logo #51のブルース ミスター・アウトサイド


昔の男がテレビに出ている。
残業をして帰宅し、シャワーを浴びてから発泡酒のプルトップをあけ、カウチに座ってリモコンをオンにしたら、画面からその男が几帳面に話しているのが目に飛び込んできた。
薄いフレームのめがねをかけ、違法建築物に対してアナリストとしてコメントをしていた。
どうやら住宅物の建築関係のオーソリティらしい。イタリア製のスーツがよく似合う、新橋あたりにはあまりいないような、おしゃれで立派な中年男性になっていた。
コメントをする男の名前のテロップが流れ、そこで私ははっきりとその男が昔の恋人だったことを認め、一瞬息が詰まりそうになった。私はふうっとため息とも深呼吸ともとれる呼吸をし、そして一気に発泡酒を口にした。ごくごく、と喉の奥を鳴らして飲んだ。
ふと、昔の男をテレビで発見する女ってどのくらいいるんだろう、と私は思った。
昔の恋人が、成功やら方向転換をして、テレビや新聞などに時々顔を出す文化人、タレント、各種アナリスト…、様々な職業に就いてなんの前触れもなく自分の目の前に飛び込んでくる。それはどのくらい、よくあることなんだろうか。そしてそういうとき、他の女たちはどういう反応をするのだろうか。別れかたにもよるだろう。激しくののしりあいをして別れたら、今も憎悪やら悔しさみたいな負の気持ちで相手を見つめるだろうし、円満に別れたら、あのひとも頑張っているんだから自分も頑張らないと、と同士のような気持ちになるだろう。
だったら私の場合はどうなるのだろう。私はどういう立場で彼の姿を見つめればいいのだろう。
いつの間にか連絡を取り合わなくなり、いつの間にか終わった恋であったはずなのに、どこでどう調べたのか私の居所を掴んで、5年ごとにカードを送ってくるこの男のことを、私はどういった目線で見つめたらいいのか、わからなかった。

大学生のとき、私は友人に誘われてコンパの会場に出向いた。友人の友人、とか、さっきまで隣のテーブルで飲んでいた大学生、とか、いろんなひとたちが紛れ込んでの飲み会だった。私はそこで物静かに飲んでいた彼と知り合った。彼は私より2学年下だった。建築を勉強していると言った。
私とは違うタイプのひとだとは思ったけれど、なんとなくウマがあい、二人でコンパを抜け出して、公園を歩きながら将来の夢を語った。そのあと、いろいろな場所で彼と会った。東京の街を二人でよく歩いた。いろんなことを二人でゆっくりやれるといいなあと私は思っていたのだけれど、春休みに二人で京都に旅行し、私が就職してからは会える時間が極端に少なくなっていった。忙しいことを理由に、だんだん会わなくなった。連絡が途切れがちになっても、解決しようとはしなかった。
どちらも、物語の終わりが来ていることがわかっていて、けれども決定的な言葉を放つことを恐れていた。恐れているからこそ、たまに会ってもぎくしゃくとし、そのぎこちなさが余計に負担になって、とうとう連絡をしなくなった。しょうがないなという気がした。彼もそうだったのだろう。あえて、物事の終わりを宣告しなくても、自然に終わることはあるのだと私は思った。

私はそれで終わったと思っていた。社会人として初めての仕事や職場の飲み会や、学生時代とはまるで違う大人の世界に足を踏み入れて、世の中の不公平さや、やりきれなさ、仕事をとりまく複雑な人間関係にだんだん抵抗もなくなり、営業1課のだれそれと総務のだれだれさんがつきあっている、といった噂話にも驚かなくなっていた。いろんなことに慣れたのだった。卒業してもう5年がたっていた。友人たちもぼちぼち結婚しようかなあ、などと言い始めた頃だった。そんなときに、あのカードは届いた。
「元気ですか」
と冒頭に書いてあった。久しぶりに会う友人に宛てるメールの書き出しみたいな感じがした。私の友人に私の住所を聞いたと書いてあった。私は就職を機に、家を出てひとりで暮らしていた。
「僕も3年前に無事大学を卒業し、今は建築事務所で働いています」
そういった近況のあとに、
「君とはなんとなく終わってしまったから、なかなか連絡がとりにくく、でもなんとなく胸の中に残っていたんですね。だからこうしてカードを書くことができて嬉しいです…。もっとも君がこのカードを受け取ると、戸惑ってしまうかもしれないけど…」
と書いてあった。会いたいとかそういった文言は書かれていなかったから、実際彼の言う通り、私はそのカードを受け取って戸惑った。なんだろうなあ、これ、と思った。返事を書くべきなのかよくわからなかった。私の友人に住所を聞いた時点で、私の近況はたぶん把握しているはずだろうし、この人の目的はなんだろうか、と思った。純粋な懐かしさだけで、ひとりの若い男が5年ぶりにカードを送ってくることが腑に落ちなかった。
どうしていいのかわからないなと思っているうちに、月日は流れた。

