#50のブルース Rock & Roll Night
「もうすぐ生まれそうな気がする」
私は自分のお腹をさすりながら、定期的に襲ってくる鋭い痛みに、それまでにない何かを感じ取って電話口で夫にそう告げた。
「そうか。ということは今夜か明日だな」
電話の向こうで夫はのんびりとそうつぶやいた。
「今夜か明日か、それはわからないけど、でもとにかく今すぐ帰ってきて」
私は切羽詰まった声を出した。
「病院には電話したの?」
「した。間隔が10分置きになったら、また電話くれって言われてる」
「そうか」
夫のその「そうか」は、そうかわかった今すぐ帰る、なのか、そうかそういう事情なんだね、なのか、どちらかわからなかった。
夫は昨日も一昨日も家に帰って来なかった。仕事で忙しいからカプセルに泊まったとか、残業で遅くなったからそのまま社に残ったとか、いろいろな言い方で家に帰れない理由を言った。結婚して2年たったけれど、夫が一週間続けて家にいたことはほとんどない。こちらがびっくりするほど毎回違う理由があった。はじめのうちは、本当に激務をこなしているのだと思っていた。しかしそのうち、そこまで仕事をしているわりには顔色もいいし、元気も愛想もよく、そうして給料にもほとんど残業代が含まれていないことがわかり、私は夫に対して言うべきことが見つからなくなった。結婚をしているのに滅多に家に帰らない夫は、私に対して平然とそして親しみやすい笑顔をいつも向ける。
一般的に言っても尋常ではない彼の結婚のスタイルに、私はとうてい納得いかなかったけれども、夫にまったく不自然な様子はなく、泰然としていて落ち着きはらっていた。私が浮気を疑ってまんじりとしないまま朝を迎えても、ぞっとするほどの悲しみに打ちひしがれても、彼にはこの私の気持ちは理解できないのだろうと思った。夫が家に帰らない理由は、愛人がいるとかいないとか、そんなことを超えている、と私は判断した。家、に帰らないのは、家、に帰れない。家、は彼にとって心休まる毎日の安息の場所ではなく、ときどきそっと休憩をするための場所ではないかと私は思った。たとえ愛人が外にいても、家、を毎日帰る場所に決めて、ひとは家に帰る。しかし夫はそれをしない。やらない。できない。する必要性がない。そういう生き方。そういう人生の方法論。たぶん、彼はこういうひとで、私はそれが許せない女で、そもそもそんなふたりが結婚したこと自体、それは大きな間違だったのだと思う。しかしそうやって彼を解釈すると、私のどこがいけないのか、と自分に対して悩まないで済むことがわかった。私がいるから家に帰らないのか、私の存在がそれほど嫌なんだろうか、だったら何故私と一緒に暮らしているんだろう、という根本的なことを悩まずにいられると、彼の結婚する前となんら変わった様子には見えないあくまでも自然な態度を、歓迎すらしたのだった。夫が自然であり続ける限り、私も自然にふるまおうとした。そんなことは全然気にならないんだというふうに。無理やりそう思うことで、こんな結婚はいつまでも続くわけがないという、一番重要な自分の気持ちを払拭した。
私はこの結婚生活を破綻させるわけにはいかなかったのだ。口先ばかりで調子よく、あの男はどうも信用できないと言った実家の両親の反対を押し切って、入籍だけ勝手に進めた私たち夫婦のことを、両親はおろか周囲のひとたちも認めていなかった。夫のご両親はとうに鬼籍にはいっていて、私には頼るところも帰るべきところもなかった。そういう夫婦は世界中のあちこちにいるだろう。自分たちだけが不幸なわけじゃない。ふたりで役所に結婚届けを出しに行った帰り、私はわずかに涙ぐみながら夫に、私も頑張るからあなたも努力をしてくださいと頼んだ。ふたりで寄り添って、暖かい家庭を築いていこうと話した。夫は心配することは何もないと、あのとき確かにそう言った。ありがとう、これからもよろしく、私はそんなふうに夫に言い返したと思う。
「で、帰ってきてくれるんでしょ」
私はあの入籍をした日に、心配することは何もないと言った彼の笑顔を思い浮かべた。どうしてあのとき僕は家に帰ることをしないタイプだと言ってくれなかったんだと、いらいらしながら夫に尋ねた。
「うん。すぐ、というわけにはいかないかもしれないけど」
「なんで、すぐ、じゃないわけ?」
「だって今電話もらってさ、すぐ帰るわけにはいかないだろ」
「じゃ、どのくらい?」
「え?」
