#27のブルース sweet16
あたしには大事なお姉ちゃまがいる。お姉ちゃまは、もうじき40才に手が届こうとしているのにいつも優雅で落ち着いている。
「なんでいつもそんなに大人なの?」
そう聞くと
「そんなことないわよお。勘違いしてるわよ、大人の意味を」
お姉ちゃまはそう言ってまた笑う。
「でも大人だからそんな薄緑色のカーディガンなんか着てるのよ。あたしなんかそんな色のそんなレースのカーディガンなんか選ばないもん」
そんな色なんてずいぶんな言い方ねえ、そう言いながらお姉ちゃまはあたしにおいしい紅茶をいれてくれる。アールグレイというのだそうだ。あたしの家では紅茶なんか飲まないから、お姉ちゃまの家に来ると紅茶のなんとも言えないあの温かみのある芳しい香りと、アメリカ仕込みのクッキーがテーブルに無造作に乗ってあって、あたしは嬉しくなる。
「うちの主人はもうアメリカの味は甘すぎて受け付けないのよ。完全に日本のスウィーツが好みになっちゃって。だからどんどん食べて行ってね」
スウィーツという発音があたしの知ってるクラスメイトの誰よりも本当の英語っぽい。さすがアメリカに5年いただけあると思う。あの日公園で、子供と遊ぶお姉ちゃまの落とした財布を拾わなかったらあたしは今頃こんなおいしいクッキーにありつけなかった。自分に感謝。お姉ちゃまに感謝。
「お姉ちゃまって呼んでいい?」
何回か家にお呼ばれしたあと、あたしはお姉ちゃまに聞いてみた。
「あら気恥ずかしいわねえ。でもなんとでも呼んでいいわよ」
そう言ってもらえてあたしは本当にほんわかした気持ちになったものだ。本当なら、お姉ちゃまよりお母ちゃまと呼ばれるくらいの年齢差なのにありがたいわ、お姉ちゃまはそんなふうに言うけれど、まったくもったいないと思う。母親として考えるなんてもったいない。自分の家のカウチに寝そべる母親を想像し、あたしはぶるんぶるんとかぶりを振る。母親として考えるなんてそんな恐れ多いこと出来ないわ。
「今日はどうかしたの」
お姉ちゃまが鋭く言う。いつだってお姉ちゃまは私の心を読みあてる。そういうところもお姉ちゃまは母親なんかじゃない。母親なんてものは娘の揺れる気持ちなんかまったくわかっていないもの。
「わかっちゃった?」
「なんとなくね。話があるんじゃないの」
こんなふうに優しく聞かれると、ついついあたしは話したくなる。
「そうなの。あのね、あたし結婚したいひとができたの」
「ええっ?結婚?」
お姉ちゃまらしくない、素っ頓狂とも言うべき声を上げる。
「だってあなた、16歳よね?」
わざわざ確認しなくたってあたしの年齢くらい覚えておいてほしいもんだわ、とあたしは少しむっとする。あたしがここまでお姉ちゃまを慕うのだから、お姉ちゃまもあたしをもっとわかって欲しい、あたしにはそんな気持ちが強い。
「そうよ。いけない?」
「いけなくはないけど。現実的ではないと思うわ」
きっぱりとお姉ちゃまは言った。
「あたし別に夢見て言ってるんじゃないわ。ふざけてもいないし。ずっとずっと一緒にいたいひとができただけ。結婚ってさ、そういうもんじゃないの?大人はいろんなことをごちゃごちゃ言うけど基本的な衝動っていうか、一番大事なのってそういうもんじゃないのかな」
しばらくお姉ちゃまはあたしのことをじっと見ていた。あたしもお姉ちゃまの目をまっすぐに捉えていた。あたしとあ姉ちゃまは、お互いを見詰めてどちらも口を開こうとしなかった。
「ちょっとだけ話させて」
最初に声を出したのはお姉ちゃまのほうだった。
「どうぞ」
あたしはおいしい紅茶が冷めないようにずるずると飲みながら答える。
「私が結婚するときね、実は迷っていたひとがもうひとりいたの」
「えっ、そうなの?」
お姉ちゃまとダンナ様は結婚10年目だというのに今でもラブなモードにスイッチがはいってるとあたしは踏んでいたので、その告白には正直驚いた。ダンナ様は家にいるときお姉ちゃまの反応を絶えず窺っていて、目が合うといつも微笑んでいて、ああ本当にこのひとはお姉ちゃまのことをアイシテいるんだなあとあたしは思っていた。あたしが気恥ずかしくなるくらい、ダンナ様ってひとは人目を気にしない。アメリカ育ちだからじゃないかしら、っていつかお姉ちゃまは分析していたけれど、それだけじゃないと思う。アイシテいるということは、受け容れることなんじゃないかそんな難しいことをダンナ様は私に問い掛ける。だからこそお姉ちゃまのこの発言はびっくりだ。
それって二股?
