっとずっと嬉しそうな表情を浮かべていた。キャンドルを持って各テーブルを回る新郎新婦は、私のテーブルに来たときに、
「ミミ、これからもよろしくな」
と言い、
「ミミさん、これからも長いお付き合いをさせてくださいね」
と小さな声で囁かれた。
「シンちゃん、おめでとう」
私は心からシンちゃんにそう言った。
「なんだかシンちゃんってずっと結婚しないような、でもいつか急にぱっと結婚しそうな、そんな気がしてた」
「なんだ、それ」
シンちゃんはそう言いながら私から顔を背けた。
「おれ、やばいからミミのこと今見ないようにしてる」
「えっ」
「だめ、こっち見んな」
シンちゃんはおかしなくらいまったくあらぬ方向に顔を向けていた。
「そいでおまえも絶対泣くなよ。もし泣いてもその姿、おれに見せんなよ」
「もう何言ってんのよ、今ここで」
そう言った私の声も震えてしまい、私はうつむいた。
「あたしの前で泣いたことなんかないじゃない、シンちゃん」
「だから、やばいんだよ。もう40年近くおれたち一緒だから」
そんなに長い間、私とシンちゃんは生きてきたのだった。こんなに長い時間をかけて、私とシンちゃんは一緒に大人になったのだった。
「うっ、うっ」
先に泣き出したのはお嫁さんだった。お嫁さんはシンちゃんと出会ったときから私の話を聞かされて、先週一緒にご飯を食べたときも、ミミさんの前ではシンイチさんがボロボロになりそうでそれが一番心配です、と話していた。
「す、す、すいません」
お嫁さんは謝りながらキャンドルを点火した。テーブルの真ん中のキャンドルにぽうっと火がつき、おかしな姿勢の花婿と泣きじゃくる花嫁は隣のテーブルに移って行った。私はうつむきながら二人の後姿を確認して、ようやく顔を上げた。信じられないことに私とシンちゃんはもうすぐ50才になろうとしていた。本当に信じられないくらいにあっという間に50才はやってきたのだった。
10才で出会って握手したシンちゃんは、今隣のテーブルで泣き笑いの表情を見せている。ぼたぼたっと涙が頬を伝った。こういう幸せの瞬間を確かめるために、私とシンちゃんは出会ったんだろうな、私はそんなことを思った。おめでとうっていい言葉だな、私はそんなことも思ったのだった。



Copyright Reserved
2009 Baby Julia / Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com