logo #29のブルース 夏の地球


思い出して泣いてしまうには十分の思い出を残し、私たちは夏に別れた。夏に出会って夏に別れるというのは、あまりにも陳腐でありきたりで平凡すぎる。しかし別れは自分の好きな時間や場所で決められるものでもなく、そして私たち二人はどこにでもいるような男と女だったのだ。世間を驚かせる技能も技術も器量もなく、周囲を圧倒させるような燃え滾るような熱くて甘い世紀のロマンスがあったわけでもなく、静かに始まり、静かに終わった。

あれはいつの夏のことだったろうか。私と彼はちょうど10回を数える夏に終わったので、ふたりでいることがすでに日常になっていた5回目か6回目の夏だったかもしれない。私の友人が結婚してご主人の転勤先がアメリカになったため、彼とふたりで友人夫婦を訪ねたことがあった。デトロイト国際空港におそるおそる降りたった私たちは、友人の姿を見つけてほっとした。アメリカの空港はどこも大きいからさあ、いなかったらどうしようって焦っちゃったよ、と彼は笑った。友人の車に乗り込み、空港から1時間近く走ったところが友人宅だった。彼女たちは一軒家に住んでいて、住宅街の一角にあった。お隣の白人の奥さんは、アメリカの郊外の主婦がよくはいているジーンズのショートパンツ姿で、自宅の芝に水をまいていた。

「はろう」
と私が言うと
「Hi!」
と元気に笑った。日本からお友達が来たの?とお隣の奥さんは友人に聞いた。ええ、そうです。友人が答えると、レモネードを作ったの、ポーチにいらっしゃいよ、と誘われた。いいんですか? 友人が笑顔で聞く。全然構わないわよ、来てちょうだいよ、と奥さんは言い、私たちは荷物を置くとお隣の家の裏庭にお邪魔した。白いテーブルに椅子が4脚あり、大きなタンブラーをがちゃがちゃ言わせながら、奥さんはレモネードを運んできた。4人で座ろうとしたときに、友人が、ああいけない、主人を迎えに行かなくちゃ、と言い始め、申し訳ないけどすぐ戻ってくるからここにいてもらっていい?と私たちに聞いてきた。私たちが答える前にお隣の奥さんにも事情を説明して、すいません、よろしくお願いします、なんて言いながら彼女は行ってしまった。
3人になり、何かカタコトの英語でも会話したほうがいいな、と彼が言ったとき、電話が鳴った。
奥さんは
「エクスキューズミー」
と言いながら席を立った。そして私と彼だけがテーブルに残された。ふたりで黙って奥さんの手作りのレモネードを飲んだ。夕方の風がささっと吹いてきて、ストローがくるくると回った。
反対側のお隣の家の庭で、走り回っているラブラドールの鳴き声がする。家の少し先にスクールバスが停まったようで、しばらくの間子供たちの声が聞こえ、そしてまた遠くなった。奥さんは大きな声でまだ電話をしている。私と彼は黙ったまま、レモネードを飲んでいた、いつまでも。

私と彼は、アメリカから帰国してからも、シンガポール、香港、台湾、夏の伊勢志摩、日本酒のおいしい能登、春の北海道…とそのあともふたりで連れ立って様々な場所を旅した。
しかし今、どういうわけか私にはあの夏のあのレモネードが強く印象に残っている。氷が溶けて薄くなり、黙って彼はふたりのコップにそれぞれ、ピッチャーからレモネードを補充した。私も黙ってストローを押え彼が足してくれた2杯目のレモネードを飲んだ。乾燥した空気の中でようやく落ちてくる夕陽を背に、いつまでも無言で飲んでいたレモネード。地球上にたったふたり残されて、ふたりで最後にレモネードを飲んでいる。そんな風景画を私は胸に刻んだ。

そこにどんな意味があったのか私は知らない。そして別れた今は、そこにどんな意味があろうとも、今ではもう意味がない。



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