logo #62 楽しい時


階段の踊り場でナカにつかまったとき、おれは今日はいったん家に戻ってちょっと寝てそれからバイトに行くから時間ない、とはっきり言えばよかったのに、ナカがあんまり何度も、
「なー頼むから一緒にブック・オフ行ってくれよぉ」
としつこく誘ってきて、しかもとうとうとう、
「今日つきあってくれたら、おれバイト代入ったからバンちゃんの分のCD持つからさあ」
とまで言い出したから、仕方なくいいよと言ってしまった。
「やった、バンちゃんまじでいいの? ありがとなー」
ナカこと田中は嬉しそうにおれの背中をばしばしと叩いた。
「あのさあ」
「何?」
ナカは子犬のような目をおれに向ける。
「おまえ階段の踊り場で誰が聞いてるかわからないからって、声高にブック・オフとか言ってるけどさあ、訂正必要じゃね?」
「でもブック・オフもちょっとは寄るじゃん、目的は隣のコンビニだけど」
「だろ?」
「どうせ行くんだから同じことっすよ」
ナカは腰下までかなり下げた制服のパンツを少しだけ上にたくしあげ、だらしなく横に曲がっているネクタイを直した。
「念入りにさ」
へへへとナカは笑った。そのわりには唇の正面向かって右側にヒゲの剃り残しがあった。
「バンちゃんだって、たまにはあの娘見たいだろ?」
ナカは脱色した髪をさらっとかき上げながらへらへらと笑っておれを横目で見る。
「おれは別にタイプじゃないもん」
「とか言っちゃって」
「いや、まじで」
「かわいくない?」
「そうは言ってない。タイプじゃないだけ」
「じゃ、かわいいとは思うだろ?」
「かわいいと言うより美人系?」
「美人系! バンちゃん、そりゃないよ。おれが先だかんね。まじ申し訳ないけどおれ譲れないから」
「おまえ何ひとり先行しちゃってんの?」
ナカは学校の最寄り駅の前にあるブック・オフ横のコンビニでアルバイトをしている、遠山さんという女の子に恋をしている。遠山さんは週一回のペースで夕方からバイトに入り、今日はその遠山さんの出勤日だ。高校は沿線の私立の女子高のようで、他の情報はあまりない。しかしたったこれだけの情報をゲットするのに、ナカはあちこちの友人たちにもう20本以上はコーラをおごっているらしい。
遠山さんは色白の清楚な感じのする面立ちで、少し優雅な雰囲気のあるひとだった。
「でもそんなに遠山さん、遠山さんって、あいつとはどうなってんの? エリ」
「エリ? とっくに終わってるよ」
ナカはふんっと顔を背けた。
「でもエリとナカってなんか似合ってたけどな」
おれがそう言うと、
「バンちゃん、おれと遠山さんとじゃ似合わないって言いたいわけ?」
ナカはきっとした視線でおれを睨んだ。
「じゃおまえ、率直に言って自分ではお似合いだと思ってるわけ?」
「お似合いっていうと語弊があるけどさあ」
「ほらな。おまえのその髪とか腰パンとかさあ、エリみたいな派手な感じの女の子とつりあうんだよ」
「あいつ髪盛りすぎ、キャバでバイトしてるし、もうやだ」
「でもおまえのキャラって絶対エリ系だよ、遠山さんってちょっとロックっぽくないっしょ?」
「おれは別にロックな女が好きなわけじゃないよ。パフュームだっていいと思うしさー」
「てか、遠山さんってパフュームでもないだろ」
ナカが言い返してくると思ったら何も言って来ないので、あれ?とおれはナカに顔を向けた。おれたちは話に気を取られていたが気がつくとその目的地のコンビニの前まで来ていて、ナカはレジ前でバーコーダーを持つ遠山さんをじっと見つめていた。
「ナカ」
「あ?ああ、何?」
「なんか、こわっ」
「へ?」
「ストーカーみたい、おまえ」
そんなおれの言葉を聞いているのか聞いていないのか、そのときナカはふっと突然陰りのある表情を見せて下を向いた。
「なんだよ、大丈夫かよ?」
ナカはまだ下を向いたまま、
「バンちゃん、おれ苦しい」
と小さな声でそんなことを言う。
「苦しい?」
「うん。おれ遠山さんのことすごく好きなんだと思う。だから見てると苦しくなる。ずっと見ていたいのに見ていられなくなる」
「はーあ? なんかすげえなおまえ」
「バンちゃんわかる? 苦しいって意味」
ナカは薄くため息をつき、
「そんなに苦しいのに、彼女を一瞬でも見れるこの瞬間ってさ、素晴らしい時間だよな!」
と今度は少女みたいにうっとりし、
「やばい。なんとかしなきゃ。好きすぎてやばい」
