#54のブルース 恋する男
「おはようございまぁす」
店の扉をゆっくりと開けて入っていくと、ガラスのショーウィンドウ越しから店員の女の子が元気に挨拶をしてくれた。
「おはよう…っす」
「いらっしゃいませ」から「おはようございます」にいつから切り替わったのか正確には覚えていないが、明らかにそれはここ2、3回目くらいのことで、普通の接客用語としての「いらっしゃいませ」から「おはようございます」という通常の朝の挨拶に変わったということは、少なくともお客様いつもいらしていただいているのでお顔は覚えていますよありがとうございます、そして今日もまたおはようございますぐっもーにんぐ、という店側からの親しみのある様子だと受け取れるから、常日頃から利用しているお客としては少しばかりの自尊心がくすぐられそれはやっぱりどっちかと聞かれたらぁ嫌いじゃないの、だから客としての俺もやあやあ君たち調子はどうだね?ぐらいのカジュアルさが妥当なんじゃないかと思っている。思っているのだが、見かけより相当へたれである俺はどうふるまっていいのかが今ひとつよくわからない。よくわからないので、必然的にもごもごと明瞭ではない挨拶になってしまい、今日などまだ「おはよう…っす」で済んでいるからいいものの、うっかり油断しているとついつい、ちーっす、とかうぃーっす、とか、ひどいときにはあざーっす、などとまるで見当違いな言葉を発してしまい、そういう他人の話をよく聞いていない、いかにもいまどきの若者風になってしまって、いや現実にいまどきの兄ちゃんだからそれは仕方のないことなんだけれども、ここの店員の彼女に、そのへんのちゃら男として認識されるのだけは我慢がならないのだった。
そのくせほかの常連客より強いインパクトを残したい気持ちはいつもあって、気の利いた挨拶ひとつできないくせに、早起きをして遠回りをし、どんな悪天候でも涼しい顔をしてこのドーナツショップにはほぼ毎朝顔を出しているのであった。
「今日は何になさいますかぁ」
愛らしい声で彼女は俺に尋ねる。にこにこしながら俺のオーダーを待っている。今朝もずらりと鮮やかな色彩で、ドーナツたちが並んでいる。
グレーズド、チョコレート・リング、シナモン・ツイスト、チョコレート・ココナッツ、ホイップ・カスタード、アップル・カスタード、チョコレート・スプリンクル、メイプル・クランチ、ココナッツ・ツイスト、それからブルーベリー・マフィンにクランベリー・マフィン、プレーン・ベーグル、トマト・ベーグル、オニオン・ベーグル、ふわふわのクロワッサンに、ソーセージ・パイとアップル・パイ。
俺はじわじわと心が満たされてくるのを感じる。暖かくて甘い香り。やさしげでゆるやかな空気。
「ええと、バニラ・カプチーノと、ブルーベリー・マフィンを1つ」
オーダーをしながらふと、男のクセにOLみたいな注文じゃんか、と自分でつっこみをいれてみた。
そして、自分でそう思うってことは、店員の彼女もこの男、よくもまあ飽きもせずに朝から甘いもんばっかり食べられるわね、と思っているかもしれないってことで、もしそうだったら若干訂正したいと思った。若干、というのは、来店の目的は、早い話、彼女とお近づきになりたい一心からだからで、俺はいったいぜんたいOLみたいな男では決してなく、だからといって真正のマッチョでも男の中の男でもないが、とりあえず彼女に会いたいがためにこの店に顔を出す、ということを指す。最初の頃は、本当に出勤前に小腹を満たすつもりで店に来ただけだったのだが、いつの頃からか小腹を満たすことは完全にどっかに行ってしまい、俺の最大の目的はただひとつ、ちょいちょい彼女を見ていたい、彼女のはつらつとした動き、明るい笑顔、つぶらな瞳を毎朝目にしたい、そうしてこの頃では彼女の愛くるしい立ち振る舞いを目にするだけで気持ちが高揚してきて、オーダーするときもちょっと節目がちにしてみたり、声のトーンをやや上げたり、髪を染めた翌朝は前髪を何度も触ったりしながら、あれ?このひと今日はいつもと雰囲気違う?的な印象を与えてみせるという姑息な手段まで駆使しながら、まあ大体は何をやっても結果的に彼女の態度は同じであるところが納得いかねぇし本当は少し気にもしているのだが、まあいい、そういった俺なりのささやかな努力というか情熱というか単なる猿知恵というか、そんなことを行うのがこの朝の数十分の日課と化している。
