#59のブルース 月と専制君主
おれの息子は18才で、来月アメリカの高校を卒業する。
日本で高校生活を送っていればあともう1年とちょっと、卒業は先だった。おれは生粋の日本人でアメリカ式の教育に慣れていないし興味もないから、息子が高校に入学するときの面倒な手続きは、おれの元の妻と息子のふたりでやって、おれの役目は金の工面と生活全般の用意と準備、そして息子がおれから離れて暮らすという心の動揺を隠しそれを受け止め、なんでもないことのようにふるまうことだけだった。もう別れて15年くらいになるのに、元の妻は、
「あなた、ずいぶん寂しいんじゃない?」
と今でも妻であるような言い方でうふふと笑い、あの子も大きくなったわねえ、アメリカかあ、とあたかも自分も子育てを一緒にやってきたかのように遠い目をしたから、おれは直ちにカチンとして、
「おまえに言われたかねえよ」
と元の妻に吐き捨てるように言ったのだった。今でも彼女のあの遠い目を思い出すと頭にくる。しかしそんなことももう3年前のことなのだった。
息子とふたりで暮らすことになったとき、おれは世間からあそこのおうちはお母さんがいないから、とかなんとかそんなセリフで全てを片付けてしまうようなことは絶対にさせない、と心に決めた。相当な決意で、自分の生活を一掃し真剣に新しくやり直す覚悟だった。おれはまだ20代の後半でただのそのへんのあんちゃんと言ってもいいくらいだった。バイトをふたつ掛け持ちして、大好きな車に金をつぎ込んでひいひい言いながらローンを払っているような安っぽい男だった。ガキがいるけどあいつは所帯じみていない、と世間に思われたかった。飲み会も夜遊びも断らず、家では妻となった彼女とケンカばかりしていた。それでも子供はかわいかった。おれはひとりっこで兄弟がいなかったから、家中ぺたぺたとおれのあとをくっついて歩き、両手をぱっと大きく広げて抱いて欲しいとせがむ小さい子供の率直さに、おれは毎日ほとんど感動と呼んでいいくらい胸を熱くさせていた。
そうして腰をかがめて子供を抱きあげると、明るく笑って嬉しそうにおれの顔を見つめるその目が、もう他の何よりもありえないほどまっすぐだったから、女を追い出したって絶対この子を手放したりはしない、そんなことは絶対に絶対にしたくなかったのだった。バイトをやめ、車の営業セールスの仕事を見つけた。息子を保育園に通わせ、おれは毎日決まった時間にお迎えに行った。生活を一新することは案外たやすいことだった。飲み会も夜遊びも車の改造も、日々の生活に追われれば自然にどうでもよくなっていった。息子は毎日毎日少しづつ成長していった。昨日まで単語のみで話していたのに、今日はもう二語文で話すようになったり、子供は驚異的なスピードで大人の世界に近づいてくる。
ある日、一緒に保育園から帰宅して、おれがネクタイをゆるめながら部屋着に着替えようとすると、息子もおれを真似して自分もパジャマに着替える支度を始めた。まだ手の甲にえくぼのできる肉厚の小さな手でボタンをはめようとするから、手伝うつもりでおれが手を伸ばすと、
「ひとりでできるよ?」
息子はおれにそう言った。ひとりでできる。息子はまた、あのありえないほどまっすぐな視線をおれに向けてそう言った。
休日は公園にもときどき連れて行った。どこの公園にも過保護な母親が多いのに辟易して、あちこちのショッピング・モールに出かけるほうが多かった。
ショッピング・モールにはどこでもたいがい子供たちが遊べる小さなスペースがあって、そういう場所は大体同じ年代の子供が集まっているから、おれはぼおっと側の椅子に座りながら息子が見知らぬ同年代の子供たちと遊ぶ様子を見ていた。少し大きくなってくると、UFOキャッチャーを一緒にやった。
息子は負けず嫌いで、おれが先に商品をゲットしてしまうとムキになって、
「おとうさん、今日だけお金貸して!」
と叫ぶようにおれの小銭をひったくって、ゲームに集中していた。そういうときの息子のまなざしは、あのありえないほどまっすぐな例の視線で、息子のその視線を見てしまうとおれはいつも何も言えなくなってしまうのだった。
あるとき、いつものようにゲームをしたあと、小腹がすいたのでメシを食おうということになった。おれは持ち合わせがあんまりなかった。
「ラーメンかうどんでいいよな」
息子は麺類が好きで、大体いつも同じようなものをオーダーする。持ち合わせが少ないとき、それはたいがいがいつもそうなのだが、とにかく裕福な暮らしとは無縁の中で、息子とラーメンを啜るのはささやかな贅沢だった。
「おれ今日は、なんかフライドチキンのセットとかそういうものがいい」
「え、ラーメンでいいじゃんか。そっちのほうが腹もいっぱいになるぞ」
親の姑息な金の計算を見透かされたような気がして、おれは慌てた。
「ラーメンはやだ」
「うどんは?」
「うどんもやだ」
「フライドチキンじゃないと嫌なのか」
「そう」
息子はいつになく頑固に主張した。
