#41のブルース レイン・ガール
この春から大学生になったんだから、そろそろ一人暮らしをしてみたい、と母に切り出してみた。
「お金はあるの?」
と聞くので
「引っ越しができるくらいは」
と答えた。
「だったら問題ないんじゃない」
母は淡々とした様子で、私にそう告げた。
「反対されるかと思ってた」
そう言うと
「したって、あなたは出て行くでしょ。だからしないだけ」
案外そっけないもんだなあと思った。私は意外とドラマを待ち望んでいたのかも、とも思った。
母はずいぶん前に父と別れ、私と弟を女手一つで育ててくれた。わざときつい仕事をやってお金を貯め、私の大学資金を調達してくれた。母と私と弟、私の大事な家族。私たちの関係は信頼、という言葉で成り立っていると思う。母の仕事が遅いとき、私は塾通い、弟は部活、と生活の時間がばらばらになったりした時期もあったけれど、私たちはお互い信頼しあって、晩ご飯の支度やゴミ出しの順番を決めて守ったりしてきた。そういうどこの家庭でもあるような、小さなローカル・ルールに乗っ取って私たちは生きてきた。だから私が家を出たい、と言ったらその小さなルールが守られなくなって、大事な何かが壊れてしまうような気がしていたのだった。でもそれは私の取り越し苦労ってやつで、母はそんなことを感じてはいないのかもしれない。とにかく家を出てもいいって、彼女はそう言ってくれたんだから。
私は大学の講義のないときなど、せっせと不動産屋をまわって、電車に乗ると自宅から2つめの駅にあたる街に、気に入ったアパートを見つけた。自分の予算内でなんとか生活のメドもたちそうだったので、私はそこを自分の住処にすることにした。引っ越しも、サークル仲間に手伝ってもらって、お金をかけずに済ませた。100円ショップで小さな生活道具もたくさん買いそろえた。新しい生活が少しづつ始まっていった。実家から荷物を運ぶとき、ちらっと母の顔を見ると、一瞬せつなそうな表情をしたように見えたけれど、この鍋は使いやすいから持っていきなさい、とか、早く合い鍵を渡しなさい、とかいろんなことを言い出したので、私の思い過ごしだと思った。
アパートに二重のカーテンをくくりつけると、なんとかそれなりの部屋に見えた。たいした持ち物はないけれど、これからはここが自分の居場所になるのかと思うと嬉しくなった。母と弟との生活に不便を感じたことはそれほどなかった。けれども、あの場所は私の場所、というより母の居場所のように思えた。長年、母がひとりで家族を築き上げたスペース、そんなふうに思えて仕方がなかった。決して窮屈ではなかった。もし母に窮屈だと思わせてしまったら、少し悪いなと思った。
引っ越して一週間たった頃、夜7時頃誰かがドアをこつんこつん、と叩いた。
私は今夜はカレーにしようと思って、小さな鍋でじゃがいもやにんじんなどをゆで始めていた。
「おかあさんだけど」
と、ドア越しにその声は言った。
「あ、どうしたの?」
母が訪ねてきたのは初めてだったので、私は慌ててガチャガチャとチェーンをはずした。
「怖いから、毎回チェーンつけてんの」
「それがいいわよ」
母はそんなことを言いながら、部屋をぐるりと見渡して、ままごとのように小さなキッチンに目をやり
「カレー?」
と聞いた。
「うん。食べてく?」
そう答えると、
「あんたから食べて行くか聞かれるなんて」
母はうっすら笑った。私も照れくさくなってふふふ、と笑った。しばらく間があり、母は
「ちょっと様子見に来ただけだから」
と言い、
「くれぐれも火の元と戸締まりには気をつけるのよ」
私の顔を正面から見据えてきっぱりと言った。
「大丈夫だよ」
なんとなくまだ照れの残る私は、へらへらと笑った。
「あ、そうだ」
母は、自分のジャケットのポケットに手を入れて、くしゃくしゃになった1万円札を私に渡した。
「何、これ」
私が言うと
「いいから、とっときなさい」
と私の手に押しつけた。
「なんでよ、いいよ、そんな」
「いいから」
「だって」
「あって困るもんじゃないでしょ。助かるもんなんだから」
母はそう言いながら、身体はもう玄関のドアから半分出ていて、じゃあね!また来るわね!と半ば叫ぶようにして行ってしまった。バッターン、と大きな音がしてドアが閉まった。母が慌てて出て行った足音だけが廊下を反響して聞こえてくる。私はその場に立ちすくんで、くしゃくしゃになった1万円札を握りしめていた。泣きそうになったけれど、こらえた。母が走りながら泣いているとそう思ったから。母はそして、今たぶんあの角の交差点あたりまで行ったはずだ。私は不器用な母を思い浮かべる。愛してくれてありがとう、と心の中でゆっくり母に感謝する。
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