logo #58のブルース プリーズ・ドント・テル・ミー・ア・ライ


その人はオレより一回り年上だった。
「まじっすか? じゃあ36才ってこと?」
思わず上ずった声で尋ねると、
「ちょっともう、なんでそんなにはっきり…、ま、本当だけどさぁ」
と彼女は苦笑して言った。
「あ! やっぱ女性にガチで年齢聞くのって失礼ですよね? すいません」
慌てて訂正すると、
「いいよ別に」
彼女はあっさりかわし、そして、
「私は全然構わないけど、他の女のひとたちは構うかもよ?」
といたずらっ子のように目を輝かしながらそんな皮肉を言った。

オレとその人はそんなふうに最初の会話をした、バーで隣り合わせになったお客同士だった。オレはその日、2才ばかり年下の女性とお台場をドライブして、勇気を出してキミのこと好きになっちゃったから、彼女として付き合ってくんない?なんてことを本当に思い切ってコクったのに、ごめんね〜今はまだ元カレのことが忘れられないからそんな気持ちになれないの、とオレとしては自分の予想を大きく裏切るあまりにもストレートなキョヒられかたに、ハンドルを握る腕が震えるくらいに心がぽっきり折れてしまい、彼女を家に送り届ける道すがら、ふられてほやほやの男は、ふってほやほやの女に一体何を話せばいいのか世の中のほかの男たちってこういうときどうしてるのか?ああオレってもしかして典型的なマニュアル男?まじ?マニュアルないとどうしていいかわからないってやつ?でもこの際そんなことどうだっていい、車中心苦しいことこの上ないのは事実だからしょうがない、とオレにしてみれば拷問に近い時間を過ごしていやもう心底ぐったり疲れた、こんな夕暮れは一杯飲むしかないっしょ?それ間違ってないっしょ?と帰宅してすぐ車を置いて、ときどき兄貴に見つからないように拝借しているマウンテンバイクに飛び乗って、そのバーへ向かったのだった。
まだ5時になったばかりの夕暮れで、10席ほどのこじんまりとしたカウンターとテーブル席が一つだけあり、脱サラのマスターが余計な話をしてこないところが気に入っているそのバーは、オレが24年生きてきて初めて常連っぽくふるまうことができる唯一のバーで、そんな常連っぽいふるまいがなんとなく大人の男になったような気がして、そこにいるだけで同年代の奴らよりもオレちょっと格好いいかも?ちょっと嬉しいかも?と思わせてくれる気持ちのいい空間で、それでも内心はちょっとびびっているから本当の常連だったら夜も更けた頃にふらっと入るんだろうけど、少なくとも村上春樹の新訳のロンググッドバイではそんなシーンがやたらあって、超かっこいい、オレもトレンチ・コートいつか買おう、と思いながら、偽者の常連であるオレは客の入りが少ない開店時間に合わせてそっと入店するというのが常で、それは誰もいない店に最初にはいっておけば後から来た客にさも常連っぽく見せかけることができる、若いのにおまえ結構イケてんじゃん的なイメージが保たれるといういかにも姑息な男がやりそうなことをいかにも姑息なオレはそういうふうに立ち振る舞うのが精一杯なのだが、珍しく今日は先客がいた。それが一回り年上のその人だった。

いきなり隣に座るのもどうかと思って、間をひとつ空けて腰をかけ、
「すいません、キンキンに冷えたビール下さい」
とオレは何か怒鳴るように言い、すっとコースターに差し出されたモルツをぶわーっとなんだか食べるような様子でごくごくと口に流し込み、ぷっはーっと息をついてすぐにもう一杯の追加を頼んだ。ビールがうまいと思うようになったのはごく最近のことで、学生時代はどんな酒でも酔っ払えればいいという気持ちだったけれど、夕暮れ時のビールのうまさを覚えてからは、この一杯のために生きてると言っても過言ではないとかボヤッキーみたいにいつもボヤいているうちの親父のセリフも、身体でわかるようになってきた。親父とも最近飲んでないな、ぼんやりそんなことを思っていると、
「桜の花びら」
