logo #30のブルース 誰かが君のドアを叩いている


うんざりするほどの雨が朝から降っている。窓辺のカーテンを少し開けると、向かいのマンションから裏手に続く遊歩道は、たたきつける雨のしずくでぼんやりとした輪郭しか現れなかった。私はカーテンを元に戻して、手にしていたマグカップをキッチン・テーブルの上に置いた。もう一度鏡を見て、口紅がずれていないかどうか確認し、私に背中を向けて朝の子供番組を見入っている娘に声をかけた。
「そろそろ行くわよ」
「もうちょっとだけ」
私と娘は毎朝同じ言葉を交わす。
「もうお仕事遅れちゃうからテレビ消して。今日は雨が降ってるから、学校まで送って行くわ」
「じゃあ、おかあさん先に車出してきてよ。それまでここで待ってるから」
今年小学校三年になった娘は、テレビから視線をはずさず淡々とそう言った。近頃急に生意気になった娘を叱ることもせずに、私は玄関に先に向かう。
「ちっ。あーあ、学校なんか行ってもおもしろくないよ」
しぶしぶ画面の前から娘は立ち上がり、それでも置いて行かれることには心細いのか私のあとをついてくる。背が高くすらりと伸びた足の恰好は夫のそれとよく似ている。毎朝同じ風景で、同じことを言いながら繰り返す日常。昨日と違うのは、すっきり晴れ渡った秋の空が、今朝はどんよりと鉛色をした雨になっているだけだ。私は仕事へ行き、娘は学校へ行く。私は仕事から帰り、娘は学校から帰る。それぞれが別々の場所へ出かけて行き、同じ場所へ戻る。何年も前から同じ風景の中で息を吸い、同じ空気の中で息を吐いてきた。今日だけ呼吸が重いのは何故だろう。私は靴を履きながら思った。雨の日はブーツと決めている。夫が、ボーナスがはいったからと、このブーツを買ってくれたときは、自分の好みではないからあまり履かないような気がしたものだが、かかとが痛んだら修正し、穴が開いたら補修をして何年も私の足を守ってきた年季もののブーツ。ああ、そうか。夫のことを考えたから呼吸がため息になったのだと私は思った。

夫の事業があやしくなってきたのは、ほぼ1年前になる。彼が起業するときに、熱っぽく語る夫の言葉を鵜呑みにできなかった私は、その事実を聞かされたときも別段驚きはしなかった。だがその負債額を聞いて絶望した。億単位の借金だった。すぐに潰れることはない、僕も必死で駆け回っているんだよ、という夫の言葉はまったく耳にはいらなかった。夫のことは夫のことだから、という言い訳は通用しない。夫婦である以上今後の自分の人生は夫に左右されていく、その現実が私には許せなかった。自分のような普通の暮らしをしてきた者には、億というお金の単位が人生の中に飛び込んできたことも理解しがたかった。事業に失敗した夫を責めるつもりはなかった。夫のことで自分に火の粉が飛んできたことが堪らなかった。
「お前は、そういう女だよ」
夫は私に言った。
「確かに取り返しのつかないことをした点については申し訳ないと思っている。これからも迷惑をかけるかもしれないことも謝る。でもお前はまったく人の気持ちを考えないんだよな」
私は問い返した。
「どういうこと?」
夫は目をしばたかせ、
「だって傷ついている当人は俺だぜ?この事実に一番傷ついてる俺に向かって、自分の人生がどうのこうのって俺のことなんかまったく考えていないじゃないか。結局あれだよ、お前は自分のことしか考えないんだよ」
私は反論した。
「傷つくことに一番も二番もないじゃないの。あなただって自分のことしか考えていないわよ。私だって傷ついているのよ。私たち子供だっているのよ?事業に失敗しました、借金あります、っていう状態になったとき笑っているひとなんているのかしら?どんな奥さんだって感情の高ぶりはあるわよ。自分の失敗を認めているようなこと言ったって、あなた傲慢だわよ。申し訳ないと思っていないわよ、そんな不遜な態度」

あのときも毎晩毎晩同じ言葉を言い放っていた、と思う。出口のない迷路にはいりこみ、どのドアも行き止まりで途方に暮れた。夕食を食べる、子供が寝る、大人の時間になり口論が始まる、次の朝お互い何も話さず、その日の夕食を食べ、子供が寝て、口論になり・・・。苦しいときも、穏やかなときも、そのときどきで同じような言葉を繰り返して人は生きているような気がする。食べて、寝る。言葉を発しなかった時代の人間は歌や手拍子でコミュニケーションしていたと言う。現代はあふれるくらいの言葉を発することができるのに、自分の気持ちが相手に伝わらなくなってしまった。そして相手の言葉すらも受け止めていけない。言葉を話さなくとも関係性を築いていけるのに、皮肉なことに言葉を話すようになってから、人は争い、憎しみを口に出し、悲しみを訴え、不満を募らせるようになるなんて。こんな苦しみはもう嫌だ。私は何もしていないのに、ただ普通に道を歩いているだけなのに、やりきれないことは勝手に向こうから落ちてくる。そんな心構えもないのに、いつも勝手に。

「おかあさん、信号青だよ」
はっと視線を上にやり、慌ててアクセルを踏む。信号待ちをしながらワイパーの音を聞いているうちに、またいつものように違うことを考えていた。
「ぼーっとしないでよ」
娘は母親の何もかも気に入らない年頃になってきたようだ。話す言葉もとげとげしい。
「土曜日、おとうさんとこへ行く?」
話題を変え、校門に車の幅寄せをしながら娘に訊ねる。
「うーん、どっちでもいい」
そう言いながら娘の声は上擦り、気持ちの明るさが表れている。生意気なことを言っても、娘の様子がまだ自分で把握できることに、私は安心した。
「いってらっしゃい」
そう声をかけたが、娘は雨の中へ飛び出して行き、私の声は雨音にかき消された。



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