#39のブルース Bye Bye C-Boy
どうせ会うなら普段あまり足を踏み入れない場所で会わない?とリエが言うので、だったら中央沿線にしないかと提案したのはキョウの方からだった。
「中央線のどこ」
「高円寺とか」
「高円寺か、いいね」
キョウが最後に高円寺を訪れたのはいつだったか。10年かそれ以上前。新宿に行った帰り、ぼんやりと高円寺駅を見送ることはあっても降り立ったことは長い間なかった。リエもそんなものだと言う。
二人で高円寺駅の改札口で待ち合わせをした。
リエとキョウはかつて同僚として10年働いていた。それぞれ別々の時期に結婚と妊娠を機に退社した。退社してからさらにもう10年以上たった。どちらかが何か思いだしたときに、ランチを一緒に食べたりする。
子供の話、今の仕事の話、別れた夫の話、今の恋人の話、会うたびに二人の話の内容は変わっていく。
しかし変わっていくようでいてその実いつも同じような話をしているような気がするときがある。
出会いと別れ。私たちは年をとる。少しづつ少しづつ、物語の最終章へ向けて。
春の南風を受けながら二人は人の流れに沿ったまま、ぼんやりと商店街に入り込んでいった。
「私さ、この街で働いていたことがあるんだ」
花屋の店先でキョウはリエに唐突に言った。
「なんか聞いたことがある、その話」
「1年くらいしかいなかったけど」
「場所はどのへん?」
「あっちのほう」
キョウが指さす方向へ、リエは首を長くして頭を上げ、ふうんと言った。
「今思うと、変な会社だったわ」
キョウとリエは花屋から魚屋の前に来ていた。
「そこに勤めていた人たちのインパクトも強烈だった。何しろ私は21才だったから」
「ああ、21才のことは確かに強烈だ」
リエが相づちをうった。
「私が一番年下の新人だった。周囲は皆、結婚しているお姉さんばっかりでさ。退社時間が近づくと皆一斉に、ああ今日の晩ご飯何を作ろうという話になってさ」
「うん」
「その中の山本さんって人がうちはまたシャケだわって言うの」
「シャケ」
「山本さんは、ダンナさんの大好物がシャケだから毎晩シャケを焼くの」
「毎晩?」
リエの怪訝そうな表情にキョウは深くうなづく。
「そう、毎晩。山本さんは笑いながら、本当に毎晩毎晩ジャケを焼くのよって言うの」
「…」
「山本さんのダンナさんは、山本さんがスカートをはくのを嫌がって、パンツしかはかせないし、退社時刻には必ず車で迎えに来るの」
「こわっ。その労力すごいわ」
魚屋の前でリエとキョウは、店先に並ぶアジの干物やカツオやぶりを見るともなしに目を追わせながら立ち止まる。
「私は、世間知らずのただの21才だったけど、山本さんの笑顔がいつも怖くて」
うん、うんとリエは頭を揺らした。
「今でも自分でシャケの切り身を買うときに、山本さんの話を思い出すの。もう20年もたっているのに」
なるほどねえ、とリエは言い、キョウは輪郭さえ薄ぼんやりとしてしまった山本さんの笑顔を思い浮かべる。
「ねえ」
「何」
「毎晩シャケを焼くっていう行為、できる?」
「できないよ」
リエはきっぱりと言った。
「家に帰っても、ヘビィで過酷なルールがあるのって楽しくないじゃない?」
「そうよね」
キョウはアサリのはいったバケツに視線を泳がした。
「私はさ、山本さんが笑うたびに哀しい気持ちになっちゃったんだよね。この街でがんばって働いて毎晩シャケを焼く話を聞く生活っていうのが、つらかった。どんな街でも働くことには変わりない、そう思ってたんだけど、無機質な街で働きたいなあ、と思うようになって。無機質な街って、21才だったから単純にそれはオフィス街、って思考になるんだけども」
「シャケがきっかけだったのかな」
「わかんないけど」
二人は魚屋の前からゆっくりと足を遠ざける。
「その山本さんって今でもシャケを焼いてるのかな」
リエがキョウをのぞき込むと、キョウは前を向いたまま
「別れているんじゃないかなと思う」
と言った。
「そっか」
「別れていなかったら、たぶんもうシャケは焼いていないよ」
「そうだね」
二人の意見はズレることはなかった。私たちは会っている時間より会わない時間のほうが長い。会わない時間、お互いに何があって何を感じているか、私たちは知らない。会っている間に語りつくすことはできない。それは誰に対してもそうだ。誰もがひとりひとりで生きている。誰もが自分しか知らない時間の中で生きている。それは時として猛烈に寂しくてやるせなかったりするけれど、私たちはそこから逃れることはできない。それを私たちは孤独と言う。孤独を知って私たちは大人になる。
少年のような大人はいないし、少女のままの大人もいない。大人は孤独を自然に受け止めながら、自然に共存していく。けれども、そのシャケを毎晩焼く行為に、キョウは圧倒的な孤独のにおいをかぎとる。孤独を自然に受け止めるのではなく、自ら孤独を生み出す姿が、私は耐えられなかったのだと今のキョウはそう思う。そこには、深くて暗いどろんとした何かしかなかった。希望がなかった。
「キョウが山本さんの笑顔が怖かったっていうのは、本能が察知したのかもね」
リエは、時折強く吹く風に目を細めながらそんなふうに言う。
「危険信号みたいなの」
「21才でも、そういう心の裏側のスイッチを探れるんだね」
「21才だったからかも」
「たぶん今、山本さんと出会ってシャケの話を聞いても、明日には忘れちゃうだろうね」
リエは笑いながらキョウの肩をたたく。もっともだ、とキョウは思う。
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