と急に横から声がした。えっ?と声の方向に顔を向けると、
「肩に桜の花びらがついているよ」
そう女性が言って、オレの左肩に乗っていた花びらをそっとつまんで、自分が飲んでいるグラスの中に浮かべた。花びらがふたつ。このバーに来る途中の交差点で信号待ちをしているとき、春先らしい強風が吹きあれ、思わずオレは目を閉じたのだった。信号待ちをしていたあの交差点にはたしかにソメイヨシノの木が2本、しっかり並んでいたような気がする。帰りの車中で会話に困ったオレは、花見は今が満開で見ごろだね〜桜はやっぱり艶やかだね〜なんてことをその彼女に言ったものの心ここにあらずで、本音を言わせてもらえば桜の咲き具合なんかまったく関心なく、ただひたすら会話をつなぐためにはまず桜ネタと思いついて発しただけだったから、ビールをがしがしと飲んで少しばかり冷静さを取り戻したせいでようやく、そうか本当に今は桜が満開で風が吹けば桜吹雪になるんだなと、見知らぬ女がつまんだ桜の花びらを、ある種の感慨を持って眺めた。花びらは、彼女のグラスの中で、音もなくすっと浮いていた。そして花びらを浮かべたグラスを持ってその女はごくごくと酒を飲んだ、花びらも一緒に。
「へっ? 今飲んじゃいました?」
淀みなくその行動をした女に呆然としてオレは言った。
「うん」
「すごい…」
「なんで?」
「おかしくないですか?」
「何が?」
「だって、オレの肩にたまたまついてた桜の花びらっすよ!?」
「知ってる」
「飲むって」
「こういう季節で風の強い日なんかさあ」
「はい?」
「桜の木の下に立ち止まって、口をあけてると、どんどん花びらが口に入ってきてさあ」
「……」
「舌にびっちりつくよ」
「…で、それもまた食べる、と」
「食べるというか、飲む」
「つまり日常的に花びら食ってるってことですよねっ!? うへーっ、そんなひといるんだあ?」
オレの言葉には何も答えず、そのひとはしげしげとオレを眺めた。じっと見つめられて、オレもその人をゆっくりと見返した。オレの会話のどこかがおかしかったのだろうか? こちらが心配になるほど、その人はオレをじっと見ている。いやでもオレは別におかしくないでしょ、やっぱ。初対面で花びらを飲むっていきなり言われてさあ、とオレは自問自答というかひとりボケつっこみみたいなやりとりを心の中でしながら、しかしこの人はどこで何をしているのか生活感がまったくない人だなと思った。
ウェーブがかかった長い髪をぎゅっとひとつに束ねて、色白できっぱりとした眉をしていた。どちらかと言えば綺麗な部類にはいるだろう。丸い顔に薄い眉で目じりの皺から判断すると、自分よりはいくつか年が上であるような気がした。
「あのさあ」
「なんすか?」
「いつもきっと自分の常識だけで生きてるんだね」
「オレが?]
「違う?」
「意識したことないけど」
「自分がやったことない見たことない知らない信じたくない、そんなことがあると過剰に反応しちゃうタイプなんじゃないの」
「そうですかねえ」
「そう思う。いいじゃん、別に桜の花びら口にいれたって」
「つうか悪いとは言ってないっすよ」
「でも顔に書いてあるよ、まじかよこの女、頭おかしいんじゃねえのって」
「オレの顔、そんなこと言ってます?」
「言ってる言ってる。饒舌すぎるよ。そんなんじゃ女の子とかにふられちゃうよ」
そのひとは何気なく言っただけだろうけど、オレとしてはまさに言い当てられたとしかいいようがなく、よりによってなんでそんなこと気軽に口にする?言っていいことと悪いことの区別もつかねえのか、大人のくせに!と軽い憤りみたいなものを感じ、
「ふ、ふ、ふられるとかって関係なくねー?」
と思わず強い口調で口を尖らせた。
「あ、怒っちゃった?」
そのひとは、どういうわけか若干弾んだ様子でオレに顔を近づけてきた。
「怒っちゃないっすよ」
「怒ってんじゃん」
「違います」
くくく、と含み笑いをしてその人はマスターと視線を合わせた。なんなんだ? オレからかわれてる?