そうしてそのカードを受け取ったさらに5年後、また私は2通目のカードを受け取った。つまり、なんとなく別れてから10年後、ということになるが、そのとき私は結婚をしていた。結婚をして、子どもを生んでいた。
「大変ごぶさたしております」
と書いてあった。また友人の友人から住所を聞いたと書いてあり、結婚しておかあさんになったと聞き、月日の流れるのは早いとかなんとかそんなふうな言葉が並べられていた。そのときも私は戸惑いを隠せなかった。夫になったひとに懐かしく語るには、なんとなく生々しいものを感じ、それでもきっとこれはたぶん物静かだった彼の唯一のお祝いのアクションなんだ、という具合に受け止めるよう、思い直した。5年前のカードのときも、その後何かがあったかというと何もなかったし、たぶんあの人はそういうことが好きなんだろうと思った。そのときはもう、つきあっていたときの彼は、何が好きでどんな食べ物を好んでどういう音楽が好きだったか、などといった細かいことはほとんど思い出せなかった。ただあの頃別に筆まめでもなかったのに、どうしてたびたび5年ごとにカードを送ってくるのかよくわからなかった。それでも、思い出してくれてありがとうと私は思った。

そしてその5年後、私はみたび彼からカードを受け取った。私は今度は娘を連れて夫の元を去り、別の街で生活していたのだけれど、彼は私の友人の同僚の更に友人からアドレスを聞いたと書いてあった。
「別にストーカーではありません、ご心配なく」
その一言がなかったら、私は少しぞっとしていたかもしれない。
「本当に純粋に君のことを思い出すと、この時間間隔なのです。まったくぴたりと5年ごとに君にカードを書きたくなるのです。そうしてそのたびに君はいつも住所が変わっていて、実際問題追いかけるような形になってしまうことを、お詫びします」
こんな文章が書けるひとだったんだなあ、と私は極めて不思議な気持ちになる。彼のことを知っていた時期より知らない時期のほうが長いから、このひとのことはよくわからない。元々そういうひとだったのかもしれないし、彼自身変わったのかもしれない。しかし、自分自身も慌しく生活が変わり、それに伴って私も大学生のときとは違う思い切りの良さとか、大胆さだとかふてぶてしい部分を相当身につけており、そういったことを「変わった」というのならば私は変わったのだから、この男の文章の変化だって、成長とか成熟とか大人になったとか、そういう意味での変貌であるなら別に悪くはない。私はもうこの男のことを知らないのだと思った。5年ごとに送ってくるカードの文面からのみ、この男のことを判断できない。そして不思議だなあ、どうしてだろうという疑問を毎回そのままにして、一度も返信しない私は、その部分だけは変わっていない。

それから5年後。私はこのときは、心の準備をしていた。今年はカードが来るかもしれないという気持ちでその年を過ごしていた。彼からのカードは、
「もしかしたら今回のカードを受け取っても、もう君は驚かないかもしれません」
と書かれてあった。自分の心を見透かされているようで、なんとなく彼に対してすまない気持ちになった。
「君は元気でやっていると、風のたよりで聞いています。僕も元気でやっています。僕は先月40才になりました。君と出会ってもう20年もたったことが信じられません。学生のときから建築のことしかやってきていないけれど、建築に関しては自信を持って誰にでも言うことができるようになりました。それだけは誇りかもしれないなあ…」
いつものカードより少し長い文章だった。もしかしたら。この男は私に向けてカードを書いている体裁をとっているけれども、これはきっと彼自身の節目節目の日記なのだな、と私は思った。
だから私から返信がなくても平気だし、私と会いたいとかそんな台詞もないのだなと思った。たとえ私にこのカードが届かなくても、彼はきっと大丈夫だろう。たとえ私が破り捨てているとしても、彼は怒らないだろう。彼にとって重要なことは、このカードを投函することだけなのだ。投函したことで、彼の中での達成感はすでにマックスなんじゃないか、と私は考えた。

その考えに至ったのが、今から2年前だった、と私は発泡酒を飲み干して思い出した。
画面上の男は、私が恋人としてつきあっていた当時の面影はほとんどなかった。このひとと恋をして、このひとと旅行に行き、このひとと酒を飲んで、このひとと歌を歌い、このひとと歩いたのだ…、ということがまったく想像できなかった。知らない男がイタリア製のスーツを着用して、建築についてコメントをしている、という印象しか持てなかった。懐かしくて涙が出る、という気持ちになったらどんなに気が楽だろうと私は思った。滑らかに話すその声も、私にはあまり馴染みがなかった。
私は画面の中の男の手の動きをじっと見た。男の指にしてはやや細いその指で、私に5年ごとにカードを書いてくる、それだけをじっと見つめた。



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