「はい、450円です」
鈴の音のような愛らしい声で彼女はレジのキーを叩いた。素晴らしい声だと思った。まじやばくね?と思った。
もしもあのような声で朝だよ〜もう起きる時間だよ〜なんてベッドの上で自分の耳元に囁かれたら、俺はもっともっとやる気に満ちた幸せな気分で毎日を過ごせるような気がして、身もだえしそうになる。そのくらいチロチロと鈴が鳴る声なのであった。あの笑顔にあの声、一体世の中はこのような素晴らしい女性を野放しにしていて合法なのであろうか?と俺は真剣に心配になってしまう。普通に道端を歩いていて大丈夫なんだろうか?やっぱりひとりで歩くのはいけねえよ、俺が横にいてこそ彼女はいい塩梅になるはず…そうやって妄想はどんどんと膨らんでいくのに、実際は黙って千円札を出して、おつりの550円を手にし、カウンターの一番端に座って何か今日の仕事のことでも考えているふうなふりをするだけで精一杯なのだった。
「あーヤマオカさん、10分休憩はいって」
店長風な男が、彼女に近づいてそう言った。休憩?俺がここに座った途端、休憩に行っちゃうわけ?今日はついていないと思った。やはり日によって、なんとなく今日は成功ぎみだったなという日とまったく朝から悪魔に導かれているんじゃないかという日が、たかだか朝の数十分の中にもある。そういう意味では今朝は、あの店長風の男が悪魔で、ついていない日なのだった。それにしても、彼女はいつもこの時間に休憩なんかしてたっけ?俺はだいたいこのカウンターで、ずるずるとカプチーノを啜りながら、彼女が他の店員と他愛のない会話をしたりするのを盗み聞きし、ふうん、今はロック系それも昔のUKモノの音にハマってんだ?だったら俺、ストーンズとかザフーとかそのあたりの話、超得意なんですけど?とか、へー昨日映画見に行ったんだ?誰と?ねえ誰と?などと分析とも、嫉妬ともとれるような、いずれにしても軽くあぶない奴みたいな心の中での一人つっこみを考え、彼女の行動をチェックするのが楽しみなのによ、と悪魔な店長風の男をジロリと見ると、その店長風の男も俺のことをちらっと見るのだった。はっ?なに、今の視線。もしかして、俺のライバル?と一瞬身構えたけれど、どう考えてもその男は俺らの親の年齢に近い感じだから、彼女の一挙一動に注目しすぎる俺の勘違いで、悪魔店長はただ常連の俺の存在をちらっと確認しただけなんだろう。
「は〜い。じゃあ、休憩はいりまぁす」
彼女は、ゆるやかな笑顔でそう答えていた。あーやっぱ休憩はいっちゃうんだな、俺はしょんぼりとしながらそれでもそんなしょげた様子を見せるわけにはいかないから、何事もないふうを装ってブルーベリー・マフィンを口に入れようと、大きく口を開けた。その瞬間、彼女と目が合った。
「ごゆっくりしていってくださいね」
うふふ、といった様子で、彼女が俺にそう言った。俺はびっくりして、あやうくマフィン1個そのまま飲み込むところだった。うわっ、うわっ。ごゆっくりってさ、彼女が、俺に。うふふってさ、ガチで、俺に。咳でむせ返りながら、自分の顔がぽわんと赤くなったのがわかった。いやあ、なんか一歩進んでね?ゴリラのように胸をどんどんとたたいて、もう咳をしないように、ゆっくりとカプチーノを流し込み、周囲に人がいないことを確認して、俺は深々と深呼吸をする、うっすらとまぶたを閉じて。
そうして息を整えてから彼女のあのうふふについて考えられることをざっと列挙してみた。うふふ、と笑ったということは、(1)まず俺を常連中の常連であることの完全な認識、(2)その中でも特別な愛情を持つほどではないにしろ、彼のことなんか気になる〜、くらいのお客であることの再確認、(3)単純にマフィンを食おうと大口を開けた俺と目が合ったおかしさ、(4)愛、このいずれかすべてかが考えられると思った。しかしさすがの俺でもこの場合(4)はまだ早いと思ったので、(4)は仕方なくはずとしても、今の段階では(1)〜(3)だけでも十分な状況ではないだろうか。そして悲しいかな、たとえ(3)だけであったとしても、その(3)が俺の顔がめっちゃおもろい、みたいなものだったとしても、それはそれで俺にとってはウケたことはお近づきの第一歩、と自動的にポイントアップにつながるから、これってありっしょ?この先も順調にイケるっしょ?と有頂天になる。明日からの戦略いかんだな、俺は残りのマフィンを口にした。俺の出方しだいで、もしかしたらひょっとするかもしれないのだ。それでもこういう場合、慎重に進めていかないといけない。恋はあせらず、だっけか、兄貴が持ってるCDにそんな歌もあったしな、俺はカプチーノも飲み干して立ち上がる。
