logo #46のブルース さよならベイブ


派遣会社からその仕事の話があったとき、私は当初断るつもりでいた。
なにより、電話を受けてお客様の苦情処理に奔走するような仕事、というイメージがあったし、自分には「コールセンター」などというストレスがフルボリュームで奏でるような職種をこなす自信も元気もなかった。それでも私が引き受けたのは、あの時の私は生活するためにどんな仕事でもやらなければいけなかったからだった。私は35歳になっていて、娘がひとりいた。
離婚の際、私が娘をひきとった。大切な娘。大事な大事な娘。娘との生活のために、私はその仕事をやってみることに決めた。

物事というのは、予想を大きくはずすこともたまにはあるけれど、大概はある程度の予想を裏切らないと思う。その法則から言うと、その仕事は私の想定内のものであった。電話が鳴る。受話器をとる。その瞬間、私は顔の知らない相手とふたりきりになり、頭ごなしに怒鳴られたり、文句を言われたりする。相手にしてみれば、吐き出すことで不満が解決するのかもしれないが、受け取る側にたつと、勤務時間中は同じような内容を何回も何回も言われ続け、謝り続け、なにか大きなため息をつかないとやっていられなような、辛さが残った。私は、電話を10件受け取るたびに、席をはずした。トイレに立ち、洗面台の水道の蛇口を大きくひねった。じゃあじゃあと勢いよく水が流れるのを、ぼんやりと見ていた。しばらく呆けたように水の音を聞くともなしに聞き、そして水を止めた。鏡の前では、うつろな目をした35歳のシングル・マザーが立っていた。何も考えないようにしよう、と私は思った。何かを考え出したら、私は直ちにこの仕事を辞めることがわかっていたからだった。考えなければ、今月も家賃を払うことができるのだ、私はそう思いトイレを出た。

「よく席を立ちますよね」
そんなふうに彼から声をかけられたのは、就業してから2週間くらいたった頃だった。
さりげなさを装って、本当は見張られているのかもしれない、ひっそりとトイレに行っているつもりだったのに、と私は瞬時にそんなことを思い、
「ああ、つい手を洗いたくなってしまうんです」
と、幾分話が抽象的になるような言い方をして、相手の出方を窺った。
彼は私の思惑に気づいたようで、
「それは奇遇ですね。僕もそうですよ」
と共犯者のような笑顔を見せた。頭の回転の早い、賢そうな青年だった。
「本部の方ですか?」
そこのコールセンターは、本部には正社員が座っていて、一部から四部までが派遣社員の部隊となっていた。本部ではないだろうと思ったけれど、最初に聞いておかないとうっかり愚痴も言えないから、念のため私は尋ねた。
「二部ですよ。本部なんて、ねえ?」
「ふふふ」
私はようやく彼に笑うことができた。そして、少し嬉しい気持ちになった。

その日を境に、私と彼は急接近した。ランチの時間になると、私は自宅から持ってきた残り物などを詰めたお弁当を広げ、彼はコンビニで買ってきたお弁当を食べた。彼は私よりも10歳年下で、大学を卒業したあと、別の企業に就職したけれど、なにかしっくりこなくて1年半で辞め、それ以降は派遣社員で食いつないでいる、と言った。私は彼に、娘との生活のこまごまとした話をし、別れた夫とのいびつな関係に苦しんでいるけれど、大方うまくいっているほうだ、などとも話したことを覚えている。独身で10歳も年が下の男性が、そんな話をおもしろがるわけがないのはわかっていたけれど、彼は、
「そういうことはどんどん話したほうがいいですよ。鬱積した気分でいるのはよくない」
と言ってくれ、今思えば私はそんな彼の言葉を真に受けていたのだと思う。いや、真に受ける、という言い方は間違っているのかもしれない。信じたかった、のだと思う。あのときの私は、娘の存在を除けば、一切の人間を信じられなくなっていた。夫であった男への不信、職場にかかってくる他人という名の人間への不信、そして何も考えないように生きることを選択している自分自身に対しての不信…。そこに共犯者のような笑顔を見せたくれた彼に対して、私は何かを信じてみたくなったのだと思う。彼との毎日のランチの1時間は、私が彼を信じたくなる宝石のような時間だった。最初はほっとする1時間だった。
「なんだか毎日この時間だけが、癒される〜」
などと言っては、彼を笑わせていた。それがだんだん、その1時間だけのために朝出勤するようになってきた。その時間だけが私の仕事の目的になり、そのうちそれが生活全般の中の1時間になっていった。私はその1時間のためだけに生きているような気がした。娘との生活の中でも、その1時間のことが頭から離れなくなっていた。しかし、彼にそんなことを悟られてはいけなかった。
私は彼よりも年が上で、節約のために家からお弁当を持ってこなくてはいけないような生活感溢れる、どこにでもいるありふれた女だった。娘もいる、離婚の傷をひきずって生きている女だった。そんな女が、毎日のランチ時間を生きる目的にしていると、25歳の青年が知ってしまったらどうだろう。分別のある大人として、それだけは耐えられなかった。私は注意深く、彼に接した。
つまり、その1時間というのは、私の中の最大の楽しみでもあり、苦しみでもあった。