「そういうんじゃないけどね。でもそういうことにもなるかもしれない。私はね、もうひとりの彼のこともとても好きだった。でもね、いつもタイミングが狂ったの。元々私はその彼と恋人同士だったの。でもいろんなことがあって別れた。そしてまた元に戻って、そして別れた。そういうことが3回くらいあったの。私はとても疲れてしまっていた。3回目に別れたときには、もうこれで本当に終わったと思った。そうしたらすぐ今の主人と出会ったの。出会ってすぐに、あれよあれよという間に婚約までした。婚約はしたものの私はあまりにもスピーディに物事が進んでいることが気にかかって、この婚約を迷っていた。迷っていた時期にまたその恋人が私の前に現れたの。すべてを水に流してやり直そうと言って」
「なんだか、どっかで聞いたことあるような話」
あたしはいくつでも食べていいと言われたことを真に受けて、4つめの大ぶりのクッキーを齧る。
「よくある話。そうよ。恋愛なんてね、世界中でこの瞬間にも芽生えたり別れたりしてるものよ。どんな恋愛話だって、よくある話よ。でも当人にとってはよくある話ではないの。生きている間に何回恋をすると思う?多いひとだって恐らく100回はないわね。少ないひとだったらたった1回でしょ?よくある話でも、自分にとっては二度とない恋の話なのよ」
そうなのか。あたしはお姉ちゃまの普段垣間見せない熱いトークが少し気になったけど、何も言わずに聞くことにした。
「でもね、人間ってすべてを水に流すことはできないのよ。過去を忘れて生きていくことも大事だけど、過去を置いていくことはできない。過去の上に成り立っているものなんだから。私と恋人は何度も何度も話し合いをした。私が婚約に迷っているなら、そんな婚約は意味がないと恋人は言った。確かにそれもそうだった。でも婚約を決めたその瞬間は婚約に意味があると思ったのよね。それもまた事実。それを間違えました、過去にしてくださいとは言えなかった。
どちらの男も選べないなら、どちらの男とも幸せになる資格はないのかもしれないとも思った。でも資格って?結婚するのに資格なんかいるのかしら?私が婚約に迷わなければ恋人は私の前に現れなかったかもしれない。なんだかまだアタックする余地はありそうだと彼はそう見ていたのかもしれないし。とにかく考えれば考えるほどわからなくなって。そのとき私は今あなたが言ったように、考えに考えを重ねてするものなのかな、結婚って、とそう思った。衝動でこのひとと一緒にいたいってそれだけでいいんじゃないかなって、そう思った」
いつの間にかカップの紅茶は飲み干して、クッキーに手を伸ばすことも止めていた。
「そうして私はその恋人に言ったの。私は迷ったけど婚約を決めた瞬間の自分をリスペクトしたいから、もう結論は出ているって。恋人は悲しそうな顔をして、わかっていたよと言った。君が彼を大事にしているのはわかっていたけれど、でも僕だって彼と同じふうに君を想っている。君だって僕を大事なひとだと想っている。人生をやり直すことは誰だってやっていいはずだろ。どうして僕とじゃやり直せないんだ?僕に何が欠けているんだ?彼を選ぶ理由はなんだ?そう聞かれたの。
