logo #44のブルース Back To The Street


毎朝6時半に、私は愛犬トムを連れて散歩をする。大体トムの散歩コースは決まっているので、寝起きの私は頭がぼーっとしていても車にぶつかることもなく、15分くらい行った場所の自販機で無糖の缶コーヒーを買うことも日課になっている。
しかしその日は、雨上がりで薄ら寒く、トムは少しだけ気分がのらないようだったので、私は普段通らない裏の路地にトムをひっぱった。トムはだんだん興奮しはじめ、人間の私たちがするようにきょろきょろとあたりを見回したり、スピードを早めたりした。次の角を曲がればいつもの散歩道に戻る、というところでトムはおもむろに立ち止まり、マーキングをしようとした。私は手持ち無沙汰で、トムが立ち止まった場所の家の前を見るとはなしに見ていた。立派な表札が掲げてあった。その表札の名前を見ていると、私はふいに20年くらい前の記憶が蘇った。
 

短大を卒業したあと、私は町のレコード店でアルバイトを始めた。そのお店には、店長のほかに社員の大野さんという男性と、桜井さんという女性がいるだけだった。桜井さんは、高卒でこのレコード店に就職したから、私より先輩だけれども年齢は私より1つ下だった。
桜井さんはイギリスのロックバンドが好きで、特にザ・キュアーがいいと言っていた。
「でも店長はマーヴィン・ゲイが命のひとだから、全然イギリスものに興味がないの。まったく話しが合わないよ」
桜井さんはよく眉をしかめてそう言った。確かに店長はやたらと昔のソウルの話ばかりするひとだった。その店長の髪型は、スポーツ刈りというのか、短いパンチパーマみたいなヘアースタイルだったので、最初私が面接を受けたときは、ちょっと怖いと思った。こういう髪型のひとでもマーヴィンとか聴くんだなあと思ったことを覚えている。ひとは見かけによらないってこういうことを言うんだなとも思った。

当時の私はあまり思ったことを口に出さないで、にこにこしながら店長や桜井さんの話を聞いていたように思う。店にお客さんが少なく店長の機嫌がよいときは、桜井さんとふたりでランチに行っていいと言われたので、桜井さんとはいろんな話をした。
「これからはCDの時代が来るね」
「そうだね」
「12インチシングルの音って、今までと全然違うよね」
私と桜井さんは、自分たちがランチから戻り、今度は店長がランチに行くと、すかさずデッド・オア・アライブやフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの12インチをかけたり、断固としてアナログ嗜好の店長に対するうっぷんを晴らしていた。
そんな私たちを、店長は快く思っていなかった。いつも私と桜井さんに
「いらっしゃいませ、の声が小さい」
「接客態度に問題がある」
などと文句を言った。私と桜井さんは、店長には好かれてはいなかったけれども、お客さんには評判がよかった。それは店長が自分の好きな音楽には詳しいけれども、今、の音楽に対しての知識が乏しいせいで、お客さんに
「あなたじゃ話にならないから、他の店員を呼んで」
と言われたりすると、プライドが傷つくようだった。店長の私たちへの小言はだんだん多くなり、私たちもいろんなことに神経をすり減らし疲れてきた頃、桜井さんが別の店へ異動になった。それに衝撃を受けていると、今度は私が店長に呼ばれ、あなたは今週限りで終わりにしてください、とクビを宣告された。私と桜井さんはそれぞれの立場で、それぞれ泣いた。桜井さんは19歳で私は20歳だった。私たちはふたりとも、学校を卒業したての初めての社会人生活だった。初めて働いた場所が、こんなに小さい町のレコード店で、初めての上司がパンチパーマくずれの髪型の、ガミガミ怒っている彼だった。
「桜井さんはまだいいじゃん」
私は泣きながら彼女に言った。
「社員だから。クビになったわけじゃないじゃん」
すると彼女はこう言った。
「社員だけど、1年目で異動なんて、いらないって言われたのと一緒だよ」
ああ、私たちはいらない人材だったのか、そう思うとますます涙が出てきた。今まで20年生きてきて、これほどきっぱりと人から拒絶されたことなんかなかった。遅刻も欠勤もしなかったのに、私は店長から私のいけない点をつらつらと並べられたあげく、こうも言われた。
「あなたみたいに生きていると、どこの世界にいっても通用しないよ」
どうしてそんなに私のことを否定したかったのかわからなかったが、私は反論する言葉を持っていなかったし、異議を唱える態度も知らなかった。
悲しそうに目を伏せて涙をこらえるのが精一杯だった。その場から早く立ち去りたかった。でもそれだけは我慢した。我慢している間、学生時代にわからなかったことって、こういうことかも、とちらっと思った。
 

愛犬のトムの鳴き声で、私ははっと我にかえった。20年も前のことなのに表札の名前からよく店長の名前を連想できたよなあとひとり苦笑した。
たぶん自分の今の年齢は、あの店長よりもうんと上だと思う。しかし、今私にまったく使えない部下がいたとしても、私はその部下に対してどこの世界にいっても通用しない、なんてそんな大それたこと言えやしない。
あの店長って、よほど自分に自信があったんじゃないかなあと、私は回想する。
人の人生を否定するなんて、そんなこと滅多な自信じゃ言えないよな。
それとも彼もまた、適切な言葉を持っていなかっただけなのかもしれない。
そんな回想をしている私は、知らず知らずのうちに今度は口元が微笑んでいる。
今まで生きてきた人生の中の、ほんの半年くらいのできごと。それを今でも鮮明に覚えている自分の記憶と思い出が、なんとはなしに愛おしい。



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