logo #34のブルース Heart Beat


台風の当たり年だと言われた今年の夏の終わりに、私は彼と会った。たぶん6時の待ち合わせ時刻より、やや遅れると思っていてくださいとメールをしたのに、待ち合わせ場所には10分も早く着いてしまった。私はさりげなく辺りを伺いながら彼がまだ来ていないことを確かめ、こういうときどんな表情をして待っていればいいのだろうか、と思った。今夜、私は彼におよそ20年ぶりに会う。正確には最後に会ったのが21歳のときだから、19年とちょっと。私と彼はこの春と夏で、それぞれ40歳になっていた。19年とちょっと経て旧友と再会する40歳の大人は、一体どんな様子をしていればいいのか、私には見当もつかなかった。

私と彼は12歳のときに誌面で出会った。コミュニケーション・ツールが手紙やカードだった時代に、私は文通相手を探していた。ペンパル募集のコーナーに私が掲載希望のハガキを出し、彼が応えてくれたのが始まりだった。小学校の終わりから中学、高校と途切れることなく私たちのやりとりは続いた。内容は進学のことや、好きな音楽の話が中心だった。彼はビートルズが好きでジョンが亡くなったときは心底打ちひしがれていたように思う。私はと言えば、誰が好き、誰が嫌い、と思春期の少女特有の絶えず移り気な気配をふりまいていたように記憶しているが、目先の流行にとらわれず、あくまでも自分の意志を貫く、というきっぱりとした態度の彼の文面は、彼が地方に住んでいて私が東京の片隅に住んでいるにもかかわらず、自分がひどく子どもじみていて洗練とは程遠い存在であるような気がしていた。そんな中で私が16歳のときに、まるで雷に打たれたように佐野元春というアーティストを聴きだし、便箋いっぱいに佐野について書くようになると、彼は少しだけ私を認めてくれたようだった。その後お互い進学し、少年から青年へ、少女から女性へ変わりつつあった私たちは自分たちの新しい毎日をやリ過ごすことで手一杯になり、だんだんと手紙をやりとりする頻度が少なくなっていった。20代の中頃に彼が結婚するまで、ときどき手紙を投函することはあったけれど、それ以降は毎年年賀状で近況をさらっと残すくらいだった。私たちは2回会っていた。1度目は彼が東京へ来たとき、2度目は私が彼の住んでいる街へ行った。2度目が21歳のときで、それからは会ってはいない。ずっと気にはなっていた。年賀状を受け取るたびに、年月が静かに過ぎていくことを感じ、彼の立派な字体から元気でやっていることはわかっていたけれど、ときどき彼の元気の正体を確かめたくなったりした。しかし、そこに何か大きな感慨を持ってはいけないような気がしていた。十代だった自分を一番よく知っていた彼と再び連絡を取り合うことは、決してやってはいけないような気がしていた。私はある時期、物事に意味を持たせないように生きていた。誰かを見送るとき、そこにいつまでもいない生き方をしてきた。家から勘当され、結婚をし、生活が破綻する中子どもを産み、離婚を経てひとりで生き、さらに再婚した。ほんのちょっと誰かを見送る時間を持ったら、涙の川に溺れそうになることがわかっていた。懐かしくて暖かいものの中に身を置くことを拒否していたのだった。それは明らかに十代のときの自分の姿ではなかった。新しい便箋を買ったらすぐ手紙を書いていた場所から、私は遠いところで生きていた。
「よかったら会いませんか」
あのメールを受け取るまでは。

