logo #49のブルース Happy Man


その男は、額に汗を浮かべながら伝票を手にして私の部署を訪ねて来た。
「総務部さんって、こちらですか」
カウンター越しに応対に出た私に、彼は流れてくる汗を右腕で拭いながら、くしゃくしゃになった伝票を差し出してきた。
「これ、今日やった分の報告書件請求書になりますんで、ここにサインをもらえますか」
「あ、はい。でもあのう…」
「はい?」
「すいません、どちら様でしょうか」
私は彼についてまったく心当たりがなかった。初めて見かける顔である。どこかの業者のひとであることには間違いないが、業者にしては作業服を着用しておらず、汗が浮き出た白いシャツとチノパンのような格好をしていた。私はここのオフィスの総務部に中途採用されてからまだ半年足らずだった。
この会社の総務部は、私が入社する以前からつきあいのある業者が訪れることが多く、彼らは私を見つけると、お、新人さんだね、とか、新しく入って来た人?などとこちらの事情を察知して話しかけてきた。そのせいか、この男のように今まで取引がなかったような様子で、ぷらっと受付にやってくる訪問者にはどうしても身構えてしまうのだった。
「あ、失礼しました。植木屋です。ビルの外の剪定やってる」
男はそう言うと、きちんと頭を下げた。てきぱきとしていて、若々しい。自分と同じ年くらいの20代前半かな、と私は思った。
「そうでしたか。それはこちらも失礼しました。今日からいらっしゃたんですか?」
上司から植木の話は何も聞かされていなかった。自分の上司は40代の男性で、彼は時々部下に伝え忘れる要件があった。大学を卒業して一度別の企業に勤めた私は、人間関係で胃腸を崩して退職し、半年ほど実家で休養してから再就職にさらに半年かかり、やっと決まったこの仕事であった。どんな仕事でも、どんな上司でも、今度は逃げ出したくないという気持ちから、私は上司のミスに気づいても、一度も本人に伝えたことがない。何かが大きく自分にふりかぶってきたら、そのときに言えばいい、私は自分の中でそう決めていた。そういう意味でも、担当の者から聞かされていませんで失礼しましたとは意地でも言いたくなかった。
「今日から一週間頼まれてまして、剪定やりますんでどうぞよろしくお願いします」
男はたぶん朝、顔を出したときに私の上司にも同じことを言ったであろう挨拶を、嫌みのひとつも言わず繰り返した。
「こちらこそ、お世話になります」
私も頭を下げた。
「うちは個人でやってるもんで、毎日仕事が終わったら伝票にサインいただくことになってて」
「そうでしたか。大変失礼いたしました」
「いえいえ、そんな。全然問題ないっすよ」
植木屋の男は、そう言って笑顔を見せた。まだ少し額に汗が残っている。
「では、こちらですね」
男の額を凝視している自分に気がつき、私は慌てた。顔が赤くなっていないことを祈りつつ、ぶっきらぼうとも思えるくらい急いで伝票を受け取り社印を押し、その横に自分の名前をサインした。
「ありがとうございます」
彼は、笑顔のままそう言い、
「じゃ、明日もまたよろしくお願いします」
今度は軽く頭を下げて、男は首をぐるぐると回しながら出て行った。彼がガラスの扉を出て行った足音を確かめてから、私はようやく顔を上げた。男の首筋と、シャツから見えている両腕は、外で働く男特有の日焼けがあった。毎日スーツ姿を見慣れているせいか、男のような職業を私は意識したことがなかったが、日に焼けた男の両腕はがっしりと筋肉がつき薄く血管が浮き出ていて、どんなものでも運べ、どんなものでも軽々と持ち上げられるように見えた。私は去っていく男の後ろ姿を、じっと見ていた。男がビルの出入り口に立っている警備員に挨拶をして出ていくのが見えた。
男の後ろ姿が確実に小さくなって行くのを目で追ったあと、
「ふうー」
と私は大きなため息をついた。瞬間的に台風がやって来て消えていったような、かなり大きな仕事をやり終えて一段落したような、大事な何かがせっかく向こう側から来たのに、何もしないで反対側に移動していくのをただ見送ったような、そんな気分であった。
私はラップトップのPCの前にすわり、ふと伝票に目を落とした。伝票は複写になっており、1枚目が当社控えで、2枚目が業者控えになっていた。あっ、2枚目…! 私は業者控えの分を渡し忘れたことに気づいた。自分のサインをしたときに、男も私の手元を見ていたはずだから、私だけでなく男も受け取ることを忘れている。明日も来ると言っていたから明日男に渡せば問題はないだろう、金額に関わる伝票でもないし、いったんはそう思った。けれどなんとなくその男に、こういうことをおろそかにする慌て者のイメージを持って欲しくないような気が働いた。それに私も男もどちらも、社会人の体裁を整えていながら、まだ一人前ではないと私の上司や男の上司に思われたくないと私は思った。まだ若いからな、ミスが多いよ、そんなことは言わせたくない、誰にも。私は急いで2枚目の伝票を鷲づかみにすると、慌てて彼の後を追った。
男は距離にして100メートルくらい先をのんびりと歩いていた。
「すいませーん」
