logo #37のブルース ヴァニティ・ファクトリー


その人は、おれが営業回りから戻ってくると事務所の受付のデスクにちょこんとすわっていて、お疲れさまでした、本日から参りましたのでご指導よろしくお願いしますと立ち上がって頭を下げた。今日から派遣会社が紹介してきた派遣の事務のひとがくる、と所長が今朝ミーティングのときに話していたことを、おれはぼんやりと思い出した。自分の仕事を卑下するつもりはまったくないが、しかし客観性を失わずに言うとしたら、本社から遠く離れ(それはある意味見放されているといった)まるで時代から取り残されたような古い雑居ビルの一階で(しかも2階はどんなテナントもはいっていない)事務所といえば聞こえはいいがただの受け付け場所のようなオフィス(と呼ぶのも恥ずかしい)で、長く事務員をやっていたおばちゃんの腰痛がひどくていよいよ辞めないといけないのだが、後任はもう社員としてではなくて派遣のひとに来てもらった方がいいよね、本社からの予算だとボーナスを与える額じゃないしさ、と所長が言ったときにおれともう一人の営業担当の若いやつ(つまり所員合計4名)は、んなこと言ったって所長、誰がこんなところで事務をやろうって気になりますかね?募集したってなかなか来ないんじゃないすか?まあ一応お願いしてみるのは悪くはないと思うけど、でも期待はしないほうがいいと思いますよと言い、そのあとはもうそんなことはすっかり忘れていた。今朝唐突に所長の言う派遣のひとが来る、との話も一瞬頭にいれただけで、あとは外回りで他企業と交渉しているうちにまた厄介な問題が持ち上がってその対応に追われていた。だからその人はなんだか突然そこにいた、というような気がしておれは戸惑った。
彼女は、頭を下げたあとすっと動いて、おれともう一人の営業担当に冷たいお茶をいれてくれ、こないだまで事務のおばちゃんが、だから私はもうこういう機械は全然わかんないだわ、と文句を言っていたPCに向き合って座り、エクセルシートの今月の売上と粗利の入力画面の操作に戻った。そういえば所長は今朝、この派遣のひとはさ、長く営業事務の経歴もあるし、えぐぜくてぃぶ・せくれたりぃ(語尾の発音に力をこめた)なんかもやられてきておまけに英語もそこそこいけるらしいんだ、いいひとに来てもらえそうで本当によかった、とほくほくした顔で自分の選択眼に酔っていた。おれはもう一人の営業のやつに、なんでそんな人がここに?と目で尋ね、彼はひきつった顔のまま、外国人がやるように大きく肩をすくめたのだった。

1週間たち夜、歓迎会をやることになった。飲み会といっても4人だけなので予約もしないで居酒屋に飲みに行くというものだったが、おれは最後に向かった取引先で値引きの交渉が難航し、相手の部長に、君さあ仕事の交渉の術もいいかげんに覚えないとさ、今後生き残っていくのは大変よ、まあ君たちの世代は企業戦士なんて言葉は使わないと思うけどね、世の中は大きく動いているんだからさ、などとおれにしてみればお門違いの説教めいたことを言われ、しかし、おっしゃることはよくわかります、勉強不足で大変申し訳ございませんと頭を下げながら本題について食い下がり、気分的には最悪で、疲れきっていて、このまま早く帰宅して誰とも話さずビールを飲んで寝てしまいたい衝動にかられたが、たった4人の飲み会を断るわけにもいかず、1時間以上遅れて参加した。ネクタイを緩めながら座敷に座ると、3人はおれの疲労をよそにかなり楽しそうで、当初はふんっいい気なもんだよ、人の気も知らないでよ、と思いながらピッチをあげてビールを飲んでいると、いつの間にか自分もその楽しさの中に巻き込まれて笑っていた。その人も事務所ではおとなしそうに見えたが、明るい様子で大声で笑っている。ふとおれは、大人はこういうときに、ちょっと聞いてよ今営業先の部長がさあ、なんて発言をこの場ではしない、そしてそういうことをこの4人は知っている、ということは、つまり職場という空間はたとえそれがどんな小さな集団でも、ある一つの目的に向かって一致団結し、皆が皆、ある秘密を共有している、そんなふうに思った。

