#32のブルース Happy Man
放課後、帰り支度をして階下に下りると昇降口のところでマスダ君と会った。
「あれ? おまえ今帰り?」
「うん」
「あ、ちょっと待ってて。おれも帰るから駅まで一緒に行かねえ?」
「いいよ」
私はさりげなさを装い、さほどなんでもないことのように振る舞ってみせた。マスダ君は2組の教室にバタバタと走ってカバンを取りに行った。マスダ君が教室にはいっていくところを確かめてから、急いで小さな鏡を出し、口元にリップクリームを塗り、前髪の様子を直した。この偶然が良い方向に流れてくれれば、神様お願い、と私は苦しいときの神頼みということをやった。また足音が聞こえてきたので、急いで鏡をスカートのポケットに戻す。
「お待たせっ」
マスダ君は明るい。私の声はとても低く、低い声のひとは緊張していてもそれが伝わりにくいという利点がある、と中学のとき音楽の先生が言った。でもマスダ君と話すときほど、自分の低音を疎ましく思うことってない。10代の女の子のそれとはかけ離れた落ち着きがあるようで、私は嫌だった。マスダ君の声は高音で大きく、すがすがしさがある。ふたりで話していると非常にちぐはぐな感じがする。
「おれ今日は6時からバイトなんだ」
「あ、そうなんだ」
マスダ君とは1年のとき同じクラスだった。アルファベットの名前順だと私とマスダ君は何かにつけて一緒になり、マスダ君は私をうさぎ、と呼んでいつもからかった。
「うさぎっていい意味? 悪い意味?」
「いい意味に決まってんじゃん。バニーちゃんなんだから、なあタナカ?」
タナカ君のほうを向いてマスダ君は相槌を求める。タナカ君はにやにや笑って何も答えない。そのタナカ君の苦笑いは、男同士で私について何か噂話をしているに違いない、という確信めいたもので、そこに私はある種の期待をした1年間だった。でも結果的に、マスダ君は私を1年間うさぎ、うさぎと呼び続けただけだった。他の女子に、
「いつも仲いいよね〜。マスダ君って、うさぎ、うさぎってうさぎちゃんに話しかけてばっか」
そんな風に言われた。マスダ君が最初に私をうさぎ、と呼んだので、私はいつの間にか、皆にうさぎ、うさぎちゃん、うさ、などと呼ばれるようになってしまった。誰かが私をそのニックネームで呼ぶたび、なんとなくマスダ君との距離が近いものに感じられて悪い気はしなかったが、しかしそれ以上でもそれ以下でもない関係は、ただのクラスメートという通牒をつきつけられたというあきらめも確信できるのだった。それでも何かの折り、今日のような偶然があると私はまた期待する。
「おまえ、おれのバイトの話をみんなにぺらぺら喋るんじゃねえぞ、女子ではうさぎにしか話してないんだからな」
マスダ君はそんなことも言う。
「だけど、おまえっておれより先に話さないのな」
「だって話す暇ないじゃん、うさぎ、うさぎって最初にばーっと喋るの、そっちだし」
「あははははは」
マスダ君はとてもおかしそうに笑う。言うことおもしれー、と言いながら。
「おれさ、今年の夏休みはバイトの金貯めて、沖縄とか行こうかなと思って」
「へえ」
「やっぱさ、若者は海よ、海」
「そんなこと言って、目的は違うんじゃない?」
「なんだよ、目的って」
マスダ君は芝居かかった調子で私を睨む。
「おねえちゃんたちが多いんでしょ、沖縄って」
「くー。うさぎ、おまえさ、性格悪いよ、そういうの」
そうは言いながらマスダ君は楽しそうに笑う。駅の改札が見えて来た。
「おまえも今年の夏休みはバシっと決めたほうがいいぜ。おまえってなんかコンサートとかそんなのばっか行ってるけどさ、夏はアウトドアってことでよ」
「でも音楽ってさ、」
「あ!おれバイトだから上りに乗るの、16分の。おまえ、下りだろ? じゃな」
学生服から定期をぱぱっと出して、マスダ君は反対側のホームへ走って行った。一番大事な話をしたかったのに、また最後まで聞いてもらえなかった。マスダ君の前だと私は逃げ足の遅い本物のうさぎになったようで、どんなエサにもありつけないような気持ちになる。にんじんはどこだぁ、と胸の中で小さくつぶやく。私がにんじんを探している間、マスダ君はもう次の場所にたどり着いて、その場所にいるひとたちと、楽しくやっているのだろう。マスダ君は明るくてさわやかで周囲のひとたちをなごませる。次の場所にいるひとたちは、マスダ君を待っている。マスダ君は遅れない。前の場所にいたひとたちを嫌な気持ちにさせないで、次の場所でもうまくやることを知っている。マスダ君。恋とかそんなんじゃなくても、好きだなと私は思う。こういう気持ちをうまく表現することができないけど、マスダ君を好きだとつくづく思う。私は下りのプラットフォームにたたずみ、マスダ君の乗った上りの電車の発車をぼんやりと見届けている。ごぉーという風が舞い、私の制服のスカートがバタバタと音をたてた。
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