そしてオレは年齢を尋ねられた。
「24」
「へえ〜、もっと若く見えるね」
「ばかっぽいっすか?」
「じゃなくて、ずんずん突き進む感じが」
「…それ、ばかみたいじゃないすか」
「いいじゃん、ばかだって」
「よくないっすよ、ばかなんて」
「どうして?」
「男として」
「男ねえ」
「おかしいですか?」
「ばかだってばかじゃなくたって、生きていくってことに大きな違いなんかないんじゃない? 生きていくってことはさ、恋をしてご飯を食べてお風呂はいって寝るってことじゃん。ばかだってばかじゃなくたって生きている間にやることって同じだと思うよ」
「…すごい理屈ですね」
「理屈じゃないよ」
「でもなんか真実をついてるような気がする」
「嘘じゃないもん」
彼女はそう言いながらスツールから降りた。
「あれ、もう帰るんすか?」
どういう理由なのかはわからないが、オレは何故だかもう少しこの人と会話を続けていたくて尋ねた。
「2杯だけって決めてるから」
そのひとはさっさとお勘定を済ませて、ごちそうさまでしたとマスターに言い、
「またね」
とオレに顔を向けた。
「楽しかったです」
オレは慌てて言う。
「私も」
そんな常套句を返してきながら、その人は初めてオレに頬を緩めた。暖かな感じのする笑顔だった。
「もう一杯どうですか」
「人恋しいわけ?」
「たぶん」
「こういう場所ではこのくらいの会話でいいのよ」
「でもオレ、実は今日本当に女の子にふられ…」
「あーやめやめ」
その人は手をぶんぶんと振ってオレの話をさえぎった。
「とっくにわかってるよ。顔が饒舌だって言ったでしょ」
オレは返す言葉が見当たらない。
「安吾の小説読んだことある?」
「ないです」
「坂口安吾の小説では、桜の木の下には死体が埋まっているってことになっているんだよ」
「はあ」
「おっかないんだから、桜って」
「でも、それを飲んでるんですよね」
「ふふふ」
「おいしいんですか、桜の花びらって」
「おいしいわけないじゃん」
そうして彼女はまたにっこりと笑った。
「おやすみ」
花びらを飲み干したその人は、歌うように店を出て行った。オレはひとり取り残された気になった。
たまたま隣に座りあった見知らぬ者同士なのに、ずっと一緒に飲んでいた相棒が先に帰ってしまった、という気持ち。それほどオレは誰かと何かを話したかったということか、そんなふうに思うと何かやるせない気持ちになり、お台場で気持ちが撃沈したことも再び脳裏を横切り、ああ何かオレ今すっごく弱っているかも、すっごく落ちてるかも、とへこんだ心のままグラスの中のビールを一気に飲み干した。そして、今話していたあの人ともう一度意味のあるようなないようなそんな会話を続けてみたい気持ちがまたむくむくと湧いてきて、今すぐ追いかけてみようか、今ならまだ店の周辺を歩いているんじゃないかと思いあたり腰を浮かしてお勘定を済まそうとすると、マスターと目が合った。
「いいから、もう一杯ここで飲みなさい」
オレが何か言う前に先にマスターがそう言った。
「えっ」
「追いかけたりするのは大人じゃない」
「いや、オレ別に、その」
「これは店からのおごり」
新しいモルツがコースターと一緒に差し出された。オレは浮かした腰をそろそろと沈め、それ以上は何も言わないマスターの前で、すごすごと引き下がってグラスに口をつけた。口が渇いているのか、3杯目のビールもなんとも言えない苦味と酸味が交わって美味だった。
「うまいです。ありがとうございます」
オレはマスターに頭を下げながら、
「さっきの人は常連さんですか」
おそるおそるその人について尋ねてみた。
「ときどき来るよ」
「じゃあまたいつか会えるかもしれませんよね」
「それでいいんだよ」
「よくわかりました」
「それ以上もそれ以下もないんだよ、酒場ってさ」
マスターはもオレを見てふふっと笑ったから、オレもへへへと笑顔を返した。



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