logo #48のブルース SUNDAY MORNING BLUE


「鈴木のところ、やっぱやばいらしいよ」
リビングの一番日あたりの良い窓際に新聞紙を広げ、足の爪を切っていた夫がのんびりとそう言った。
「そう」
対面式カウンターキッチンで、シンクをごしごしと磨きながら私はそう答えた。
「あいつはやり直したいって思ってるんだけど、奥さんがどうしても譲らないらしい」
夫は私のほうに顔を向けて、少しだけ眉間に皺を寄せた。皺を寄せたことで、お互いの言い分はもっともだというふうにうなづいている。
私はシンクを磨く手を休め、冷蔵庫を開けながら、うどんの生麺と長ネギがあることを確認し、お昼ごはんはうどんでいいかなと思った。
「お昼、うどんにするけど、付け麺と煮込み、どっちがいい?」
つけっぱなしになっているテレビの画面で笑いが起こった。
「え?」
夫の言葉がかき消されたので聞き返すと、
「どっちでもいい!」
夫は不機嫌そうに大きな声を出した。夫の職場の後輩の鈴木さんのところの夫婦仲の話に、私があまり関心を持っていないことが不満なのだろう。足の爪を切り終わったところで、新聞紙をくしゃくしゃと音をたてて丸め、
「タバコ買ってくる」
と言いながらリビングを出て行った。
 日曜日のお昼前に子供たちが家にいることはあまりない。上の娘は中学生になってから、友人たちと洋服を見て回るウィンドウ・ショッピングに忙しく、週末は午前10時くらいになると、なんだかんだと言いながらそそくさと出かけて行くし、下の息子は大抵サッカーの試合がはいっていて、朝8時くらいにはお弁当を持って家を出る。息子は6年生になった途端、もう試合の応援には来なくていいと言い出し、しかしきっぱりと親を拒絶するのは悪いと思っているのか、
「応援に来て欲しい公式戦のときは絶対言うからさ」
などと、特に父親である私の夫にやんわりとフォローをしていた。夫が試合の応援に行くと、その晩は晩酌をしながらねちねちと、あそこでシュートが決まらないのはまだ精度が足りないからだとか、パスもいいけどもっとドリブルも必要だ、などと言いながら、周囲の表情も読まないでいつまでも酒の肴にする。娘の行動に対して、面と向かって何かを言うことができないせいか、息子に対しては尊大に振舞っている。息子はその不公平感を感じ取って、いつの間にか父親と少し距離を置くようになった。

テレビからまた笑い声が響いた。一体いつからつけっぱなしになっているのだろう。リビングには誰もいないのに。私はテレビのスイッチを消すつもりでリモコンを探す。なかなか見つからない。ガラスのテーブルの下、新聞の折込チラシの中、灰皿の横、あちこち探しながら、カウチの脇にはさまったままのリモコンをやっと見つけ、小さくため息をつきながらオフにする。
「はあー」
誰もいない気軽さで、どさっと崩れるようにして私はカウチに腰を下ろした。
私はこのところ、めっきり口数が少なくなったと思う。そしてそのことに気づいているのは、今のところ自分だけだとも思う。娘はおしゃれと学校のことしか頭にないし、息子はサッカーを中心に生活している。夫は平日は仕事をして、週末はなんとなくぶらぶらして過ごしている。私が話をしても何も話さなくても、この家の中の空気に変化はない。そのことに気づいてから、私は自分から積極的に会話をするのを止め、誰かの相槌に徹するようになった。最初のうちは、家族の誰かが話している途中でも、それは違うんじゃない? おかあさんはこう思う、などとつい口を挟みそうになったものだけれども、慣れてくればただ、そうなの、ふうん、とだけ答える今の状態も、別に悪くはないなと思うようになった。この状態を虚しいとか、やりきれないとかそんなふうに思い始めたら、私は私ではなくなることも十分にわかっているから、私は何事も深く考えたりしないように、誰かと自分を比べたりしないように、昔はよかったなどと過去を思い出さないように、注意深く慎重に、生きている。自分の中でそういったルールを守れば、私はこの家の中で立派に「家族の一員」としての機能を果たしている。
ただ、それでも少し煮詰まりそうになることもあって、そういうときには慌ててスーパーへ行き、その日の献立を考えるように行動していた。じゃがいもとにんじんが安かったら、今夜はカレーにしよう、いや今日は娘の塾がない日だから晩御飯は早めに作らないといけない、だったら簡単なチンジャオロースのほうがいいか、明日は夫が飲み会だと言うから、子供たちが好きな手巻き寿司にしよう、そして次の週末は皆が早めに帰宅するから、すき焼きがいいかもしれない。息子の好きなピリっと辛いすき焼きのたれをまた買っておかないと。息子にだけ辛口を買うと、今度は娘が、おかあさんは私の好きなものは買ってきてくれないのね、とふて腐れるから、おいしい焼きたてのクロワッサンも角のパン屋で買うことにしよう。そして子供たちばかりに何かを買うと、そうやっておまえは子供の顔色ばかり窺って、と夫に言われるに違いないから、彼の好物のいか明太子も買い忘れないようにしなきゃ。
私はいつも家族のひとりひとりの味の好みやスケジュールを考えて、食材を揃える。食事を作るときは、家族の誰かのことを思いながら包丁を手にとる。けれど私が作った食膳に、私の気持ちが込められていることに気づいている者はいない。料理を作る、それは食べる誰かのことをまったく考えずにできるものではない。作っている最中、私は夫、娘、息子、それぞれの表情を思い浮かべる。味噌汁のダシをとり、卵を割り、菜箸をつかみ、キャベツを切る。大根を茹で、茄子を洗い、トマトのヘタを取る。さんまをぶつ切りにし、ひき肉を炒め、冷凍してあるほうれんそうを解凍する。ひとつひとつ料理を進めながら、昨晩夫が晩酌をしながら言ったつまらない冗談、今朝学校へ行く前に娘と息子がささいなことで口論をしていたことなどが頭をよぎる。
それでも、私は思い出すだけで彼らに言葉を使わない。何も話さない。大事なことは何も。注意深く慎重に生きて「家族」を成立させるために、私は余計な話をしない。

しんとなったリビングの開け放たれた窓から、金属バットにボールが当たった音が聞こえ、にぎやかな歓声があがった。近くの野球場で、どこかの高校生が練習試合をしているのだろう。スポーツの試合にはもってこいのお天気だ。この時間なら息子は2試合目が終わったあたりだろう、娘は女友達とファーストフードのお店にでもはいって、クラスの男子の噂話などをしている頃だろう、そして夫はそろそろ戻ってくるだろう。彼が戻ってくる前に、うどんを茹で始めないといけない。どちらでもいいと言っていたから、味噌煮込みうどんにでもしよう。私はそう思ってカウチから何度も立ち上がろうとするのだが、どうにも身体が鉛のように重く、さっきからずっと動けないままでいる。



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