そこで俺は重大なことに気づく。はっとした。あの悪魔の店長は、彼女のことをヤマオカさんとか呼んでいなかったっけか?確かそうだ。ヤマオカさん、休憩はいって、と言っていた。ヤマオカさんっていうんだ、彼女。彼女の名前はヤマオカさん。どんな名前でも彼女には似つかわしいような気がしてくるし、彼女の場合はもはやどんな名前であろうと、もうゆるぎなく彼女、という気もして、よほど変てこな、日本人なのにストイコビッチさんとか呼ばれてたりしたら、もうそれは彼女のイメージとはほど遠くなってしまうけれども、まあ幸いにしてストイコビッチさんじゃなかったし、ここは名古屋でもないからあのストイコビッチさんと関係ないし、んなことはどうでもよくて、ヤマオカさんっていうとやっぱり山に岡だよな、もう俺は彼女の苗字の漢字まで想像して、とにかく今日は収穫が多かった、とほくほくした。今日は仕事もがっつりいけるような気がする。どんなこともがんばれるような気がしてくる。
俺は単純で浅はかでわかりやすくバカか利口かって聞かれたら、そういえば小学校のときから「おりこうさん」などと言われた経験はあまりなく、大概が「元気で明るくていいわね」と今から思うと他に誉める箇所がないとき、ひとは「元気」で「明るい」ところをうらやましそうに言う傾向があって、しかしそういった物言いは大人になった今はいくらバカでも、それってある意味上から目線じゃね?くらいわかるけれども、とりあえずそんなふうに誉められてきた男なのだ、自分は。それで、ここまで俺の話をしてきて、これを読んでいるきみたちは、俺のことを妙に恋に浮かれて間違いなくストーカーっぽいと誤解しているかもしれないけど、それは違うとだけは言わせてほしい。
俺は自分の気持ちをただ言葉に、それもくどくてしつこいと思われるほど言葉にしているだけで、たとえばほかのひとたちは自分の独白や気持ちをずらずらと言葉に出して語らず、そりゃそうだろう、すべてのひとたちが自分の気持ちをべらべらと言葉にしていたら、世の中つぶやきの騒音でものすごいことになるし、大体人間の心ってやつは恋の始まりを、あ今ここから始まったとか認識していないもので、なんとなく気になったり考えたりしているうちに、もしかして好きかもなどとはっとしてから気づく、という状態でそれはつまりどんなひとも恋が始まるときって、今の俺の気持ちとまったく変わらないはずで、はるか昔何千年も前から人間は恋をして、夢を見て、生きる、ってことをえんえんとやってきた。
そうしてこれからも人類が滅亡するまで、人は恋をして、生きていくってことをずっとずっとやっていくともう決まってて、それは確固たることで当たり前で自然で普通で普遍的で間違いなくて、いや私は俺はそんな恋なんかしたことないし現実的に生きているからそうそう素敵なひととの出会いもないとかいう反論、そういうことを言うやつって絶対にいるけれども、じゃあ何か、ゆりかごから墓場まで、短い一生の中で一度も恋をしたことがない一度も恋をしない、という動物っていうのは、明らかに自然界の営みからいって不自然で、そういうひとって何かしらの事情がない限り大概は格好つけて気取ってて、だってそうだろ、人間は夢を見て生きる動物だよ、希望がなかったら生きていけないんだぜ? 絶望だけで生きていくことはほとんど不可能だと思うし、それはこの世の果ての話、そういう本も読んだことあるけどさ、まじ陰気くさくてきつかったその世界はいつも灰色で殺伐としていて殺戮しかない世界でさ、だからそう、俺の恋の話は俺だけの話じゃなくて、そしてまた俺の恋の話は今この瞬間恋をしていないどこにでもいるきみとか誰かの話でも、あるんだぜ?
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