logo #24のブルース すべてうまくはいかなくても


待ち合わせの時間まであと30分以上もあった。本屋に寄ろうか、それともCDでも見ようか、どうしようかなあと思いながら新宿の雑踏を歩いた。こういうとき私より少し年が若い女のコたちはスタバの店先の段差のある舗道に腰掛けて、携帯電話を取り出して誰かにメールでも送るのだろう。絵文字なんかいれちゃって。最近どこでもそうだ、私は思った。喉が渇いて立ち寄ったコーヒーを出す店でも、テーブルに座っているお客は、皆一斉に小さな画面を見つめて親指を動かしている。これから飲みに行くのに、そんな光景を見るのは嫌だな、やっぱりショットバーで一杯だけ飲んで、それから友人とおいしいものを食べに行こう。私はそう決めて立ち止まり、周囲をぐるりと見渡した。わずか100メートルしか離れていないのに、新宿の駅はそのまま巨大にそびえたち、ゆきかう人たちは立ち止まった私を邪魔くさそうに通りすぎる。1杯だけ気持ちよくお酒を飲める店はないものか普段夕暮れどきにこの街を歩かないので、私にはよくわからなかった。あの建物の中ならあるかも。ホテルのような雑居ビルのような白が基調となっている大きなビルディングの中に私は入り、上の階まで上がって、ようやく大人らしい雰囲気のあるバーを見つけた。

私はカウンターに座った。ここでドライ・マティニーを飲んだら、ちょっと前の片岡義男の小説になってしまうな、そんなことをひとりで思って結局ジン・トニックを頼んだ。亡くなった大好きだった作家の森瑶子の小説はジンとかラムが小道具としてよく登場した。バーにひとりで入ると、今いるこの街のこの時間のことよりも、昔読んだ小説や昔見た映画や昔出会ったひとを思い出す。気持ちが落ち着くのよね、きっと、とまた私は自分に語りかけた。そして右側に置いたバッグの中から長年愛用しているシガレット・ケースを取り出そうとして、息が止まりそうになった。
そこに座っていたのは、私の学生時代を彩ったブブにそっくりだったからだ。ブブというのは勿論愛称で、男のくせにいつもぶうぶう文句ばかり言うことから、いつの間にかブブと呼ばれるようになった。ブブは端正な顔立ちに似合わず攻撃的な態度で、そんな彼はよくも悪くも周囲のリーダー的存在だった。一緒に期末テストの勉強をした、卒業してから初めてブブの運転する車に乗った、海を見に行った、コンサートへ足を運んだ、ブブと私は仲の良い異性友達であり、周囲から「どうなってんだ、おまえら」といつも訊ねられるそんな仲だった。そのブブによく似た、スーツを着て私の隣に同じようにスツールに座っている男性を、薄暗い店内の中で私は必死に目をこらした。たぶんブブだろうと思う。しかし会わなかった年月は、気軽に声をかけるチャンスを奪い去っている。

どのくらい隣の男性を見ていたのか、私の気配に相手がこちらを向いた。彼も私をじっと見ている。しかし懐かしいといった驚くような表情は見受けられなかった。正面から見ても確かに似ている。声をかけるべきだろうか、しかしどうやって?ブブ、なんてそんな親しげな呼び方を私から? 私はとりあえず気を静めるために煙草を吸うことにした。ぼんやりとシガレット・ケースに手をかけたままの状態も不自然だし、煙草を吸いながら相手をもう1度吟味しようと思った。彼のほうはすでに前を向いてビールを飲んでいる。私は取り出した煙草に火をつけながら、やっぱりこれはおかしいとも思い始めた。もし本当に彼がブブだったら、どうして彼はここにいる?ここで何をしている?もし本当に彼だったら、彼だって気がつくはずだもの。さっき自分を見ていたのも私が見つめていたからに違いない。人違いかもしれない。ブブが私を忘れるはずないもの、私が彼を忘れていない限り。忘れていない?いや私は長い間忘れていた。忘れようと努力した結果、時の流れは無情にも楽しかった出来事を青春の思い出に変えた。