うんうんとひとりで頷いて考え込んでいる。おれはナカの気持ちの振幅に呆然としつつ、それでもこの友人に気の利いたことを言ってあげるボキャブラリーもなかったから、
「おい、先にブック・オフ行こうぜ。いったん気持ちを切り替えたほうがいい。おまえ、おれにCD買ってくれるんだろ」
と最初の約束を果たしてもらおうとした。それなのにナカは授業中には一度も見せたことのないような小難しい表情をしてじっと考えこんで動かない。
「ナカ、おれあんまり時間ないんすけど?」
「あ゛〜〜〜〜〜」
突然ナカが奇声をあげた。
「もうだめだ。苦しくて苦しくて息をするのも苦しい。このままじゃだめだ。おれだめになっちゃう」
そんなことを大きな声で叫び始める。
「ナカ! 落ち着けよ」
「毎日毎日他のこと考えられなくて、何をやってもすぐ頭に彼女のことチラチラ思い出したりしてなんにも集中できない。こんなの、もうだめだ」
「わかったから、落ち着けって」
ナカをなだめて、おれたちはコンビニの入り口の横のゴミ箱前にしゃがみこむ。
「おまえ、格好悪いんだろ、こんなとこで」
「格好なんかどうだっていい。好きな気持ちを抑えられない」
「抑えながら次に進むんだよ。ちゃんと考えろ」
「考えてるよ」
「頭使え」
「頭なんか使ったって、好きなときは好きだし、苦しいもんは苦しいんだ」
「それでも、頭を使うんだよ。頭使うと、うまくいかないものもうまくいくときだってあるんだよ」
「なんかそれ、ダメを前提とした言い方」
「ネガティブにとんなよ、いちいち。おまえ初めて女とつきあうわけじゃないんだからさあ」
「初めてつきあうわけじゃないけど、こんなに人を好きになってこんなに苦しくなってこんなに自分を抑えられないのは、初めてだ。初めてすぎる。信じらんね。だって今おれ泣きそうだもん」
「ばか」
「ばかでいいよ。ばかで」
「本当、ばか」
「ばかです」
「遠山さんはおまえのことなんか、これっぽっちも知らないんだぞ?まだなんにも始まってもいないのに、泣くんじゃねえよ」
「泣きたくて泣くんじゃない。勝手に涙が出てくんの」
「あーあ」
ナカは完全においおいと泣き始めていた。なんだよ、これ。どういうシチュエーションだよ、まったく。
ありえね。17才の男子が二人、こんなところで。
「涙のふくろ」」
ナカはうずくまって腕で顔を隠しながら、くもった声でぼそぼそと言った。
「は?」
「目の下に涙のふくろがあるだろ」
顔を上げないまま、ナカはそんなことを言う。
「おれはあの涙のふくろが膨らんでいる顔が好きで。涙のふくろがあると信用しちゃうんだ。ほかのやつはわかんないけど、おれは涙が好きなんだ。自分でもよく泣くし、泣く女も好きだ。嘘泣きをする女だって大好きだ。だからあの涙のふくろが膨らんでいる顔は、ああこのひとはよく泣いてしまうんだろうな、だって涙のふくろがたっぷりだもんなって思うんだ」
「ふうん」
「それでおれは遠山さんを初めて見たときに、そこにやられたんだ」
「涙の」
「ふくろがさ」
ナカは別に頭がおかしいわけでも気が狂ったわけでもなく、本気の恋をしたんだなとおれは思い、もう一度ナカが何かを言うまで黙っていた。泣いているナカの横で、おれは所在なげにしゃがんだまま無言で道行くひとを眺めた。ナカにえらそうなことを言っても、本当のところおれにはよくわからなかった。つきあう前から泣くほど好きになるような恋などしたことがなかった。この先そんな恋をするのかもわからなかった。そういう恋をしているナカをうらやましいとも思わなかった。ただナカはなんだか無邪気でいるようで大人のように誰かを見ているのだと思った。それはなにやら自分がスタート地点で靴の紐をぐずぐず結んでいる間に、ナカはずいぶん先まで走っていってしまったようような気がした。
「バンちゃん」
ナカはまだ顔を上げない。
「帰れよ、おれのことはいいから」
たぶんもう泣いてはいない。ただ顔を上げづらくなっているだけだ。
「いや、いいよ、まだ」
おれも別にナカの顔をのぞきこむようなことはしない。ただ漠然と通りを眺めたままそう言う。
「バイトだろ」
「うん。でももう少しここにいる」
ナカが頼りなさげで心細いのはかわいそうだとおれは思った。ふと、こういうときタバコとかあったら吸うんだろうな、もっと大人になったらおれはこういうとき思い切り吸うだろうなと思った。



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