logo #55のブルース だいじょうぶ、と彼女は言った


あ、また仲間はずれにされてる、と私は思った。
時間ぎりぎりに朝出社すると、自分以外の同じ課の全員が昨日の晩の飲み会について声高に話していた。
そんな飲み会があったなんて知らなかった。出欠を聞かれた覚えもなかった。
「でも昨日は帰り、寒かったな〜」
「本当、本当。駅で電車待ってるとき、足がじんじんした」
季節外れの暖かさが幾日か続き、昨夜から再び冬の冷気が戻って、東京でも今朝の冷え込みは零度に近かった。
「年内はあと、忘年会だけだな」
「十分、十分」
「早く会費集めとけよ」
「了解」
その忘年会にも誘われないのだろうか。私は自分のデスクのPCを起動しながら、そんなことを思った。
誘われても行かないけれど。それが空気を読むってことなんだろう、ここでは。

昼休みは皆がこそこそと集金の話をしているのを、私は関心がないように装って、コンビニで買ったお弁当をひとりで食べた。絶対に残業をしたくないから午後の業務を早めに始めようとすると、娘の保育園から電話があり、発熱しているようなので出来れば早くお迎えに来れないかと打診された。
私は上司の返事も待たずに、すぐ向かいますと答え、電話を切ってから上司に報告した。やや大げさに内容を伝え、いかにも慌てて社をあとにし、ほっとしながらゆっくりと地下鉄の乗り場に向かった。
娘の発熱は今朝家を出るときから予感はあったし、ひどい症状でもないことはわかっていた。保育園のほうでもいますぐ来てくれというニュアンスではなく、普段のお迎え時間より若干早めだと助かる、といった程度のものだった。娘があの社内の雰囲気から救ってくれたのだと私は思った。エクセルのデータをアップデートし、ワードで報告書を作成し、取引先への見積りをただ黙々と作り続け、うんざりとただ毎日うんざりとしているのだが、それでも今日はことさら嫌な様子があった。作為的で悪魔的で非情であるムードに満ちていた。そこから救い出された。具合の悪い娘から助けられている、実際それが事実だが、不思議な気持ちがしなかった。あらかじめ何かこういうふうに道筋が出来ているような気がする。私からのSOSが自然と娘に届いているといったような。私は娘のいつも誇らしげな表情を思い浮かべた。誇らしく、元気良く、困ったことに彼女はいつも幸せそうに生きていた。

「あら、おかあさん、今日はずいぶん早く帰れたんですね〜」
保育園の先生の明るい声に思わず笑顔になった。先生たちはたいてい声が大きい。そのたくましさと明るさは、働く母親たちの大きな支えになっている。
「熱はどうですか? 給食は食べました?」
社内での陰鬱な表情を脱ぎ捨てて渇舌良く私も話しかけると、先生の後ろから額に冷えピタを貼った娘がひょっこり顔を出した。
「ママ、お熱でちゃったの、ごめんね」
少しだけ頬が赤い顔をした娘がしょんぼりとそう言った。
「あやまらないでいいのよ〜」
私が答えるより先に、先生が娘の頭を撫でる。
「もうママが来たから心配ないわよ。今日おうちでちゃんと寝れば、明日のクリスマス会出られるからね〜」
「あ、クリスマス会」
「そう、明日やりますよ」
「すっかり忘れていました」
「いいの、いいの。お母さんたちは忙しいから、忘れてたっていいのよ」
雑事にかまけて、今年はクリスマス・ツリーも出していなかった。押入れの一番奥にしまってある。
「このまま病院に寄ってから帰ります、クリスマス会お休みしたら、かわいそうなんで」
「そうね、でも無理しないでくださいね」
「ありがとうございました」
「あの、おかあさん?」
「はい?」
「失礼かもしれないけど、なんだか顔色が良くないみたい…。お仕事が忙しそうだから、おかあさんも無理しないでください」
ああ、私は絶句する。やさしくしないで。職場での憂鬱な毎日が頭をよぎり、先生のひとことに不意をつかれて思わず喉に力を入れた。やさしくされると今はだめ。ぐぐっと猫のように喉が鳴る。
「だいじょうぶですか?」
「あ、はい…、だいじょうぶです」
それだけ言うのが精一杯だった。先生から娘を引き取ると、私はぎゅっと娘を抱きしめた。人前で娘を抱きしめることが、今の私には全然恥ずかしくない。この小さな身体に私は自分のすべての力を使って心で音信する。だいじょうぶだよ、何もかも。熱もすぐ下がるだろうし、ママもしょげてなんかいないから。