私はブブが大好きだった。仲の良い異性の友人ではなくて、ちゃんとした恋人になりたかった。仲間にはそんなことは言わなかった。言わなかったけれども皆はわかっていたようにも思う。高校から大学へ、そして大学を卒業する頃、私はしびれを切らしてとうとう自分の気持ちをブブに伝えた。あのときの胸が詰りそうな息苦しさと言ったら、それまで自分が経験したことのないような極度の緊張と不安であった。そしてそのときのブブの表情は、私が生涯忘れることのできないようないまだに彼のあの表情をすぐさま思い出せるような、それまで私が彼と過ごした数年間の中で最もぽかんとし、まさに晴天の霹靂といった手合いであった。恋人になりたいと言った女性に、驚愕の表情を見せるというその瞬間、私は悟った。友情はたった今、終わったんだ。この瞬間にすべてが終わったと。私が放った一言で物事があっけなく幕を閉じた。ずっと楽しかった。それも今日で終わり。楽しくて苦しかった。苦しくて苦しくてやるせなくて、どうしていいかわからなかった。わからないままにしているのが本当に息苦しくなり、私は恋人という方法が自分の解決策だと思ったのだった。けれどブブは違った。ブブはきっと私との時間を純粋に楽しんでくれていたようだった。それだけが彼の呆けたような表情から感じ取った。ありがとう、とかなんとか言ったような気がする。残念だ、とかなんとか言われたような気もする。卑怯だとか残酷だとか、あとになってブブは仲間たちに言われたようだけど、そういうことはあの頃よくあった。誰も悪くはないのだ。どちらもお互いの気持ちを汲み取ることができなかったのだ。私は苦しかったのに、ブブは楽しかったんだもの。かみあっていない。気持ちが絡んでいなかった。そしてそういう誰かと誰かがくっついたり離れたり、誰かを紹介したりされたり、そんなことが毎日のようにあった。そうしてバイトが忙しいからとか、誰々とは誰子の関係で会いづらい、とかなんとかとるに足らないような理由でだんだん会わなくなっていく。そのうち引っ越しを重ね、年賀状のやりとりもしなくなり色あせた写真だけが皆の手元に残る。結婚したり別れたり子供ができたり仕事を辞めたり、私たちはいつの間にかスーツが似合う男になり、バーでひとりジンを飲める女になった。

この男性がブブであろうとなかろうと。私は思った。そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。バッタリとどこかで出会うことを偶然とか必然とか人はいろいろ言うけれど、そんなこともよくわからない。生きていればすべてに答えがあるとは限らないことをもう私はわかっている。そういうことだけに意味を持たせてはいけないとも思う。この男性がたとえブブであったとしても、短い時間の中で久しぶりの再会をして喜び会い、そしてまた別々の日常に戻るだけだ。あのとき私たちは別れたのだから、この先寄り添って生きるとも思えない。そういう種類の再会も稀にはあるだろう。けれど私たちの日常ってそんなドラマティックに満ち溢れているわけではないのだ。ブブに似ているひとに会った。それだけで私のこの1杯のジンは甘くて苦いおいしい酒になったのだ。そしてこの男性がたとえブブでなくても、待ち合わせまでの30分、濃厚な煙草を時間をかけて吸えたのだ。私はカウンターに手をかけて立ち上がりながらもう1度彼を見た。おもむろにその男性は口を開いた。
「昔あなたとそっくりな人と毎日デートしていました」
私も言い返す。
「私も昔あなたによく似たひとを大好きでした」
鼻がツンとして声が震えた。その男性の声を聞いた瞬間私は確信したのだった。声。声は変えようがない。その声を自分のものにしたかった、そして私の声は彼には届かなかった。だからもう私は彼を見つめることをせず、店をあとにした。



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