logo #47のブルース 彼女


その人と僕は、知り合って10年くらいになる。仕事を通じて話をし始めたのが最初で、お互い同じ年で職場も近く、そして若いときに一度結婚して失敗したというあまり歓迎されない過去まで共通していたため意気投合し、それから定期的にランチを一緒にとったりする間柄になった。僕もその人も、濃厚な男女の関係に食傷気味だったから、気軽にランチをとりながら、とりとめのない話のできる異性の友人ができたことが嬉しくて、お互いに会う約束をしていたその日になると、最近読んだ本の話、昨日見たニュースの話、映画の試写会に行った話、新しくできた流行のパスタの店の話、と話題に事欠けることがなく、この10年はあっという間に過ぎていった。はっきりと約束をしたわけではないけれど、会うのは大抵ウィークディのランチタイムがほとんどだった。一緒に映画を見に行く、というと恋人同士みたいで少し違うような感じがしたし、仕事帰りにバーで一杯やるのも、なんとなく気がひけた。春なら、暖かい日差しを浴びながら真っ白なテーブルクロスのあるお店でさっぱりしたパスタを食べ、夏なら、室内がキンキンに冷えたサンドウィッチの店でライ麦パンのターキーサンドを食べ、秋なら、うすら寒くなってきた気持ちをほぐすためにも、熱々のチーズ・フォンデュの店に行き、冬なら、和食屋で熱々の鍋焼きうどん御膳か、さんま定食を赤みその味噌汁と一緒に味わった。仕事中のランチタイムだから、お互いの仕事があまり忙しくないときでも1時間半とれればよいほうで、忙しい時期になると、さっとカレーのおいしい店に飛び込んで、ナンをかきこみゆっくり話す時間もなかった。それでも、僕たちの間柄はそれでいいと思っていた。濃厚な関係にはならず、ときどきランチを一緒に食べる仲、そういう僕たちを彼女は「昼友」と呼んだ。昼飯を食べる友人だから、昼友。昼友は、気がつくとお互い40才になっていた。

