logo #26のブルース おれは最低


「じゃあよ、今まで自分が最低だった話をしようぜ」
とヨシダが言った。男同士で飲んでいると、こういう話が多くなった。30代の終わり。
嫁さんや子供の話はそこそこに、過去の悪事や思い出話に話が推移する。仕事の話はとりあえずのビールの段階で終わっている。
「最低だった話?やっぱ寝ゲロだな」
ハシモトが言う。
「寝ゲロは、結構最低だよな」
「においがね」
「なんで寝ながら吐くかねえ」
「だからそこが最低なんだって」
エダは口元を歪める。こいつは昔からこうやって笑ってたな、とおれはエダを見る。
「昔、何度かやり逃げしたな」
と、ヨシダ。
「おまえ、少し見得はってない?」
「そうだよ。おまえは捨てたと思ってるけど、本当は相手に捨てられたんだろ」
「ひでえな」
「おれ達が考えているより女のほうがあっさりしてるぜ?」
「女房が友達と話してるのを聞いて、女って怖いっていつも思う」
「なにが」
「過去の男の話とか」
「ああ、確かに。計算ずくだよな」
ハシモトが顎をしゃくって
「おまえはよ?何が最低だった?」
とおれの方を向いた。
「おれの最低話?なんだろうなあ…」
おれはしばらく考えた。たぶん最低の話と言ったら、おれにはあのことしか思いつかない。
「もう15、6年前の話だけど」
「おーやっぱり女がらみだな」
エダがもっともらしく酎ハイを飲みながらうなづく。
「好きな女がいてね。好きになったのはおれの方からで。幾つか年上だったんだけど、明るくて素直で結構格好いい東京の女がいた。何度かデートしているうち、自分のほうが盛り上がっちゃって。でもおれも若かったから、相手が年上っていうこともあって、彼女の過去にものすごく嫉妬しちゃってさ。彼女は格好いい女だったけど、遊んでるっていうタイプじゃなくて、過去に恋人がいたんだけど、ひどく傷ついて別れた経験があってさ。おれはそういうことも自分にはないような大人っぽい思い出があるってだけで嫉妬しちゃっててさ」
「わかるよ。男ってくだらないことで見得はるからな」
「あ、だからさっきおまえ女捨てたっていうの、やっぱ見得だろ」
「違うよ。おれは一般論として今言ってるだけで、自分のことは本当のことだよ」
「わははは。ムキになるところが今イチ信憑性に欠けるんだよな、おまえ」
「ヨシダの話はいいよ、もう。こいつの話聞こうぜ。それで?」
「うん、それでおれは彼女がすでに本気の恋をしてその恋に破れて、そうこうするうちにおれと出会っておれと新たに違う恋を始めようとしてるってこと全体が、どうにもやりきれないっていうかさあ。本気の恋をしたあと出会ったおれに、またおれに本気になれるのか?とか、本気本気ってそんなこと繰り返して何が本気がわかるのか?とか、そういうやるせなさ、みたいなのがさ。男って勝手だろ?そのうえ若いもんだから嫉妬がだんだん怒りになってくるんだよな」
「殴ったのか?彼女のこと」
「いや、殴りはしない。おれはそういうことはしない。だけど、彼女は素直なもんだからおれに聞かれるとなんでも話すんだよ、過去のこと。全部知っておいてほしいとか言いながら。どっちにしてもエゴのぶつかりあいだよな。おれもその彼女も。おれはおれで自分流に解釈して彼女は彼女で彼女のやり方で迫ってくる。でもおれはもちろん彼女のことを好きだから会う度いらだってんだけど、うまく表現もできなくて、それにやっぱり子供っぽいところを見せたくないというのもあって、ずるずると苛々しながらつきあってたんだ。
そのうち彼女が流行りの風邪をひいたみたいだ、熱もあるし、下痢も止まらないとか言って体調を崩したときがあったんだ。ちょうど当時日本にエイズが上陸した頃で、みんな何の知識もないまま、ちょっと調子を崩すと『あいつエイズなんじゃないか?』とそれほど悪意もないままそんなことを言う風潮があって。正しい知識がないというのは、あの当時エイズ患者というのは乱れたセックスをしているか、主に同性愛者間の性感染というのがおもな感染経路だと思われていて…」
「……」
「…おまえさ、それ言ったの?彼女に」
「え?エイズかってことを?まじ?」
「言ったばかりじゃなく、本気でそうじゃないかと思って、検査受けに行けって言ったの」
「ひっでえ」
「なんでそう短絡的に…」
「でも彼女は、私は本当にただの風邪だし私が過去にセックスした相手は恋人だけだし、そんなふうに私のことをなじるなんて信じられない。つまりは私が過去にどんな体験をしてきたか私の言葉だけじゃ信用できないってことでしょ。だから検査して結果が出れば納得するってことでしょ。身体が弱っているときに心にダメージを受けるようなことをわざわざ言うなんてひどいって言った。私がエイズだったら私を愛せないっていうの。そういう局面に陥った時にあなたは結局フィジカルな性交がないと、恋人として認めないんでしょ。メンタルな部分での結びつきなんかどうだっていいのよね。そんな言葉を彼女はおれに弾丸を撃ち込むように浴びせてきた。
でもおれはその時は、それほどひどいことを相手に言ってるつもりはなかった。だって相手のことなんて何もわからないだろ?口では過去の恋人はひとりだけ、とか言ってても本当はどうだかって思ってた。男なんてそのくらいばかな生き物じゃないか?みんなそうだろ?若いときの恋人の言うことなんか信用してきたかよ?