「今、手が離せないにしても、終了のメドはつくでしょ?どのくらいかかりそうなの?」
「全然わからない」
こんな会話は不毛だった。赤ん坊が生まれそうだと言っても、うだうだと理由をつけて急いで帰ってくるそぶりすら見せない。それはいつもの夫の態度だった。それがわかっているのに、私は今日だけは引き下がるわけにはいかないと、いつもより夫を追及している。夫を心の中で糾弾している。
「わからないって…。予定日をとっくに過ぎているんだから、たとえ今日じゃなくたって緊急にこういうことになるってことぐらい、わかるでしょ?」
「そりゃわかってるけどさ」
「わかってないじゃん」
私は大きなため息をついた。こんなときに議論をしたくなかった。いや、いつのときでも私は喧嘩をしたくなかった。だから妻が臨月で、夫が何日も帰ってこないという一般的には異常な事態でも、私は正面から立ち向かうことを避けていた。決定的な言葉を使って、自分を苦しめたくなかった。自分のお腹の中に宿っている小さな命を、今震えさせるようなことをしたくなかった。それなのに私は今、夫を責めていた。
「じゃ、あなたの会社ではどんなときなら、すぐ帰れるわけ?」
どんな男でも今結婚している相手はこの男だった。この男とこの瞬間立ち向かわないと、お腹の子どもにどんな言い訳をすればいいのだろうと思った。
「どんなときって、非常時だろ、それは」
「この状態は非常時じゃないっていうの?私はあなたの会社に電話したのだって今が初めてじゃない?それは今私がすっごく困っているからなんだよ?」
「だけどさおれにだっておれの事情があるんだよ」
「どういう事情?」
「仕事上の」
「そんな抽象的な言い方しないではっきり言えば?」
「何それ」
「帰りたくないんだって。おれはその家に帰りたくないんだ、どんな状況でもどんな場合でも」
「勝手に人の気持ちを代弁するなよ」
「自分で言えないからよ」
「なにかさ、勘違いしてない?」
「なにも。もういいですっ」
私は力をこめて電源を切った。くっ、と涙をこらえた。
こうしている合間にも、陣痛は時折襲ってくる。
「ごめんね」
私は声に出して、自分のお腹をさすった。
「ごめんねごめんねごめんね」
更に強くさすった。
「こんなおとうさんとおかあさんでごめんね。こんなときに喧嘩してごめんね。でも絶対にちゃんと私に会いに来て。生まれたことを絶対に絶対に後悔させないからねっ!!」
そんなつもりはなかったのに、私の声は半分叫び声になっていた。獣のような唸り声をあげながら、ああ君は孤独だ、と身体の芯から何かが私の脳内に囁いてくる。孤独だよ孤独。孤独なの? 私が?
お腹に手をあてながら目を瞑ると、そこにはどんよりとした深い闇があり、ぐっと目の奥に力をいれると小さな光がわずかに見え、さらに目をこらしていくと、その光の輪がどんどん大きくなり…。
そこで私は慌てて目を開けた。一瞬意識が遠のいた気がした。このタイミングで目を瞑ったりしていると、自分はこの深い闇の中から逃れられない気がし、私は眼底に力をいれて、深呼吸をした。
闇は孤独ではない。そして私は孤独をちっとも怖いと思わない。けれども厳密に言えば私は今孤独と闘っているのではなく、生まれ落ちる生命を注意深く慎重に導いているだけだ。その作業はひとりだけれども、私に会いに来てくれる小さな命も勘定にいれると、ひとりぼっちではない。ふたり。
今までは、夫とふたり、それぞれの孤独を相手に悟られないように生きてきたけれど、これからは、赤ちゃんとふたり。たぶん、私と赤ん坊は、同じ方向を見つめながら孤独を知るだろう、今までとは違って。
私はキッチンのテーブルに寄りかかりながら、そうだ赤ちゃんを生む前になんか食べとけって誰かが言ってたなと思い、テーブルの上のバナナを手にした。バナナの皮をむきながら、もう夫はずっと帰ってこなくていいときっぱり思った。孤独が深まるような関係はもういらない。私はこれから大きな仕事をひとりでやるのだ。いや、赤ちゃんとふたりで。やってみせる。それはきちんと。赤ちゃんを生む。それはゆるぎなく。
私は静かに陣痛の時間間隔を再び計り、入院用のボストンバックをゆっくりと持ち上げる。玄関を出たらタクシーを呼ぶつもりで、携帯電話と家の鍵を右手に持つ。家の扉の鍵をかけ、私は小さな声でよしっとつぶやいた。
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