#52のブルース 彼女が自由に踊るとき
「おれNYにいたときのクセで、つい醤油のことをソイ・ソースって言っちゃうんだよね」
男は寝返りをうちながら、そんなことを言った。口を開いた男の胸板が上下に動いた。
「ふうん」
私は適当に相槌をうった。最近改装されたという、男の好きなレストランの話からいつの間にか醤油の話になっていたが、私は真剣に耳を傾けていなかった。男は端から私の話も聞いてはいないのだから、私も男の話を真面目に聞く必要などなく、そうすると必然的に男に対してうつ相槌は、どんな種類のものでもいいはずで、その晩も私はぼんやりと天井を見つめたまま、いつもの通りなんとなく答えていただけだった。それなのに男は、
「おまえもそうだろ」
と今夜に限って私に話しを振ってきた。
「確か前に言ってなかったっけ? おまえがアメリカにいたとき、キッコーマンが懐かしくて、醤油を買っては成分表みたいなものまでつぶさに読んでたって」
正確にはそうではなかった。私がかつて結婚していた相手と神経をすり減らして暮らしていたとき、キッコーマンのラベルを穴のあくほど見つめ、「Water, Wheat, Soybeans, Salt…」と何時間も繰り返しぶつぶつとつぶやいていたことがある、と私は話したのだった。医者に行ったら、depressionだと言われた。depression、うつ病。私は孤独だった。知り合いの誰もいないアメリカの片田舎でつらかったんだ、と私は男に話したのだった。話さなければよかった、私はさっきから波型の模様が埋め込まれた柄のホテルの天井を見つめ続けそれから目を離さずに、この男にその話しをしたことを後悔した。勝手に意味を取り違えて、自分のわかりやすい方向に話を持っていこうとしているこの男に、私の大事な話しをしたことを悔やんだ。わかりあえないことを話したって仕方がない。それでも私がこの話しをしたときは、私はどこかでこの男に何かを期待していたのかもしれなかった。そんな希望を持っていたことが今となっては悔しかった。
「そうだっけ」
私は再び適当に相槌をうつ。ぞっとするほど低い声で。
「だからおれ、醤油を見るとおまえのこと必ず思い出しちゃうんだよな、家の食卓でもさ」
男はそんなことも言った。家の食卓、とは男の妻のいるダイニングのことで、そんなことを仮にも愛人と呼ばれるような関係の私とホテルのベッドに横になりながら、自宅の話しを思わず口走るこの男を、私はちっとも愛していなかった。ふん、嫌な男。私は愛しちゃいない。だから現実的な単語なんか口に出すなんてばかげてる。私は身体を横にずらし、軽くため息をついた。
「疲れてる?」
男は、私の背後から声をかけてきて、肩越しに軽くキスをした。愛情のかけらもない、肉欲だけのような冷たい唇。男の唇が首筋に移動すると、男とホテルに入る前に擦り込んだディオールのパフュームの香りが、私の鼻筋にまでのぼってくる。ああ、本当に。私は自分の香水の香りを嗅ぎながら、何故か安堵するような気持ちになり、はっきりとこう思う。こんな男と結婚していなくて本当によかった。
カチリと寝室のドアを開ける気配がして、夫が帰ってきた。私は寝ていた身体を起こさず腕だけ伸ばしてベッドの横のライトをつけた。
「ごめん、起こしちゃった?」
夫がすまなそうに言った。かすかにアルコールのにおいがした。
「飲み会だったんだっけ」
まぶしさに目を細めながらそう聞くと
「そうだよ。おまえも明日早いからもう寝ろよ」
ネクタイを緩めながら夫は私を気遣った。夫婦でフルタイムの仕事を持っているから、私と夫はすれ違いが多い。けれども学生時代に知り合って結婚したせいか、長い年月の中でこういう生活に慣れてしまい、お互いあれこれ詮索しないようになってしまった。夫は細かいことを言わないおおらかな性格で、私ものんびりしたところがあるし、私と夫は長年の信頼関係のもと、自由に生活している。自立しながらの自由。大人の自由な生き方。互いを尊重し、それぞれの営みを大事にしながら、パートナーを思いやって生きる。私たちはそれを実践してやってきた。かつて学生時代のときの仲間の一人が、ご主人の浮気で離婚したとき、
「ウチに限ってそれはないね」
と、お互い同じ意見で微笑みあったことがある。
「たぶん、幸せじゃなかったんだと思う」
と私は夫にそう言った。仲間の一人は、いろんな不幸が重なったのだと思った。
「そうだね。幸せじゃないことを無理に推し進めても、幸せに変わるわけじゃないからね」
夫はそんなことを言い、いとおしそうに私を見た。長い時間をかけて築き上げた、私と夫の歴史。私はたぶん幸せなんだと思う。2年前仕事の関係で夫がNYに単身赴任になったときも、彼はまとまった休みになるたび帰国して、ずいぶん私を気遣ってくれた。大事にされ、慈しみ合い、育む。私も夫の存在がいとおしいと思う。
「ありがとう。寝るね」
そう言って私はじんわりと暖かい気持ちになって目を閉じる。
「ライト消すよ」
夫が手を伸ばしてライトを消してくれた。そのとき、私の鼻先をディオールの香水が掠めた気がしたがたぶん私の嗅覚がおかしいのだろう。だって私の香水はトミーのスポーツタイプのフレッシュな香りだし、この家にはディオールの香水は置いていないから。
「おやすみ」
夫は私のおでこに優しくキスをした。こういう男と結婚していて本当によかった。私は香水のことなどすっかり忘れ、静かに眠りに就く。
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