おれの場合はきっと彼女の過去の恋人に対する嫉妬だったと思うんだけど、一度そう思うと本当にそうじゃないかと思い始めて、彼女が飲み終わったコーヒーカップに口とかつけられなくなっちゃってさ。感染するんじゃないかとか思うと」
「……」
「それを見て彼女が泣き出して、大袈裟に言ってるわけじゃなくて本気でそう思ってるんだ?私の言葉を信じられないなら何を言っても信じられないよね、あなたは私を信じられないだけじゃなくて、世の中全部を信じられないわけよ。それにね、私と別れたいならこんな手の込んだことしないでよ。はっきり言いなさいよ。こういうことされる側はね、一生忘れないわよ。私あなたが今コップをゆすいだ手の指、一生覚えてるからね。そう言っておれの部屋から出て行った」
「……」
「そのあとおれもいろいろ考えたんだけども、おれはきっと彼女のことを好きになりたかったんだよね。好きだったんじゃなくて、好きになりたかったの、自分的に。それは年上の女とつきあう自分というのもよさげだったし、彼女頭もよくて格好いい店結構知ってておれを疲れさせなかったからさ」
「おまえ、それって…」
「ああ、最低だよな。でも別れてもしばらくはなんであんなふうにおれをなじったりするのか半分くらいしか理解できなかった。いやひどいことだというのは自分でもわかってた。
でもさ、自分でもわかっていてもそのとき自分が信用できなかったというのも本当のことだから仕方なかったんだ。恋がだめになるのはそういうもんだ。仕方なかったんだよ、そのときは。
仕方があったら恋は続く、仕方がなくなるまで。で、そのあとおれもいろんな恋をして、うまくいったりいかなったりがあって、思いがけず相手に言われた言葉やしぐさで傷つくようなこともあってさ、そうしたらだんだん彼女に対して言ったこととか蘇ってきてさ。『触るな』とかさ、なんだっておれはあんなに嫌な態度しかとれなかったんだろう、とか。仕方がなかったのはわかるけど、何もあんな嫌な態度や言葉を言う必要はなかった、とか」
「もちろん彼女はエイズじゃなかったんだろ?」
「ああ。本当にそのとき検査へ行ったのかわかんないけど、でもそういう女じゃなかった。普通に恋をしようとしている東京の20代の女だった。いまだにおれ、時々思い出すんだよね、この女のこと。もっと好きでもっと深いつきあいをした女もいたのに、そういう女のことはあまり思い出さない。だけどやっぱりその彼女に対しては、なんていうかなあ、謝ってないんだよな、彼女に。
恋が終わるときはいつもいろんな理由がある。どっちかが阿呆だったり、どちらも阿呆だったり若くても年いっても恋の終わりに綺麗事はない。おれは自分の中の正統だとその時に思っていた理由を1番目にあげて、彼女に謝らなかった。あのとき一言でもごめんな、って言えばそのあとおれも彼女ももう少し救いがあったかもしれなかったのに。謝るなんてことおれには出来なかった。
おれがもし謝ったらおれの言い分が間違っているような気がしたくらいだ。
だから別れ際に彼女が言ったおれの手の指を忘れないって、今でもおれのことを、あの部屋でコップをゆすいだおれの指を覚えているんだったら、謝りたいと思う」
「濃いな」
「たぶん最低の最高話だ」
「いや最高峰の最低話だろうよ」
「どっちにしたって嫌なやつだったな、おまえ」
「ああ」
「でもずっとこのことを考えてきたなら、最低の中でも最高じゃないかもな」
「いや忘れてないところも最低」
「最低。だけど今おれたちに話したってことは最低でも最高でもない」
おれたちはまだ酎ハイを飲み続けていた。ぼんやり過去や現在の自分を思いながら。



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