「わがままばっか言うな」
「じゃあ、いらない」
「ふん、じゃあ食うな。昼飯抜き」
「……」
「自分の好きなものばっかりいつも食えると思ったら大間違いだ」
「……」
「帰るぞ」
おれは息子の言い方や態度にぷちんと切れて、すたすたと駐車場に向かって歩き始めた。息子も小さな怒りをためながらおれについてくる。おれはしかし、フライドチキンだってラーメンだって出費にたいした違いはないのに、息子にはわがままだと叱った自分の言い訳がいかにも横暴な気がして、そしてこのまま家に戻っても何も食うものがないことに気づき、
「おい、やっぱ食ってから帰ろう」
と息子を振り返った。
「おれは食べない」
息子はまだふてくされた様子でそう言う。
「なんでだよ? 昼飯はちゃんと食えよ。フライドチキンでもいいから」
「いらない」
「だからなんで」
息子は下を向いたまま顔を赤くして、
「お金を使わせたくない」
と言った。
「えっ」
「さっき、おとうさんお財布見てたから」
「……」
「お金、あんまりないんでしょ。お昼なんかいらないから」
おれは絶句してその場に立ちつくした。息子にそんなことを言わせてしまったという恥ずかしさと、息子がおれを気遣ってそんなことを言ういじらしさが、傲慢でひとりよがりな王様の目の前にぱっとこれはどうだ?と最後のカードを差し出されたような気がして、何も言えずに呆然とした。
「か、か、金のことは気にするな」
やっとの思いでそう口にする自分の言葉がそらぞらしい。
「気にする」
息子はまだ下を向いたまま、しかしその表情は今にも泣き出しそうで、そしてそれを懸命にこらえていた。
「気にするなって」
「でも」
「いいから。そんなことはどうでもいいから」
自分でそう言いながら、ばかだと思った。おれはなんてばかなんだと思った。小さな子供に金の心配をさせ、精一杯遠慮して昼飯を食べないと言わせるおれは、尊大な態度でものを言う暴君に思えた。
「ここじゃなくて別なとこで、食おう」
息子の気概を受け取ってやって、奴の肩をたたいた。おれの声は震えていた。
「うん」
にぎやかなショッピング・モールの喧騒の中で、おれたちはひっそりとうなづきあった。おれは声を出さずに息子に語りかける。親をいつもいつも尊敬したり尊重しなくたっていいんだ、親を恨んだり怒ったりそれは違うと指摘したり、そういうことをしていいんだぜ? 君の親は至らない、全然至らない、完全じゃない、ほとんど不完全に近い、適当で勝手で単細胞だ。ばかで浅はかでろくでなしだ。君はそれをおれのいないところで愚痴ってこぼしてため息をつけばいい。
「おとうさん」
息子がようやく顔を上げてまっすぐな視線でおれを見る。
「トイレ行きたい」
息子がトイレに向かって行く走り姿を見守りながら、おれはばかだけど息子の前で泣かなかった、それはまだ大人としてギリギリOKだったと思った。
「卒業式終わったら、とにかくいったん日本に帰国するから」
息子はPCのスカイプでそういうメッセージを送ってきた。アメリカにいる息子とのやりとりはもっぱらPCを通じて行う。
「わかった」
「おやじ、おれ日本に戻ったらまず回転寿司行きたい」
「回転じゃなくて、普通のすし屋がいいんじゃないか?」
「回転でいいよ」
「回転だったらそっちにもあるだろ」
「こっちのはまずい」
「だっておまえ、昔と違っておれだって回転してないすし屋に息子を連れて行けるくらいの余裕はあるかんな」
「お金とかそういう問題じゃなくて」
「なに」
「普通のすし屋って、なんか古くね?」
「……」
「大将とか呼ぶじゃん、そういう店。旧式の凱旋パーティみたい」
「……」
「回転でいいよ、さくっと」
息子は、いつの間にかどこにでもいるありふれた青年になっていた。おれは息子にありふれた青年になってほしかった。特別に突出した才能や技能を持って欲しいなんてことは一度も思ったことはなかった。ありふれた青年は、ありがとうとごめんなさいが言えて、生意気でいまどきの若者で、親の知らないところで親の話をし、親のいないところで親に聞かれたくない夢や希望を語る。
君はもうおれに対して遠慮をしないね。率直で愚直で、遠いところにいるのに相当おれの近くにいる気配だ。いつもいつも一緒にくっついていた小さかったときより、君とおれの距離は離れていない。
おれはふっとあのショッピング・モールで涙をこらえてやせ我慢をしていた息子の姿を思い出した。息子の前で呆然と立ち尽くす自分の姿を思い出した。間違っていても正しくても、おれたちは向かいあって生きてきた、ふたりで。
「あれ、おやじ・・・」
「なに」
「泣いてんの? まじで?」
ほんの昨日まで、こらえることができた涙が今日はおさえることができない。
「今泣いてる意味わかんね。すし屋のこと?なんだよ、大丈夫かよ?」
泉のようにあふれ出る涙を、おれは息子にもう隠す必要はない。
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