その日も、僕は昼友の彼女を僕のオフィスにほど近い交差点で待っていた。待ち合わせは大体交差点が多い。そして約束の時間より15分遅れたら、お互い何か緊急な仕事が入ってしまったということでキャンセルとした。ドタキャンが続いても、それに対してお互いが不満や文句を言わない、ということも暗黙の了解になっていた。だから待ち合わせをどこか特定の店に指定し、先に着いた者がいらいらして待つよりも、むしろ人通りの多い交差点のところで、行きかう人々を眺めていればあっという間に15分はたつという理由から、いつの間にか交差点が待ち合わせ場所になったのだった。
「待った?」
昼友は走らなくてもいいのに、だいたい通りの向こうから走ってくる。
「いや待ってないよ、行こうか」
僕はそう言い、にっこりと笑う。時間短縮のため、毎回次に行く店は決めてあるので、僕たちはすたすたと目的の店まで歩く。今日は久々にラザニアのおいしいイタリアンの店である。たっぷりと染み込んだモッツァレラ・チーズと、ひき肉がうまく溶け込んだラザニアを頬張ると、僕らはしばし幸福な気持ちに満たされた。
「ボリュームがあるけれど、おいしい」
昼友が言う。
「たまに食べるにはもってこいの濃厚さだね」
そう僕が返す。
「そういえば、ジェイムズ・エルロイの新作って読んだ?」
「去年発刊された文庫の?」
「そう」
「いや、読んでいないけど」
「私、先週ようやく買ったの。でもそれがものすごいボリュームなの。とてもすぐには読みきれない。今、ボリュームの話をしていたら、なんだか思い出しちゃった。ラザニアとエルロイなんてあんまりマッチしていないけれど」
ふふふ、と昼友はひとりで楽しそうに笑い、付け合せのサラダの紫キャベツをつまんだ。
「じゃあ、そういうつながりのキーワードで話をすると、思い出すと言えば、僕は先日、ある同窓生を探すサイトに登録したんだ。どうしても会いたいひとを思い出しちゃってさ」
僕はガーリック・トーストに手を伸ばした。
「え? 同窓会サイト?」
「まあ端的に言えば」
さくさくと音をたてフランス・パンを口にいれると、なんとも絶妙な分量のガーリックが広がってとてもおいしいと僕は思った。
「あなたが? 誰かを探しているの?」
昼友は少しばかり声のトーンを落として、フォークを置いた。 「高校時代の恋人…というと格好つけすぎだけど、高校時代に何でも話せたガールフレンドにどうしても連絡とりたくなっちゃってさ」
僕はふた口めのガーリック・トーストをまた口に運んだ。
「いや別にストーカーになろうとしているわけじゃないんだよ。ただ彼女の連絡先がわかればいいなと思ったし、他の同級生ともまた連絡を取り合うのもいいかなと」
ふと気がつくと、昼友は完全に、食べる姿勢から僕を凝視する姿勢に変わっていた。
「なんだか変なことを言ってしまったかな?」
齧りかけのガーリック・トーストを皿に戻して、ナフキンで手を拭いた。
「どうしたの?」
僕は重ねて彼女に尋ねた。
「そういうのって、何か違うような気がして好きじゃないの」
「何か違うって、何が?」
「あのテのサイトって結局登録している者同士で、昔話をしたり、懐かしくて会ったりするわけでしょ? そこに登録していないひとの噂話をしたり、登録していないひとたちをもっと登録させようとするわけでしょ?」
「うん、まあ、そうだね」
「それで皆が楽しく同時代を生きてきた感触を掴むのが、嬉しいわけでしょ?」
「…」
「嫌なの。何か違う気がする」
「…」
「懐かしいと思うひともいれば、懐かしくないひとだっていて、懐かしむことをやめたひとさえいることを、まったく無視していると思う」
「そんなにだいそれたことじゃないと僕は思うけど」
「ううん。あなたは私の言わんとすることをわからないと思う。だってサイトに登録することに何の疑問も抱いていないんでしょ?」
「君は、つまり懐古主義みたいで嫌だと言いたいんだろ」
「違う。懐かしいと思う気持ちを否定なんかしない。誰だって懐かしいひとや現象はある。懐かしむ行為って、個人的なことじゃないかな?それを集団でいっせいに懐かしむ態度っていうのが私のセンスじゃないの」
「センスの問題か」
「たかが、とあなたは思っているんでしょ? でもこれは重要なことなのよ」
僕らは、テーブルを挟んで、背筋を伸ばし、それぞれの意見を譲らなかった。僕はそっと席をたち、ドリンクステーションで、カプチーノを2つ手にとって、席に戻った。僕らは無言で、そのカプチーノをゆっくりと飲み干し、窓から見える数本のソメイヨシノが春の風にあおられて、桜吹雪となって地面に落ちていくのを見ていた。
先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「長いこと、昼友をやってきた」
うん、と僕はうなづく。
「10年間、よく続いたね」
うんうん、とまた僕はうなづく。僕はカプチーノのカップの縁を眺めるように、目線を落とした。
「友達が、いつも自分と同じ意見じゃないのは当然わかっている。私とあなたは、いろいろなものを食べながら、いろいろな話をしてきたけれど、今までお互いの深遠な部分を避けて会ってきたでしょう? 私たちは最初それが心地よかった。最後の苦味は決して口にはいれないで、スープの上澄みだけをすくって飲むことが。だってそんな関係って、なかなかないもの。あったとしても、すぐ終わってしまうもの。それが10年、続いてよかったと私は思っている。本当においしかったし私たちはおいしいものを食べる時間が必要だった。でも、おいしいものって食べれば食べるほど、もっともっとと思えてくる。もっとおいしいものが食べたくなる。でももっとおいしいものってなんだろう?それは、口あたりがいいソフトな味つけだけじゃなくて、ハードな苦味やとろみの部分も指しているんだと思う。お肉の同じ部位だけ永遠に食べ続けることはできないでしょ? 同じものだけ食べ尽くしても、なんだかお腹いっぱいにはならないものなのよね」
「僕たちは、間違った選択をしたわけじゃない」
ようやく僕が口を挟むと、彼女は笑顔になった。
「間違ってなんかいない。そういう時間が必要だったって言ったじゃない」
「もう満腹だから、これ以上はごちそうはいらないということ?」
彼女は、
「そんな言い方はしたくない。10年の歳月を考えると、そんな言い方は」
そう言って口をつぐんだ。彼女は少しの間言葉を探して、
「いろいろな話をしてきて楽しかったし、こんなふうに終わるのもあっけないけど、でもだんだん疎遠になっていくよりは、こういう終わりもあっていいような気がする」
と言った。
「僕は、どちらかが退職するまで続けていくつもりだったよ」
僕の言葉に彼女は何の返事もせず、コーチのバッグから財布を抜き出し、自分のランチ代金を置いた。
「さようならって言うと、やっぱり悲しくなるから、またね」
彼女はそう言って、すくっと席をたった。
「ちょっと待って」
彼女が行ってしまう前に僕は確認したかった。
「君は最初から今日を最後にするつもりだったの?わざと僕の同窓会の話に絡んできて、意見の相違を装っているけれど、本当は最初からそのつもりだったんだろ。そのほうが離れることに理由がつくから」
僕の言葉を聞いているのかいないのか、彼女はすたすたと出入口に向かい、最後に僕を振り返りながら、笑うような泣いているような表情でお元気で、と唇を動かした。お元気で、と。



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