#56のブルース ナポレオンフィッシュと泳ぐ日
さてと、これからどこへ行くかな、俺は漠然とそう思った。
一緒に暮らしている女から、出て行ってよ!と鬼の形相で怒鳴られ、おまえに言われなくたって今出て行くところだよっ!と言い返し、玄関の端っこにあるサンダルに足をつっこもうとして止め、きちんとナイキのスニーカーを履き直してマンションから俺は出て来た。そういう予感はいつもあったから、スニーカーだけではなく、ダウンのジャケットも着ているし、ニットのキャップもかぶっているし、財布も携帯も煙草もポケットにいれて部屋を出た。そそくさと支度をする俺の様子を、女は憎々しげに眺めていたような気がする。ナイキの靴紐を縛っているときに、背後から突き刺さるような視線を感じたが、俺は振り返らなかった。
今まで何度か女と暮らしてきた。そのときどき、自分が凝っていることを一緒に呼吸してくれる女たちと住んだ。バンド活動に夢中になっているときはロックが好きな女、ボウリングやビリヤードにハマっていたときはインドアが好きで酒をよく飲む女、少し真面目に仕事をやっている時期には高層ビルで働くOLだったりした。そうしてそのときはどこへ行くにも一緒に出かけて、ああ意気が合うな、ぴったりだなと思うのに、しばらくすると徐々に歯車が狂い始めるのだった。
それは自分が別のことに興味を持ってしまうせいかもしれないし、熱が冷めるとさようならという縁だったのかもしれない。あるいはお互いがお互いを同じ時期に飽きてしまったのかもしれないし、相手がいつも自分から離れたくなってしまうといった問題があるのかもしれない。とにかく、ある時期がくると俺はいつも独りになる。自分から荷物をまとめるときもあったし、相手が去っていくときもあった。喧嘩別れもしたし、穏やかに笑いあって手を振ったこともあった。今日の怒鳴りあいは、どういう結果になるのかな、と俺は思った。このまま大きな物は何も持たずに、もうあの部屋には戻らないというのも、間違ってはいない気もした。
とりあえず繁華街に出て、CDでも物色するつもりで地下鉄の駅に向かうと、知り合いの男とばったり出会った。
「何、おまえ、これからどこ行くの?」
相手の男は憂鬱な様子で俺に尋ねてきた。
「タワレコでも行こうかなと思って」
「CDか。なんか、のんきでいいよな」
こういうことをすぐ言う奴っている。聞かれたことに素直な応対をすると、すぐにそれをのんきだとか適当だとか、ほとほと不真面目に生きているような形容で人を評価する奴。今暮らしている女にもそういう傾向があると思う。洗濯をするカゴの中に俺は靴下を脱いだまま投げ入れてしまう。それは丸まったり裏返ったりしたままの状態であるということで、俺の昔から直らない悪癖なのだが、そんな無造作で無軌道な俺の行為に関して女は相当腹を立てていて、何度も何度もやめてって言ってるのに、大体あんたは人の話をまったく聞いていない、靴下だけのことを言っているんじゃないの万事に於いてそうなのよ、そういう態度って人として失礼だと思う、仮によ、仮にあんたが私のことを好きじゃなくなったとしても、嫌いな人の話だってちゃんと聞くべきだよ、それって大人として最低限守るべきルールよ、とかなんとかまくし立てていた。どうして靴下の件から、万事に於いてとか、人としてどうのとか大仰な話になっていくのか、俺には理解できない。話のポイントもどこにあるのかわからない。少しばかり相手の話を聞いていないことなんか、誰だってあると思う。そこに好きとか嫌いとかそんな愛情みたいなものなんか入っているわけがないじゃないか。女の言い分のほうこそ、何か鬱屈した気持ちを抱えているような気がする。で、あたしのこと、好きなの?どうなの?もう好きじゃないの?ねえ、どうなのよ?…
