logo #53のブルース 夜のスウィンガー


その週末も彼と飲んだ。大きな居酒屋の中の小さなカウンターにふたり並んで、しこたま飲んだ。
彼はもっぱらウィークディをバイトにあてていて、週末は飲みに行ったり遊びに行ったりするようにしているのだと言った。
「なんだかリーマンみたいじゃん」
私がそう言うと、
「まあな。でも大学のときからこういう生活してれば、社会人になったときにすんなり馴染むだろ」
少しだけ眉間に皺を寄せ、彼は焼酎をぐっと飲んだ。
「おまえ、おかわりは?」
「もらおうかな」
「なに? またビール?」
「うん」
「女のくせによくそんなにビールばっか飲めるよな」
ふふふ、私は声に出さずにうっすら笑った。彼以外のひとに「女のくせに」と言われたら、きっと憤慨するだろうに、私はこの男にそう言われると胸いっぱい喜びが湧いてくるのだった。思えば高校時代、同じクラスにいたときからそうだった。好きな男には自分についてのことだったら、何を言われても嬉しい。でも彼には彼女がいる。いつも恋人がいた。高校のときから、彼はいつだって私以外の誰かに恋をしていた。
「おまえだと何でも話しができるんだよな。こういうの、ウマがあうっていうの?」
彼はそんなことを言っては、私を呼び出して酒を飲む。ときどきは一緒にクラブに行って踊ることもある。一緒に中央線の始発に乗って、それぞれの駅で降りて帰宅したりする。彼にとっては、私は気の置けない女友達。
「こないだ競馬行ってよ」
「誰と?」
「彼女と」
「…」
「もーボロ負けだよ。ついてねえよ、最近。なんかツキがないんだよなあ」
私はしずしずとビールを口にしながら、彼は競馬場に彼女を連れて行くんだなと思った。好きな男の恋人の話なんか聞きたくもないひともいるだろうけど、私は違う。どんなことでも彼のことなら知っておきたい。胸がちくりとしても、自分は実際にその現場にいないわけだから、彼女の存在を想像しなければそれほど辛い話しでもない。私はそうやって、彼の話に耳を傾けながら、自分にとってちょっとだけきつそうな部分は排除していた。彼女のいる男を好きになったわけではないのだ。昔から知っている男に彼女ができただけ。私はいつもそんなふうに解釈をする。そう思おうとする。私の周囲は、
「ねえもう会うのやめたら?そのうち傷つくことになるよ」
と助言してくれたりするのだが、彼が私を友人だと思っている限り、この関係は永遠に続くのだからそれはそれでいいと私は思った。ずっとずっとそばにいる。でも、それが永遠に? 永遠なんてこと本当にあるの? そう思わなくもないけれども、私は彼の近くから離れたくない。この男が私の前で発言する言葉、放つ光、屈託のない笑顔、それらを一番近い距離で聞いて、受け止めて、見ていたい。
「おまえ、最近どっか行った?」
「アキオたちのライブ見に行った」
「おー、アキオね。元気だった?」
「元気だったよ。前よりギターもうまくなってた」
「そうか、そうか」
こういう会話は、彼の恋人は入ってこれないはず、と私は思った。彼の恋人がいないところで、自分たちの仲間内の話しをするのは少し気分がいい。彼は仲間を大事にするひとで、だからこそいつまでも私などを呼び出しては一緒にツルんだりするのだろう。でも彼が私を恋の対象として見ていないなら、私にできることは本当に少ない。私は彼と一緒に競馬場には行けない。私が彼と行く場所は居酒屋やクラブ。そういう場所はいつも夜だ。日の当たらない場所。昼間のまぶしい日の光の中で、私が彼と馬券を買うことはない。
「あーなんだか少し酔ってきたぞぉ」
彼はふぁーとため息のような吐息のような息を吐き出した。少しだけ顔が赤い。
「顔、赤くなってきたよ」
「だろ? 自分でも火照ってるのがわかるもん」
彼は私に照れくさそうな笑顔を見せ、うん?といった様子で私を一瞬見つめると、自分だけ身体をこちらに向けた。そして無言で私のアゴをくいっと持ち上げ、つかんだ。突然のことで私は咄嗟に何をされるのかがわからず、思わずぎゅっと目をつぶった。
「おまえ…」
彼はそう言って手を離し、私が目を開けたときには身体の向きを元に戻していた。その様子がなんだか真剣な近寄りがたいような雰囲気だったので、
「今の、何?」
と私は小さな声で尋ねた。
「ちょっとどきどきしちゃったよ」
彼の横顔を見ながらつぶやいた。
「おまえもキスをするときは、目をつぶるんだなと思った」
「えっ」
「そう思ったんだよ」
彼はぶっきらぼうに言い捨てると、
「トイレ行く」
すっと立ち上がった。えっ? えっ? カウンターに一人残された私は呆然とした。どうして。私は今にも涙があふれそうになり、目をごしごしとこすった。こんなこと、やっちゃいけないよ。私には絶対これはやっちゃいけないよ。顔を下に向けたら、いろんなものがこぼれてきそうで、私は上を向く。居酒屋のカウンターでひとり上を向く。途端に周囲の喧騒が耳に入ってくる。笑い声、オーダーを呼ぶ声、次に行く場所の相談の声、店員たちの確認のやりとり、会計のレジの音、そんなものが渾然一体となって私の耳に飛び込んでくる。私は顔を上に向けたまま、ずるいなと彼を思った。ずるいじゃん、こんなのって。彼は私の気持ちに気づいている。私は、彼が気づいていないと思ったから、ずっとそばにいられると思っていたのに。まさか、全然、まったく、夢にも思わなかったよ、彼はそういう態度である、いや、彼はそういう態度でいるべきだった。私のためにも、そして彼のためにも。私の気持ちに気づいているのに、私のことを恋人にはしない。それを私にわからせてはいけなかったのに。
店の喧騒は、私を孤独にする。たぶん今すぐここを出るべきなんだろう。私は、バッグの中から財布を出して、千円札を何枚か置いた。もしかしたら彼はわざと席をはずしているのかもしれない。彼が戻る前に私はここを出て行くべきだと彼がそう告げているのかもしれない。それは、私の気持ちに応えられないという男の遠まわしの本音。決定的なことを言わずに、相手にわからせるというやり方。
どうだっていいや、もう。私は涙が落ちないように、そろりそろりと椅子から立ち上がる。いろんなこと考えたって、お互い本当の気持ちなんか一言も交わしていないんだもん。受け取り方次第で、どうとでも取れるような、そんな言葉しか交わしていないんだから。今夜はさようなら。またいつかお酒が飲めるときがあるかもしれない。でもそのいつかはきっと遠い先のことだろうし、今夜と同じ夜はもう二度とはこない。



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