そんな状態が3ヶ月も続いた頃だろうか。その日私はいつもより早めに昼休みの時間がとれたので、彼と一緒に食べている小さい会議室に早めに入った。普段は、彼のほうが先に会議室にはいっていて、コーヒーなどを用意してくれていたから、今日は私が二人分のコーヒーを入れようと給湯室に行った。給湯室の手前で、彼が別の同僚の女性と一緒にいるのが見えた。どうしてだか、私は咄嗟に身を隠した。給湯室の横に、小さなゴミ箱置き場があって、私はそこに隠れるように立った。
彼と女性の話し声が聞こえる。女性は、私の後ろの列でコールを受けている、彼と同じ年くらいの女性だった。
「えーそうなんだ?まじで〜?」
はしゃいだような女性の声が聞こえた。その声に覆いかぶさるように、
「まじ、まじ。ハンパねえよ、がっつり来ちゃってさ」
という声がした。彼だった。今まで私と話しているときには使ったことのないような、若者言葉でその女性と話しをしていた。私には爽やかでつつがない受け答えをしている彼が、その彼女との会話では何か粘っこい脂ぎったような様子で、骨太な大きい声を出していた。私は叫び出しそうになっていた。その粘っこさは、別れた夫が私にアプローチをしてきた頃の、同種の熱気を帯びていることに気づいたからだった。そして同時に、私はどれほど彼に対して自分が淡い期待を抱いていたかについても、はっきりと自覚した。なんだかんだと理由をつけていたけれど、結局私は彼からの何かを期待していただけだと思うと、恥ずかしくて震えた。一人前の大人のふりをしていた自分を、みっともなく思った。母親としての立場を忘れた自分を悲しく思った。そして、私の目的を知っていたのか知らなかったのか、いずれにしても私に話を合わせていた彼を、恨めしく思った。
それでも私は、この激しい感情を彼に悟られてはいけないという一線だけは、なんとか保とうとした。何も言わず、何も聞かず、何も気づかなかったふりをして、そっと私は彼と距離を置こうと思った。咄嗟に身を隠したことが、私の中でわずかに残っている冷静さを取り戻してくれていた。その咄嗟の行動も今となっては、頭の中で何かカチっとスイッチがはいったような動きだった気がする。きっとそういう動きを私にさせる、そういう縁だったのだと思う。
私は、すべてが一方通行のままで終わることを選んだ。彼が、あの人は一体なんだったのだろうと思うくらいに、さりげなく、そしてあっけなく距離を置けばいいだけのことにしようと思ったのだった。そうすれば何も変わらないでいる。それはなんとかできそうだった。いや、しなければいけないのだと私は自分を戒めた。楽しくて苦しいことなんか、今の私には必要ないのだ。
そうして、このことを恋、なんて呼ばなければいいだけなんだから、私はそう思うことにしたのだった。恋、なんて。



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