logo #33のブルース サニーデイ/One Sunny Day


さっきから居間の奥の廊下にごろんと仰向けに寝て、腕を頭の下に置き、足をだらしなく組んで、抜けるような青い空にぽっかり浮かんでいる雲の流れを見ている。今日も日差しはとても強く、気温は昼過ぎからぐんぐん上昇している。時折り吹き抜ける風がありがたい。ヘインズのTシャツの脇の下から、つつつーっと汗が流れる。よくよく雲を見ていると、ほんのわずかづつ動いているのが見え、子供のときのイメージだった綿菓子にも思え、一体いくつのときに綿菓子と雲の違いをきっぱり違うと言えるようになったのだろうなどと考えていた。
「たく〜? たく!」
おふくろが、自分は台所から動かずに俺の名前を呼ぶ。台所はおふくろの聖域。何をやっているんだか1日の半分は台所にいる。
「あー? 何ぃ?」
俺もまったく同じ姿勢のまま答える。小学生の低学年くらいはまだ綿菓子のように、触るとふわふわしていると信じていたな、たぶん。
「たく! あんたさ、縁側の座布団の上に寝っころがってんだったらやめてよね!それ干してんだから!」
「ああ、わかったわかった」
生返事をしながら、俺は尚もしつこく雲の行方を見守っていた。
「せっかく干してんのに、またあんたが汗臭くしたら干してる意味、なくなっちゃうよ!」
おふくろの声はよく通る。開け放した玄関の引き戸から、おふくろの声は近所中に響き渡っている。俺がいつまでもぼんやり寝転んでいるのが気に入らないのだろう。だったらそう言えばいいのに。女は怒っている理由を告げずに怒る。いらいらと声を荒げたりする。え?なんか怒ってんの?と聞くと、え?何か怒らすようなことしてんの?などと言ったり、別に怒ってなんかないよ!とますます声を張り上げたりする。怒っているときは、怒っているとは言わないくせに、苛立たしいときは、あーもう、いらいらする!と表現したりする。女はよくわからない。それに加えて俺は、あんたって女の気持ちなんか全然わかってないんだから!ともよく言われる。俺に何を言ってもぼーっとした男だから、俺が全然傷つかないと思っている。言っとくけど、俺は女たちが思うよりもシャープな男だ。
「ちょっと、たく! 1日中そこにいるつもり!? 時間あるなら、回覧板持ってってよ」
回覧板か。こうして実家に戻らないとなかなか聞けない単語の一つだ。普段の俺の無機質な東京の賃貸マンション暮らしでは、部屋を出てオフィスに着くまで誰とも話さず、そうして1日が終わり社を出てからは再び誰とも話さない。電話があってもああ、とか、まあ、とか別に、なんかの言葉で間に合わせる。回覧板って何を回覧する必要があるんだろう。
「ほれ!」
見上げると、とうとう聖域から飛び出してきたおふくろが俺を見下ろしていた。
「持ってって、って言ってるの」
回覧板をまるで武器のように腰に当て、俺がのそのそと起き出すのを見つめている。
「わかったよ」
俺はしぶしぶ立ち上がり、時計を見る。4時。
「それからお隣に行ったら、ちゃんと挨拶してよね。営業やってんだったら少しは世間話もできるでしょ」
4時か。今日も来なかった。ちゃんと約束したわけじゃなかったけど、あのとき彼女は、たぶん時間がとれると思うから、そうしたらたくちゃんの実家にも顔を出せると思う、と言った。あんまりそう思いたくないのだが、彼女の言い方はいつも予防線を張っているようなところがあって、やたらとたぶん〜できると思う、と言う。そう言っておけば、それが出来なかったときに時間がとれると思ってたんだけど無理だった、とすんなり言えるとでも考えているのか。遠回しに俺を避けているのかもしれないことを、シャープな俺は感じ取っている。おうよ。シャープだともよ。毎日縁側で寝転びながら、俺はずっと彼女を待っていた。毎日寝転んでいた結果が、回覧板を持たされて玄関に立っている、ということか。
「帰るまでに、すいか切っとくね」
おふくろは笑顔で言った。
「ああ」
もうこれ以上待っても彼女は来ない、とサンダルを履きながら思った。回覧板を置いてきたらすいか食うしかないっしょ。
「アジ塩、頼む」
俺は家を出る。見上げると、綿菓子のような雲はきれぎれに遠くなっていた。



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