#40のブルース リアルな現実 本気の現実
ウィルという男の子とつきあっていたことがある、と言ったら君たちは笑った。
「ウィルなんて名前、あるわけないじゃないっすかあ」
君たちはよくそうやって、幾つもの否定形を組み合わせて話す。格好よくねえ?とか、ありえなくねえ?と幾分語尾が上がり気味のトーンで。一体格好いいのか悪いのか、答えに困窮していると
「普通、迷わないっしょ」
と軽やかに笑う。
「つーか、そこどうでもいいし。まじウィルの話聞きたいし」
君たちはやけにこの話に興味を持った。
「ウィル、って先生が呼んでいただけで、ウィルソンって名前でした」
ウィルソン、そう君たちがリピートするので、私は慌てて
「いや実はそれも先生の勘違いで、本当は名字だったんです」
と付け加えると、ひーっ、恋人を呼び捨てかよーっと君たちはさも愉快な様子だった。
「でも、なんか微妙。だって、本当はそれ、恥ずかしかったんじゃないかなあ、先生も」
君らはそんなふうに笑いながら、軽い調子で、意外と真実をついてくる。唐突に話しだした私の話をおちょくりながらも耳を傾けている。君たちのそういう態度が、私の年齢では生み出せない率直さ、のような気がして、私はひとりで嬉しくなる。
ウィルはあのときいくつだったのだろう。海兵隊に入隊したばかりだったから、20才前後だったかもしれない。私は22才だった。ウィルは朴訥な青年で、あまり流行っていないTシャツの上にベストを着るというスタイルが多かった。私たちはたいてい週末に会って、クラブに行って踊ったり映画を見に行ったりした。彼は私が住んでいた街からうんと離れたところの独身寮にいたから、ウィークディは私が彼に電話をして週末の約束をしていたのだ。携帯電話などなかった時代、独身寮は呼び出し電話で、誰かが呼びに行ってずいぶん待たされてから本人が電話口に出ることもあれば、何分たってもただ待たされるだけのこともあり、約束をするだけのことなのに、非常に時間を使わなければならず、そんなやりとりに私は非常にいらいらした。私はいつも急いでいた。時間はたっぷりあるのに、ミステイクや長距離のやりとりにしびれを切らして。ある時私は彼とつきあうのをやめた。もううんざりだとそのとき思った。
「えーっ、まじそんな理由で別れたわけ?」
君たちは一斉に非難の声をあげる。そう、そんな理由で。彼も私を好きでいてくれたし、私も彼を好きだった。別れるときはいっぱしにせつない気持ちになった。しかし、あの当時、私はそんな理由で人を好きになったり嫌いになったりした。人の心の痛みを知るのはもっとずっと後のことだ。
「ふうん」
君たちは戸惑っている。私を立派な社会人で、真面目で間違いを起こさないルールを守る大人で、きちんと国語の文法を教えてくれる品行方正な教師だという認識が今ブレ始めているはずだ。だから私は敢えてこの話を始めた。君たちは私に疑いの目を向けている。私は間違っていなかった。君たちがたとえどんな言葉づかいをしようと、どんな態度で話を聞こうと、君たちが元々持っている純真な部分は変わらない。現実にほら、君たちは真剣な面持ちで、かつての私の恋の行方を固唾を飲んで見守って聞いている。人間はどれほどデジタル化された文化を持とうと、恋をして、夢を語る。君たちの瞳はまっすぐに私をとらえて、私はその視線を強く受け止めながら話を続ける。
今でも一番覚えているのは独立記念日の花火のことだ。二人で、花火が一番綺麗に見えるスポットを探しているうちに、打ち上げが始まってしまった。映画の「ポンヌフの恋人」さながら、ウィルと私は二人で笑いながら、花火が打ち上げられている場所へ走った。花火のどどーん、どどーんという音と、私たちが笑いながら走る足音が、だぶって聞こえた。あの瞬間、ウィルと私は確かに幸せだった。ずっとこのままでいたいと思ったし、来年も二人で一緒に見れるといいね、などと話した。時間は限りなくあると思えたし、別れることなんか予想もしていなかった。まして自分から別れをあっさり切り出すことがあろうとは考えていなかった。
花火は光と音とともに、私たちをかき立てた。いつまでも笑いながら、手をつなぎ、私たちはその光の輪に向かって走った。何も考えず、ただその光の輪だけに向かって。
翌年、私は自宅のベランダから、独立記念日の花火をひとりで見た。ビールを飲みながら、枝豆をつまみに。そういえば、去年はウィルと見たんだっけ、私はひとりでそんなことを思っても何か感慨があるわけではなかった。花火がそろそろ終わる頃、それは続けてどんどんと打ち上げられ、音が次第に大きくなり、そのときに私はようやくあることに思い当たった。
私はさよならを言ったときに、ふたりの関係を終わらせたほうがふたりのためだとかなんとか、そんな理由を彼に述べて、彼もそうだねと言ったけれど、一瞬でも相手を傷つけやしなかったか?ということだった。相手のせいにしたわけでもなかった。自分が何かいけないことをしたわけでもなかった。遠いし、なかなか会えないし、一緒にいるのが大変じゃない?なんてことを彼に伝えて、彼もそうだと言ったから、まあそんな理由ではあるけれど関係を絶った。けれど私は彼の気持ちを少しでも傷つけてはいなかっただろうか?彼の意見を聞く前に、自分の意見を述べて相手にどう思う?とただ聞いた。唐突すぎやしなかっただろうか?とまどいやためらいや、そんな微妙な気持ちや空気や感情を、私は少しも察知しなかった。それこそ、花火のように、どん、どんと音をたてて、彼の気持ちを押しやったような思いがむくむくと湧いてきた。私は相手のことをまったく考えていなかったのだった。自分本位で、自分流に物語を勝手に完結してしまっていた。
私は涙が出てきた。もうすっかり打ち上げ花火は終わり、外気の空気が突然張りつめたように静かになっていく中で、私は暗闇の中でビールをすすりながら、泣いていた。泣きながら、私は彼のことを想った。彼の今の無事と幸せを祈った。
「やだ、先生。超きつ〜」
驚いたことに君たちの何人かは、鼻をすすって瞳をうるませたりしている。こんなありきたりの昔の恋の話を聞いてくれてありがとう、と私はそんな気持ちにさえなる。
「花火のようにあっという間に時間は過ぎていきます。みんなも時間を無駄にしないでほしい。いや、無駄な時間はあったほうがいい。大事なことを無駄にさえしなければ」
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「君たちは未来の宝物だと大人は言います。宝物は一瞬輝いたり、妖しい魅力をふりまいたり、その瞬間がすべてです。生きているこの瞬間が、清らかで美しいものです」
私はそんなふうに締めくくる。
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