そうして俺はいろんなことをがみがみと言う女の方こそ、見たこともないくらいにみっともないと思っていて、さっきも女がぶつぶつと何か言い始めたから、うるせーと言ったのだった。もう何もかもうるせーんだよ、合わない合わない合わない、おまえとはもう呼吸が合わない、息苦しくてきついんだよと言い返した。女は一瞬息を呑んで俺を見つめ、そうして出て行ってと言った。俺は本当に女に言われなくたって出ていくつもりだった。呼吸をするために。大きく酸素を吸うために。あのままあの部屋にいたら、どうにかなってしまいそうだったのだ。そうしてせいせいとした気持ちで女との一件を忘れて歩いていたのだが、この知り合いの男の、神妙な顔つきで眉間に寄せた皺を見ていたら、女とこの男がだぶって見えた。何か決まり悪そうな、ふてくされたような表情だった。毎日が憂鬱で不自由に暮らしているひとの顔だった。
「別にそんなにのんき、なわけじゃないけど」
俺は男の眉間の深い皺から目を離さずに言った。のんきだっていいじゃんか、のんきでいいか悪いかは俺が決める、と言おうと思ったがどんよりとした男の表情を見ていると何も言えず、
「そっちは?」
とだけ聞いた。
「俺?俺はこれから病院だよ」
男は聞かれるのを待っていたかのように、大きな声で即答した。
「病院?だって今日は日曜だろ、開いてんのか?」
「通院だから、開いてんの」
ふんっといった様子で男はそう言ったから、ああこの流れだと普通は何の病気か聞くべきなんだろうなと俺は思った。思ったけれども、俺をのんきだと断言した相手と、まともに世間話をしても話がはずむわけがないから俺は黙った。
「ポリープあるみたいでさ」
俺が何も言わないでいると、男からそう言ってきた。
「どこに」
「大腸あたり。悪性かどうかわかんないけど」
「…」
「へこんじゃって、結構」
「ああ」
こういう場合、慰めてもあまり意味はないような気がして、俺はうなづいていた。ポリープが悪性だとしたら確かにへこむなとは思った。そういう心の重さを抱えていたら誰だって暗い気持ちになるのはしょうがない。しかしだからといって、俺がタワレコに行くことがのんきであるとかそんな言葉を投げかけていいわけはなかった。自分が不調のとき、そうじゃない立場の人間にやつあたりするのはよくない。俺はそうやって何かのせいにして、生きていきたくない。反対の立場にあっても、誰かがCDを掘りに行くことに、俺は揶揄したりはしない。
が、それでも
「体調気をつけろよ」
俺は具体的な話を避けて、大雑把にそう言った。男の深刻そうな顔を指差し、
「病は気から、って言うじゃん。元気出せよ」
と緩やかに笑うことまでしてみせた。あの女には大人としてなってない、と言われたけれど女が知らないだけで、俺にだって大人な一面はある。人は誰でも全面を見せて生きているわけじゃない。誰もが誰かの全面を知っているわけじゃない。人は誰かに、見せたい部分を見せて生きているのかもしれない。人は誰かの見たい部分だけを見つめて生きているのかもしれない。
「お、サンキュー。おまえ、いいCDあったらメールしろよ」
さっきまであんなに不躾な様子で俺につっかかっていたくせに、男は笑顔を見せた。元気を出せ、が効いたんだろう。
「じゃあな」
お互い手を振り合った。元気を出せ、俺は自分自身にも言ってみる。それは意外にも胸に響いてくる。
元気を出せよ、自分。元気を出せ、出せば? 出したら? 出せるでしょ?
知り合いの男と別れ、俺は地下鉄の改札に向かうため階段を下りた。冬の冷たい冷気が背後からぶわっと押し寄せてきて、北風に押された格好になった。俺はころばないように慎重に階段を下りる。タワレコで欲しいCDがあったら2枚買おうと思った。俺の分と男の分。男の住所はたぶん携帯に入っているから送ってやればいい。少しの間共に一緒に生活をして一緒の時間を過ごした女のことより、たった今立ち話をして別れた暗い表情の男の方が、断然気になった。俺は渋谷行きの切符を買った。
もうこの街に戻ってくるつもりはまったくなかった。
さてと、タワレコへ行ったあと今夜はどこへ泊まるかな、俺は漠然とそう思った。
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