logo #60のブルース 君が気高い孤独なら


10才年が離れた男と暮らしている、と言ったらあなたは驚くかと思っていたのに、そうかとただ言っただけだった。
「そういうリアクションだけ?」
「他に何が言える?」
「久しぶりなのに」
「だからなんだっていうんだ」
苦笑しながら少し長くなっている前髪をかきあげたその腕は、かつて私が愛した血管がくっきりと浮き出た働く男のそれで、ふと懐かしくいとおしい気持ちになって私はしばし見とれた。
「それで君は明日からの入院に、どうして俺の手が必要なの?」
「彼の都合がつかなくて」
私は男の腕から目を離し、顔をあげた。きっぱりとした表情の男は、一緒に暮らしている年若の男が持ちえていない落ち着き払った様子で私を見つめていた。昼下がりだというのに妙に薄暗い照明のカフェで、私はかつての夫と向き合っていた。
「都合がつかないんじゃないんだろ、それ」
「……」
「都合をつけないんだろ、相手が嫌がって」
このひとはそういえばいつも単刀直入なひとだった、私は思い出す。小気味が良いくらいにはきはきと発言をし、行動をし、自信に満ちていた。正しくても間違っていても、何かブレがない、そういうひとだった。
「そうなのかな、よくわからないけど」
目の前で私の答えを待ってじっとこちらを見つめる男の視線に、私は少したじろいだ。自信に満ちた相手が現れると、私はいつも自信がなくなった。私たちが別れた理由もそういうことだった。あなたはいつもそうやって自信満々で生きていて、私のように心細い気持ちになったりすることがないんだわっ、私はそんなことをこの男の前で泣き喚いた。俺がいつ自信満々だよ? 勝手に推測すんなよ、独断と偏見だよ、それ。だからわかってないのよ。ああ、わからないよ、抽象的な理由で泣いたりする女のことなんか全然わからないよっ…、私は目を閉じて、当時の自分とこの夫だった男とのやりとりを思い出す。
時間がたてば、記憶に刻まれるケンカほど幼稚なものはない。むしろ微笑ましいくらいだ。未熟な大人同士が愛し合い、成熟さを待ち切れずに別々の道を選んだ。ずいぶん前のことだ。別れてからはときどき会って近況を報告しあうようになった。友だち同士には決してなれない。乾いていて、けれどもその熱さをお互いが熟知している、というような関係だったから友だちとは容易に思えなかった。そんな関係になっているこの男を急いで呼び出したのは私からだった。どうしても今向き合わないといけない状況になっていた。
「それで、なんで俺が?」
私はその質問には咄嗟に答えず、
「ひとりで暮らしていたら、私はひとりで入院してひとりで退院することに抵抗なかったと思う」
とだけ言った。
「ふたりで暮らし始めると、それまでひとりで出来たことが出来なくなる」
「どういうこと?」
夫だった男は少しだけ眉間に皺を寄せた。
「恋愛はひとを孤独にするから」
「孤独?」
「どんどん寂しくなるから。ひとりでいたときの何倍も」
私は3ヶ月前に子宮筋腫が5つも見つかり、筋腫の大きさと私の年齢を考えると子宮を全摘したほうが良いかもしれないと医者に告げられていた。子宮筋腫があることにはさして驚きもしなかったが、思いもよらず子宮を全部摘出する、というその言葉の重さに私は目の前が真っ暗になった。私は40才で、今まで子供を出産したことがなかった。とりたてて子供が欲しいと思ったこともなかったが、あきらめているわけでもなかった。チャンスがなかったのか縁がなかったのか、そもそもまともに出産について考えがあったわけでもなかった。そういう40才だった。そして自分の周囲には子供を産んでいない40才の友人はたくさんいた。きちんと話したことはないけれど、彼女たちも自分と同じような意識であるような気がしていた。子宮を全部摘出するっていうことは、もう赤ちゃんは…、おそるおそる尋ねると医師は、まだ出産をお望みでしたら子宮を残すこともできますよ、そのかわりリスクはありますけど、失礼ですけれどご結婚は?、と聞いてきた。いえ、今はしておりません、私は自分の声があまりにも小さく力がないことに気づいた。あまりにも思いがけないことだったから私は大きく打ちのめされていた。明らかに私は自分の年齢や体力や健康に対して、鷹揚でいすぎた。ビジョンを持たなすぎた。当然今ここで子宮を摘出するしないの判断など到底できるわけがなかった。まあ今すぐ決める必要はないですよ、次回の診察までに考えましょう、医師が茫然自失の私を気遣いそう言った。
家に戻り、一緒に暮らしている年下の彼に話をした。なるべく感情を移入しないように淡々と説明すると、30才の彼は、君は今子供が欲しいの?、と聞いた。子供が欲しくないといえば嘘になる、そして子供が産めなくなるというと俄然欲しいという気持ちになる。しかしそれを率直に言葉に出すと、この男に結婚を迫っているような気がしてそうも言いたくなかった。この男とは結婚うんぬんの生活ではなかった。10才の年齢差は、結婚を持ち出さないことによって成り立っているようなところがあった。そして私もこの年が10才下の男と結婚をしたいかと問われれば、そういうつもりもなかった。それでも子供を産むのか産まないのか自分が早く決断を下さないといけないとなると、結婚をするしないという問題とは別のようにも思えた。一体どういうふうに自分の気持ちの揺れを話そうか、私が逡巡していると、男は、なんか生々しいな、とひとこと言った。生々しい、と。
「寂しいと感じるようなことでも言われたんだろ」
かつての夫は、すでに熱さのなくなったコーヒーを啜った。
「少しね」
私もカップに少しだけ残っているカプチーノに口をつけた。男に、生々しいと言われた瞬間のあの暗い気持ちを思い出した。生々しいに決まっているじゃないの、普段声など荒げたことがないのに私は男に向かってそう叫んでいた。生きてるんだもん、きれいごとじゃないんだよっ。男は一瞬ひるみ、ああと答えただけだった。私は決定的な寂しさというものを肌で感じた。圧倒的な孤独が私を襲ったのだった。
「別れた夫に変なことを頼んでいるってわかってる」
「うん」
「だけど、あなたに一緒についてきてもらいたいって本当にそう思ったから」
「ついていくだけでいいのか」
「それでいい。迎えにも来なくていい。ただ明日だけ一緒に来てくれれば」
「あのさ」
「待って、先に言わせて」
「わかった、どうぞ」
「家族だったひとと一緒に入院手続きしたかったの」
「……」
「ずいぶん前のことで、短い間のことだったけど、でもあなたは私の家族だったから。家族ってさ、あったかくて生々しいものでしょ」
私は敢えて、生々しいという表現をした。生々しい、と。
「そういうひとが一緒について来てくれたら」
「そうか」
「お願いできる?」
「わかった」
かつての夫はしぶしぶといった様子で首を縦に振った。
「ありがとう」
私はようやく笑顔になる。
「それで君はその男と」
「うん、別れるつもり、今日中に」
笑顔のまま私は夫だった男にそう告げる。入院する前にかたづけられることはかたづけておかないと、退院してからだと何かと大変でしょ?
「君は今日明日、忙しくなりそうだな」
夫だった男が白い歯を見せたから、そうね、私も一緒に微笑んだのだった。



Copyright Reserved
2009 Baby Julia / Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com