遅れて参加したのでどうも飲み足りない、皆と別れてたまには一人でどこかのカウンターで飲むのもいいなと思い、おれは一次会終了後すたすたと駅の反対側に向かって歩き始めた。
「すいません」
とその人がおれを呼び止めた。
「もう1軒行くんですか? 私も一緒にいいですか?」
断る理由もないので、
「いいよ。さっと飲むだけでいいなら」
と言うと、うなづきながらその人はおれの横を歩き始めた。
こじんまりとしたカウンターだけのバーにはいり、それぞれ飲み物を頼むとその人は
「今日所長に聞いたんですけど、私たち同じ年なんですね」
と言った。
「え?おれときみ?」
おれはその人をまじまじと見つめた。この人も40才なのか、女の年ってわかんねえよなと思いながら
「そうなんだ。じゃあ同級生に乾杯」
と答え、グラスを持ち上げた。なんとなく心が軽くなるのを感じ、思い切ってあの疑問をぶつけた。
「きみはなんでうちの事務所なんかで事務の仕事を始めたの?きみくらいの職歴なら大手の会社とか選択肢なんかいくらでもあるだろうに」
おれの言葉にその人は、ははははと唐突とも思えるように笑った。そして続けた。
「男性と女性って違うんですよ、この国は。いくら立派な職歴があろうと、事務の派遣は出来れば若くて子供がいなくて元気で明るい女性が好きなんですよ。私のようにシングル・マザーで子供がいます、なんて答えるとどんな企業も敬遠するんですよね。私自身、プライベートと仕事ってまったく関係ないと思うし、即戦力として使いたいというなら本来は事務経験が豊富なベテランのほうがすぐ使えるはずなのに、それはまったく違うんです。いや、はっきりそう言われたことはないです。派遣会社の営業担当も気を使って断ってきますから、そうは言いません。でもどう考えても今まで自分のしてきた仕事の内容よりもボリュームもレベルもお給料もダウンしているお仕事を受けても、面接のときに子供がいまして、と言うだけで担当の方の態度が変わったりするのがわかるんです」
おれは黙ってその人の話を聞いていた。ひどい話だと思った。
「長い間事務やアシスタントの仕事をしていれば、上司の気配で機嫌の悪さなんかも汲み取りますしまたそういう空気を読めないと事務職だって出来ないんです。私たち、どうにも軽んじて扱われていて、そしてこういうことって結局はこの国の少子化を食い止めるどころか推し進めているんじゃないかとも思いますよね」
淡々とその人はそう言った。おれは営業回りが長く営業は大変だとずっと思ってきて、事務系は楽でいいよな、仕事の取引先ってだけであかの他人の誰かに怒鳴られたりすることもないし、そういうストレスをためることもないんだからなという視線があったことを自分で中で認めた。どんな仕事もそれぞれの立場で厳しいのだった。お金をもらおうと思ったら、厳しい。つらくて、きつくて、厳しい。
「じゃあ、うちの所長はそういうこと言わなかったんだ、きみに」
おれが顔を向けると
「はい。そういう質問もなさいませんでした。私は絶対ここで働きたいって思ったんです。仕事って質も大事だけれど環境も大事です。こういう所長さんがいるところは間違いないって思いました。採用していただいて本当に嬉しいんですよ、私」
その人は笑顔を返してきた。
「あのさ」
最後にもう1杯づつオーダーしながらおれは言った。
「外回りをしながらさ、いつも心が鉛のように重くてさ、住宅街なんかを抜けてどこかへ行くときに前方から同じようによたよたと歩いているビジネスマンがいてさ、あいつは不動産関係の営業だなとか、あの男は電話会社の委託会社の営業で光ファイバー売ってるやつかなとか見当つけながら歩いていて、見知らぬあいつらもみんな自分と似たように鉛を引きずりながら歩いてるからがんばろう、なんて思うわけだよ。でもその日がたまたま天気が良くて、住宅街には木漏れ陽があふれてアスファルトに陽の光が当たって眩しいような日だと、あいつもこいつもおれもおまえも、こんな天気が良いのにおれたち一体何やってんだろ?という気になってさ、で横の細い道から三輪車に乗った小さい女の子とそのおじいちゃんみたいなのが出てきて、ゆっくりした時間の中で自分とは違う流れの中で生きてて、ますますちくしょう、おれって本当にしたいこともできないでこんな毎日やり過ごしててって悲しくなってきて、そこにおれよりもずいぶん若いような女の人がおじいちゃんとその孫をよけるためスピードを落として運転しているトヨタ・ヴィッツが近づいてきて、そのときヴィッツの中から一瞬だけ聞こえてきたエイトビートに、ぶるっとして正気に戻るんだよ。おれなんかこの曲知ってるもんね、この住宅街で曲名あてクイズやったらおれの優勝だもんね、こんな3つボタンのスーツ着ているおっさんという身なりだと誰にもわからないかもしれないけども、実はロック好きだもんね、なんて強く強く思ってさ」
だから、おれなんかもおれの立場でどうにかこうにかそうやって折り合いをつけて生きてるんだ、という最後の言葉は尻切れトンボになった。口にして初めて自分の本音はここにあるのかと思った。その人はうんうんとうなづいて、何か言いかけたようにも見えたが、何も言わなかった。おれのグラスもその人のグラスも外側に水滴がついていて、それがつつーっと流れいく様をおれたちはぼんやりと見ていた。



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