タイミングよ。私は言った。タイミングがいつもちぐはぐなんだもの。今まで歯車が合った試しがないわ。タイミング?たったそれだけ?愛情の深さとかそういうものじゃないのか?違うわよ。愛情の深さなんかどうやって測るの?誰に見えるの?一緒にいればどんな人とだって愛情に深みなんか増していくわよ。そうじゃないのよ、私が言いたいのは。大事なことを決めるタイミングが毎回違っていくのは縁のない証拠じゃないの。いつもいつもボタンをかけ違えて洋服を着るの? いつもいつも誰かにボタン・ホールを間違えてるよ、と指摘されて生きていくの?そんなこと、ありえないじゃない。大人なのよ。子供じゃないのに、誰かに教えてもらわないといけないような間柄なんて成立しないのよ。ほら、今だって私たち、お互いの見解を間違えてる。大事に想うことと、大事なひとと一緒になることを混同しないで、そう言って別れたの」
「最終的な別れはそれ?」
「そうよ。それが最後」
「その恋人すっごいショックだったんじゃない?」
あたしはお姉ちゃまの元カレの容姿を想像しながら言う。どんなひとだったんだろう?あのダンナ様と張り合うくらいのひとなら、余程素敵なひとだったんじゃないかなあ。
「一瞬打ちひしがれていたけれどね。でも幸せな別れだったわよ」
「幸せな別れ?それが?」
「そう。恋人はめそめそなんかしたりしないひとだった。それはあのひとが私を尊重してくれようとしたから。私も彼の立場を尊重したのよ、だからきちんと気持ちを伝えたの。そして婚約していた私の今の主人のことも尊重したの。そういう別れだから今でもあのひとは私の大事なひとなの。
愛情にもいろんな種類があるでしょう。大事に想うひとは何人もいていいと思う。浮気とかそんな次元の問題ではなく。ただあの時迷っていたのは私が悪いんだけどね」
ふふふ、とお姉ちゃまは余裕の表情を見せた。大人なんだなあとあたしは思う。お姉ちゃまは本当はものすごく傷ついてものすごく悩んだんだろうなあ。その元カレも、めそめそしないひとって言うけど、それはお姉ちゃまの前だったらから格好つけたんじゃないかなあ。16年しか生きていないけど男って格好つけること、こんなあたしでも理解できる。お互い辛くて悲しいことを見せない、苦くて寂しいサヨナラを幸せな別れ、だと言う。ふうん、大人ってこういうことを浪花節で語ったりしないのが大人って言うのかも。だって今ここでお姉ちゃまに泣かれたら、あたしどうしていいかわかんないし。
「だからね、あなたも結婚を考えるのは悪くはないと思うけど、相手を尊重できるそういう時期まで待っても遅くはないと思うわ。時間はまだたっぷりあるでしょ?」
うんうん、わかった。時間はあると思う。つうか、時間がないとか考えたことがないもの。でも今のボーイフレンドのこと死ぬほど好きで、死ぬほど一緒にいたいと思うんだけどなあ、彼のことをものすごく大事にしてるつもりなんだけどなあ、だから結婚したいだけなんだけど、とあたしは彼氏のことを思い出す。でも大事にすることと、尊重することってどう違うんだろう? 今あたしが出来ることは彼のことを一生懸命想うこと、そして彼にも一生懸命アイシテもらいたい。他の方法はわからない。他の気持ちも持てない。ただ大好きなだけ。
「好きなのね」
お姉ちゃまが聞く。
「うん、死ぬほど」
「死ぬほどなんて、そんな言葉は使わないで。でもその答え方、私大好きよ」
そう言ってお姉ちゃまは私に微笑みかける。
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