logo #57のブルース フルーツ――夏が来るまでには


ママ。
はっとして飛び起きると、まだ薄ら寒い季節だというのに寝汗をぐっしょりとかいていた。
声をあげていたかもしれない。
私は重い頭をわずかにふりながら、のっそりと起き上がりキッチンに向かう。冷蔵庫からミネラル・ウォーターのペットボトルを取り出し、ごくごくと飲んだ。ボトルを手にしたままベッドルームに戻り、フローリングの床にあぐらをかいて座った。狭いアパートだった。申し訳程度のキッチンがあり、部屋はふたつ。快適に暮らせるように、ごちゃごちゃと物は置いていない。いつ男がいなくなってもその痕跡など絶対に残したくないから。

それにしてもさっきの夢はリアルだったな。
私はまだ覚醒しきっていない頭で、夢の出来事を反芻した。母親の夢を見たのは久しぶりだった。
現実の母は元気で生きている。ときどき電話で話す。でも仲良しの母と娘ではなかった、ずうっと。
それなのに夢の中では、小学生の私とまだ若かった母が一緒にアップルパイを焼いていた。オーヴンの温度の調節がうまくできなくて、私は振り返って母親を大きな声で呼んだ。
―ママ!
そこで私は目が覚めた。母の名を呼び、そのあと母がどんなリアクションを返したのか、そこまで夢を見ていたかったと思った。ふいに娘から声をかけられる。たいていどんな母親でも返事をするだろう。
たとえば優しくて優雅な母親だったら、なあに?と笑みを浮かべながら。元気なお母さんだったら、はいはいここにいるよ!!と娘に負けじと大きな声で。
夢の続きを見なくとも、私には結果が手にとるようにわかっていた。母はいつも困ったような顔をして、いつもぼんやりとしていた、まるで私がそこに存在しないかのように。ママ、ママ。私はいつも母親を大きな声で呼び続けた。私はここにいるよ、ママ。私を見て、ママ。ママ、ママ、ママ、ねえどうしたの? どうしていつも答えてくれないの? どうしていつも遠くを見ているの? ママ、私と一緒にいても楽しくないの? ねえ、ママ、教えて。私はママのそばにいていいの? ママ、私はママの本当のこどもだよね? ねえ、ママに聞きたいことたくさんあるの。ママに教えてもらいたこといっぱいあるの。でも全部聞けない。全部聞いても、きっとなんにも答えてくれないよね?

DVという言葉を知ったのは、夫となった男に顔を殴られ鼻を骨折したときだったと思う。それまで男に蹴ったり突き飛ばされたりされたことはあったけれど、これほどひどい暴力を受けたのは初めてだった。
一瞬息がつまり、うまく呼吸ができなくなり、何が起こったのかよくわからなかった。激昂している男を刺激したくなくて、私はいっさいの感情を持つのを止め、男が金を持って家を出てからひとりで病院に行き、そこで医者からDVについて説明を受けたのだった。私はまだ20才になったかならないかぐらいの小娘で、世の中の男についてよく知らないまま結婚してしまったから、よその男はこんなふうに殴ったりしないということが衝撃だった。
―男ってそういうもんだと思っていました。
淡々と私が話すと、医者は、
―私の質問に答えたくなければ答えなくていいけど…
と前置きしながら、
―もしかして、お父さんもお母さんにそういうことをしていましたか?
と聞いた。
―はい。
私はそう答えた。
―日常的に母はいつも父に殴られていました。
―そうですか…。
医者は深い哀れみの表情を隠そうともせず、ふっと目を伏せた。
―ずいぶん。
そう言って医者はいったん言葉を切り、そのあと、
―ずいぶん、長い間辛かったでしょうね。
ゆっくりそう言った。そう言われて初めて私は涙があふれた。私のことも私の母親のことも私の夫となった男のことも、なんにも知らないアカの他人の医者の前で、私は声をあげて泣いた。

その夫だった男とは第三者が仲介にはいって別れた。父親も母親も自分たちのことを持ち出されるのを恐れてか、「別れる? わかった」と言ったきりだった。結局家族の誰とも向き合わず、以来私はときどき引越しをしながら、ときどき男を変えて、生きてきた。夫になった男のように手をあげるタイプの男もいたし、虫も殺せないような優しい男もいた。どの男もいろんなことを言って私のことを知りたがった。
昨日まで一緒にいた男は、私のことを悲しい、悲しい、と言って君を見ているといつも涙が出てくる、いつも君を助けてあげたくなる、とかなんとかヒロイズムにあふれたことを言う面倒くさい男だった。
私があまり話をしない寡黙な性格なのは、自分の言葉で話すことを知らないんだ、俺が絶対なんとかしてあげるから、とも言っていた。私を救済して、調教しようとしていた。そして自分にはそれが出来ると信じているようだった。
―そういうの困るんだけど。
私は心底うんざりしてそう言った。
―ちゃんとしなきゃ。
男は説教臭かった。
―今まで君が見てきた暴力とかの世界じゃない、ちゃんとした世界で生きていかなきゃ。
この男以外でも、ときどきそんなことをちらりと言う男はいた。しかし一体どこが違うというのだろう。
実際に手をあげなくても口先三寸の男と、余計なことを言わないそのかわりに怒ったら殴る男との、大きな違いはなんだろう。一緒じゃないかと私は思う。男は怒りたがり、笑いたがり、セックスしたがり、幸せになりたがり、支配したがり、頂点に立ちたがり、征服したがり、悲しみたがり、喜びたがり、甘えたがり、寂しがりたがる。そういう動物なだけじゃないか。どこが違うのかわかっているなら、それを私に教えて欲しい。私がかわいそうなんじゃない。男という生き物が悲しいんだと思う。
―出て行って。
昨日私はその男にそう言った。
―もう会いたくないし。
―えっ? なに、なに? なんで? ちゃんと説明して。
―言いたくないし、言う必要もない。
―なくはないよ、知る権利あるよ、俺だって。恋人じゃん、俺たち。
―恋人とかそんな言い方しないでよ。
―じゃ、遊びだったのかよ?
―違うよ。もうそういう問題じゃなくて。
―なんだよ。
―愛してないの。好きじゃないの。好きになれないの。愛せないの。わかる?
―ひどいな。
―だから言いたくなかったのに。あんたが聞くからじゃん。
―だって普通そうだろ、普通理由聞くだろ。
―普通、普通って、私とつきあってて、普通とかってないから。
―でも。
―本当にもうやめて。口もききたくないの。

ママ、私また人を傷つけちゃったみたいです。
私は携帯をオフにしたまま、架空の母親に向かって電話をする。
誰かを傷つけてしまうのに、私はいつも誰かといるの。ママもそうだったの? ママはどんなにひどいことされても、どんなに傷ついても、それでも誰かといたかったの?
自分の声を出すと、殊更自分が壊れているように感じ、私は携帯をベッドの上に放り投げる。
感傷に浸っている場合じゃない、仕事に行く支度しなきゃ。
私はスウェットからベッドの上に吊り下がったままのスーツに着替える。ぼんやりしちゃだめだ。遠くを見つめない。網目の大胆なストッキングを穿きながら私は母の張り付いた表情を思い浮かべる。
生きていく。ただ生きていく。私が自分の母親から学んだことはそういうこと。私を悲しまないで。
私も誰かを悲しんだりしない。そして生きていく。このまま生きていく気持ちはまだあるんだから。



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