大声を出しながら走って行くと、男は携帯電話を耳に当てながらこちらを振り返った。
「ごめんなさーい」
ようやく数十メートルまで追いつき、私は息を切らしながら声をかけた。男は、携帯電話の相手にじゃあ、あとで、と声をかけて電話を切り、
「どうしたんですか」
と私に向き直った。
「はあはあ」
息を整えようとすればするほど、言葉が口から出て来ない。私は左手で心臓を押さえるようにしながら、右手で伝票を差し出した。
「ああ、明日でもよかったのに」
男は思った通りのことを言い、
「わざわざすいません」
と首をひょっこり下げた。
「あの、こちらこそ不慣れなもので。気がつかないで、どうもすいませんでした」
私は荒い息が治まったものの、言葉が途切れ途切れになった。
「走ってきてくれたんだ」
オフィスではない、道端での会話である気安さからなのか、男はかしこまった言葉遣いを止めたようで気軽に声をかけてきた。
「あ、はい」
「運動不足?」
「わりと」
男と私は目を合わせてうなづきあった。
「最近入社したの?」
「はい、中途で。大学卒業してから3年目」
「おれは大学卒業してから今2年目」
「え、大学を卒業して、植木屋さんを?」
「まずい?」
男の顔には、口の右脇に小さなえくぼがあった。イ行を話すときに、そのえくぼがちらちらとする。
「いや、そうじゃないけど」
「親父と一緒にやってるんだ、自営で」
「なんだか」
「何?」
「バカボンのパパと同じだなと思ったから」
「え?」
「バカ田大学卒業で、植木屋さんでしょ? バカボンのパパって」
はははは、男は声を出して笑った。
「大学卒業して植木屋なんて、まじあり得ない、って言うのかと思ったらバカボンのパパって、いきなり。ははは」
そんなこと初めて言われたよー、でもバカボンのパパもいいかもーこれから使えるよな元祖です、とか言ってさあ、男がいつまでも笑っているので、私もつられて笑った。
「おれ、これから仲間たちと飲みに行くんだけど、どう?」
男はまだ笑い顔のままでそう聞いてきた。
「今から?」
「いや、先約あるならいいけど」
その言い方が、なんとなく私を試すような気もして、私は軽々しく応じていいのか、それともきっぱり拒絶したほうがいいのか、迷った。いくら少しだけ軽口をたたくようになったと言っても、たった今のことである。元々仕事がらみで知り合ったのだし、これからも顔をあわせるわけだから一度誘われたからといってついていくのは賢明ではない気もするし、いやそんなふうに堅苦しく考えずに、初対面の場でもささっと顔を出して先に帰ることのできる大人の女としての度量も見せたいような気もする。私は咄嗟に判断がつかなかった。
「無理ならいいよ、ごめんごめん」
男はすぐに返答をしない私を上目遣いで見ている。
「初対面だし、無理っしょ?」
「あ、違う。まだちょっと仕事残ってて」
私は瞬時にそんな回答をした。心の中でどうしようかと思っているのに、何故仕事があるなんてそんなことを言うのだろう。仕事のことなんかこれっぽっちも考えていないのに。自分の口が自分の意志とはまったく無関係に動いている。
「今すぐには出られないから」
私の口はまだ勝手にそんなことを言っている。
「いや、今すぐじゃなきゃだめ」
私の口のあまりのでたらめぶりを、男はとっくに見破っているようでだめ、だめ、とわざとらしく繰り返した。
「ほらほら」
男は左手で、しっしっと追い払うようなしぐさをした。
「早く、早く」
男は歩道の脇の縁石部分に腰を下ろした。携帯電話を取り出してどこかに電話をかけ、一人追加、などと言いながら、私に早く行くよう目で合図した。
「早く戻って支度してきなよ。おれ、ここで待ってるから」
男に追い立てられるように、私はしぶしぶといった様子で走り始める。口だけでなく、身体全体が演技をしているような気がした。全然嫌じゃないのに、と私は思った。全速力で走って戻って来れるのに、どうして嫌々走っている素振りなんかしてしまうのだろう。すべてが自分の意志とは関係なく連動している。ただ唯一、私の心臓だけがどくどくと普段よりも大きな音をたてて、私の本心を後押ししているようだった。
私はちらりと後ろを振り返る。男は私を見て、脇に両腕をあてて急いで走る格好をして急かした。
私は軽くうなづいて、走るペースをあげ今持てる力を最大限に振り絞って、全力疾走をする。ああ、私は笑い出したくなってきた。バカボンのパパなんて言っちゃってさ、私は自分の言動がおかしかった。そうしてなんだかんだ理屈をつけながら、この瞬間細身のタイトスカートで力いっぱい走っている自分の姿もおかしかった。ローヒールがアスファルトの上でかたかたと鳴る。オフィスはもう目の前だ。デスクに戻ったら急いで机の上の伝票を手早く整頓し、そうしてこの男の元まで戻ろう。本日の報告書は、うっかり書き忘れたことにしよう、私は走りながら頭を巡らせる。入社して初めて、故意的ミスを今日敢行するのだ私は。
はあはあ、だんだんと息が上がってきた。しかしその荒い息も今は少しだけ甘い吐息に変わっている。



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