小児科に立ち寄って抗生物質をもらい、娘と手をつないで家に向かう。夫はいない。1年ほど前に10才も年が下の女性と親しくなって家を出た。別居するくらいなら離婚をと迫る私に、のらりくらりと結論を先延ばしにして、夫は離婚届に判を押さない。まったくどうしようもない男だと思うけれども、月々の生活費だけきちんと振り込んでくるので、言い争いでは夫の屁理屈にやりこめられてしまう私は、口論することに疲れ果て、完全別居状態のまま娘とふたりで暮らしている。
いずれは別々の道に行く予感は十分にあるのに、最終的な結論だけそのまま保留になっている。
こういう話ってよくあることなんだろうか。娘を寝かしつけたあとひとりで寝るには大きすぎるベッドの上で、私は幾度となく自問自答してきた。私には異常事態に思えるけれど、夫や夫と暮らしている女性は、さして異常とも思っていないようだ。今住んでいるマンションの隣近所のひとたちも薄々感づいているんだろうけど、何かを言われたこともない。どこにでもある、よくあること?
けれども自分の友人たちからは、こういう生活をしているという話は聞かない。私が言わないから、彼らも言わないのだろうか。誰もが秘密を抱えて生きているから、意外にもこういう生活をしているひとたちが大多数で、そうじゃない暮らしをしているひとたちが少数なんだろうか。だったら夫が出て行く前の私たちの生活は、希少価値だったんだろうか。あたりまえにあった幸せは、本当は滅多に手に入らない、誰もが欲しくても手が届かない、そんな種類のものだったのだろうか。

「ママ、あたし、明日よくなる?」
家に着いてプリンを食べさせてから投薬をし、着替えを済ませて寝る支度をすると、娘は心配そうに尋ねてきた。
「ちゃんと寝れば治るよ」
「明日、クリスマス会だから。サンタさんがふたり来るの」
「サンタさんはひとりじゃない?」
「ううん。ふたりいるの。若いひとと、年取ったひと」
若いひと、というのはたぶん保育園にボランティアでお手伝いをしている男子学生のことを指していて、年取ったひと、というのは園長のことを言っているのだった。毎年彼らが扮装していることを娘はもうわかっていて、それでも「くる」という言い方をしているから、あちこちに散らばったパズルのピースは、まだばらばらになったままで、それでもあと数年もすればそのピースががっちりと一致するのだろう。
「ママ、何人まで?」
「何が」
「サンタさん」
「えっ?」
「サンタさんって何人までいるの?」
私は思わず声をあげて笑う。笑いながら、ふと夫はこういう娘の普段を知らないのだと思った。子どもらしくオリジナルな豊かで愛らしい発想を、親の片割れである夫は知らないのだ。今現在知らないし、今後も知らないでいるだろう。知ろうとしたことはあっただろうか。娘に何かを聞かれて、ウイットに富んだ回答をしたことがあっただろうか。それより、夫は笑ったことがあっただろうか。この暮らしの中で、私や娘に笑いかけたり、笑いあったり、笑わせたり、そんなことをしたことがあっただろうか。
私はうまく思い出せなかった。そういえば。私は思い当たる。職場での私はまったく笑わない。同僚たちの冗談にも反応しない。必要最小限しか話をしない。自分の態度が頑なだから、おのずと周囲から浮き上がっていく。そしてその雰囲気をひどく重く感じているけれども、打開する気持ちは毛頭なく、淡々と自分の業務に没頭する。どうだっていいことだと思っている。仲間なんかいらないし、打ち明け話なんかしない。母親としての側面なんかおくびにも出さない。それがなんだっていうのだと思っている。職場以外でやさしくされると泣きそうになるくせに、職場では全然へっちゃらという態度を貫いている。職場での時間は、夫について考えることをやめる時間だと感じている。重要な出来事を考えなくて済む、貴重な時間であると思うようにしている。

娘を寝かしつけたあと、重い腰をあげ押入れの荷物をどかしたり寄せたりしながら、すっかり忘れていたクリスマス・ツリーをようやく出す。夫が出て行ったのは1年前のことだから、そうすると去年のクリスマスも私は娘とふたりきりで過ごしたことになるが、一体去年のクリスマスはどうやって過ごしたのかまったく覚えていなかった。最初の衝撃が去ると、そのあとの出来事はうすぼんやりとしたセピア色の昔のフォトグラフでも見ているように、記憶が鮮明ではなくなっていた。おそらく、きちんと記憶をしないことで、私はあの日々を過ごしていたんだろうと思う。忘れたいことだったから覚えていたくなかった。ただ今でも脳裏に蘇る光景はある。マンションのエレベータのところで、私に背を向けた夫の背中が、見たこともない男の背中に見えて、何かがかすんでいくというのか薄くなっていくというのか、そんなふうに輪郭がぼやけてはっきりしなくなっていった。
去っていく男と見送る女。夫である男と妻である女。なんの会話もなかった。エレベーターの扉が開いて夫が乗り込むと、私と夫は一瞬向かい合わせになり、扉が閉じるまでの数秒間、お互いの視線がぶつかった。そして夫は私の視線を避けるように下を向いた。夫が先に視線をずらしたから、私は何も話さなかった。万が一夫が視線をずらさなかったら、私はおそらく何か言葉を発していたはずだ。
いやむしろ一言だけ言ってみたかった。メリー・クリスマス、とかなんとか。そんなことを言って手を振る方法もあったのかもしれなかった。



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