logo #43のブルース 地図のない旅


彼岸過ぎまでうだるような暑さが続いたが、一度雨模様になったかと思うと途端に秋風が吹き始め、今も低くたちこめた雲が街ぜんたいをグレーに染めている。
「なんだか少し寒いわね」
母はぶるっと身震いをして、少しだけ開けてあるキッチンのシンクの出窓をパタンと閉めた。
「昨日の夜も、涼しかったよね」
瑞江の言葉に母は、そうそうとうなづきながら
「そうだ。昨日の夜は、かぼちゃと一緒にすいとんを作ったから、あんた食べてけば?」
と、いったん座った腰をまた浮かせ、瑞江の返事を待つまでもなく、鍋に火を通し始めた。
「おとうさんさ、最近量を食べないのよ。だからすぐ余っちゃって」
この頃は久しぶりにしか顔を見せない娘に、ことさら明るくふるまい、母は声を張り上げる。
「え、そのどんぶり一杯?すごい量」
母がたっぷりとよそったすいとんのボリュームに、瑞江が声を出すと
「いいから食べなさい。人間は食べないとだめ。心がくさくさしているときは尚更」
瑞江の心配事をわかっているような、そんな言い方を母はした。

結論から言えば、瑞江はそのすいとんをぺろりと食べた。そのあとで、近所のヨシカワさんが田舎から届いたという岩手県が誇る宮沢賢治が目指した理想郷の、イートハーブのぶどうも食べた。
「ヨシカワさんは、ほら花巻のひとだから」
母の説明に、そうだっけ?と適当に応対する。一粒の大きさが巨峰よりも、ある。皮が薄くて、身がやわらかい。
「おいしいね、これ」
瑞江が種を吐き出しながらつぶやく。
「そうでしょう?やっぱりね、手間ひまかけて作るものは、なんだっておいしいのよ」
母親のその口ぶりに、まるで自分が収穫したみたいだと瑞江は少しおかしくなった。
「何?何か、おかしい?」
母はそう尋ね、
「今日は、リョウ君は保育園なの?」
と、また瑞江の返事を待たずに次の話題へと移した。
「うん」
「だって、あんたは仕事休んだんでしょ?それで子供だけ保育園に送ってったの?」
「そう」
「なんで?」
「だって、私が起きたら、ハルユキさんが連れて行っちゃったんだもん」
「ふうん」
母は納得しかねる様子だったが、それ以上のことは聞かず、イートハーブのぶどうの種をかき集め、また急いで立ち上がって手拭きを取りに行った。ハルユキとは夫のことで、リョウは瑞江の息子である。もうすぐ5歳になるひとり息子の親権のことで、瑞江とハルユキはこの半年間、何度も何度も話し合いをしてきた。瑞江は、離婚をするつもりであることを母にはまだ告げていない。自分自身、混乱の極みにいる状態で、何から説明すればいいのかわからなかったし、うまく話す自信もなかった。
いつも心が鉛のように重たく、今日の天気のようにどんよりとしていてすっきりしなかった。このひと月は、ハルユキとの口論にも疲れ果て、ほとんど会話らしい会話もしていない。今朝、目がさめた瞬間、今日は仕事を休んで母の顔を見に行こうと突然思い立ち、職場に休む旨を連絡した。
電話の内容を聞いていたのか、ハルユキはリョウを急いで起こしながら、今日はパパが送っていくよ、お迎えはママが行くからね、と息子に説明をしているのが聞こえた。また私が迎えに行くことを勝手に決めている、と瑞江は憤りを感じたものの、息子を通してでしかコミュニケーションがとれなくなった自分たちの関係に、強風にあおられて木の枝から枯葉が落ちそうで落ちない、最後に一枚だけ残った葉が揺れている、そんなイメージが重なった。
「ねえ、このイートハーブ、少しリョウ君に持ってったら?」
母は今度は瑞江の返答を待った。
「じゃ、少しもらっていこうかな」
いらないと言っても持たせるに決まっているのに、瑞江が顔をあげると、のぞきこむように
「そうしなさいよ」
と母は瑞江をじっと見て言った。母親と娘の視線が絡み合う。母は何か言おうとして、しかし何も言わず、瑞江に背を向けてぶどうをタッパーに詰め始めた。
「雨にも負けず、風にも負けず、ってね、賢治はがんばったのよね」
唐突に母はそう言った。
「でも賢治は志半ばで逝ってしまったけどさ、あんたはまだ人生やり直せるんだから」
「…」
「人生をやり直すのに、遅いってことはないんだよ。その一歩を始める勇気を持つことが、大事なんだから」
瑞江は、ふいに鼻の奥がつんとし始めてきたので、横を向く。
「やれるだけやったんだったら、もうやることはないでしょ。自分でそう思ったら、一歩踏み出すことだね」
横だけでは治まらなくなりそうなので、今度は上を向く。
「何も言わないで」
瑞江は顔を上にあげたままの体勢で、小さな声で母に言う。
「今はまだ、最後の葉っぱが樹に残っているから」
やっとそれだけ言うと、瑞江は大きく深呼吸をした。震える心をそのまま母親に打ち明けてしまえたら、どんなに楽だろうと思うけれども、おかあさん、もうちょっと待ってて、話したくても今の自分には伝える言葉を持っていない、瑞江は胸の中でそう叫ぶ。
「そうなの」
母は、娘が顔をあげたままのおかしな姿勢で話すことに、なんのツッコミもいれずに静かにそう言い、
「ぶどう、ここに置いておくから、帰るとき忘れないでよ」
キッチンテーブルの上でタッパーの蓋をパチン、と閉めた。



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