たった2回しか会っていないのに、この爽やかさはなんだろうと私はビールを飲みながら思った。目の前にいる彼は、最後に会った時とさほど変わらないような笑顔を見せている。まさか生きている間にもう一度会うことがあるなんて夢にも思っていなかった。そして19年とちょっとが、これほどあっという間に通り過ぎて行ったことも、信じられないような気持ちだった。
「文通しているときさ、」
お通しを箸でつつきながら彼は言った。
「便箋を買うのが恥かしくてねえ。文房具屋に行って自分で買う、ということがなかなかできなくて友だちに頼んだりしていたこともあったんだ」
「そうだったの…」
そんな事情があったなんてまったく知らなかった。私はおこづかいをせっせと貯めて、新しいキャラの封筒と便箋のセット売りが店頭に並ぶと、当然のように買いこんで早速彼に手紙を書いて送っていたけれど、もしかしたらその頃から私は相手の気持ちを慮るようなことができない女だったのかもしれない、と私は思った。私は離婚するときに、夫であった人に「私の人生から出て行って欲しい」と言った。あれは言うべき言葉じゃなかったと今でも思う。どれほど傷つけあっても自分が優位に立つようなセリフを最後に投げつけたのは、フェアじゃなかった。どんな局面でも最後は自分勝手にふるまう女だったのだ。だから私が送り続けていたかわいらしすぎる封筒も、彼にしてみれば困惑のひとつであったのかもしれない、と私は思い当たった。
「あのさ、手紙が来るとさ、私はさっさと思いついたことを書いていたんだけど、あなたは違うよね」
私の問いかけに彼はうん、とうなづいて、
「俺は考えてから書いてた」
と言った。なんとなくうすぼんやりとしていた20年以上の前の記憶が蘇ってきた。たぶん私はお互いの、そのペースの違いや感覚の違いを感じとっていた。
「高校時代の君は、なにかあっちこっちに気持ちが飛んで、どんどん先に走っている感じだった」
ああ、やっぱり。私は自分の記憶が符号する。自意識過剰だった十代のとき、殊更私は無邪気で、夢見がちな態度というものを意識していた。それは恥かしかったのかもしれないし、演出していたのかもしれないし、そもそも十代なんてそんなものかもしれなかった。いずれにしてもあの時は、そういう方法でしか自分を語れなかったんだろうと思う、相手の気を引くためには。誰かに自分を見て欲しかった。誰かに自分をわかってほしかった。それほどの何かがなくたって、十代には十代の孤独があって、悩みがあったのだ。子どもの浅知恵といってしまえばそれまでだが、そんな少女だった自分をよく知っているひとに言われるのは、胸に響いた。
「私は誰かに、そっちの方向は違うよ、とか、そこまでいくなよ、とか、そんなふうに手綱を引っぱってもらいたかったのかもしれない」
そう言いながら、私はなんて自分本意な女だったんだろうと思った。自己アピールばかり気をとられ私は彼の話をきちんと読みきっていたのだろうか。それとも彼はそんな私の様子をよくわかっていて、それを苦笑まじりに受け止め、大きな友情で支えていてくれたのかもしれない。ようやく今になって彼のことがわかる。私の甘えを彼は彼のやり方で許してくれていたのだった。
「子どもだったのよ」
聞こえないくらい小さな声で私はつぶやいた。そんなことを20年かけて知るなんて。
「俺も子どもだったよ」
にこにこと笑いながら彼が言う。ほら、そこが君の大きなところだよ、と声に出さずに私は言う。

ビールを何杯か飲んだあと、彼が歌いに行こうと言うので私たちはカラオケに行った。もっとたくさん話をしたかったのだけど、20年間の出来事を話すにはいずれにしても数時間飲むだけでは時間がないし、ふたりでカラオケに行くこともこの先ないかもしれないと思い、小さな部屋で佐野元春の曲を一緒に歌うことにした。別に佐野元春の歌を歌わなければいけないわけではないのに、私たちはひっきりなしに佐野の曲をリクエストした。何かそうせずにはいられなかった。20年前も20年後もつながっていることを確認するために。そして楽しくなければいけなかった。もし次に会うときが今日から20年後だったときのために。

そうして私たちは、恐ろしくたくさんの人々が行き交う駅の構内の雑踏で別れた。笑顔で握手をした。笑顔を見せなければ、私は泣いてしまうかもしれないと思った。彼と会った瞬間から、なんとなく胸につかえている塊のようなもの、その正体が何か私は歌いながら感じとっていた。それはきっと誰かが今私のどこかをちょっとでも押したら、堰を切って流れ出す種類のもの。しかしその塊を今この再会の場で流してはいけないものだという分別はあった。私はきっと20年という月日がなければ彼と向き合えなかったのだろう。人が生まれてから成人する年月。これだけの年月があれば、懐かしくて暖かいものを、ときどき手のひらですくってもバチは当たらないだろう。そこにはまり込むことさえしなければ。どのみち、少しだけ手垢がついているから長い時間、手のひらを広げ続けていることはできないが。私は彼に笑いながらきびすを返す。同じ場所に戻っても、もう同じではない。月日をかけて私たちが築いてきたもの、それだけを受け止める。だから私は今まで誰かを見送ってきたときのやり方できびすを返すのだ、振り返ることをしないで。



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