logo #23のブルース ジャスミン・ガール


私の誕生日祝いをやろうと提案してきたのはKのほうからだった。
「もう30才過ぎてるし、そんなことはしなくていいよ」
という私をさえぎって
「もうさ、夜景の見えるレストランとか、ナイト・クラブの貸切とか、騒々しいカラオケ・ボックスとか、沖縄の海を満喫とか、居酒屋で知らないおにいちゃんと乾杯とか、そういうのいっさいやめるお誕生日祝いにしようよ」
Kの提案は、秋川渓谷のせせらぎを聞く、というものだった。
「何それ」
「平日の午前中に行こうよ。子供たちの夏休みは始まっててもお昼までだったら人が少ないと思うんだよね。川へ行こうよ、ねっ?」
「そこに行くことが、私の誕生日祝いなわけ?」
「そう」
私は苦笑した。Kは10代のときからこういう提案をする。彼女の中では何かから何かまでつながっているようだが、私にはその経過が見えないのでいつも彼女の発言が意表をつくように思えてしまう。
しかし不思議とKの行動に付き添って失敗がないのだ。新しく気持ちを切り替えたいとき、古い希望を捨ててしまいたいとき、Kのあとをぼんやり追いながら一緒に笑ってみる。心が開放されるような気持ち。
私はぎゅっと目をつむってその開放感を思い出す。ちょっとだけ味わうのはいいのかもしれない。
「いいよ」
Kはあらかじめ私が同意することを知っていたかのように、ね?と言って笑った。

1週間後に私とKは旧型の日産マーチに乗って秋川渓谷の河川敷に行った。朝9時にそこへ着くとあたりに人は誰もいなかった。
「涼しいねえ」
Kは大きな石から石へと飛び跳ねるように歩いた。車を降りて私もKの後に続いた。
「ねえ、昔の写真ってどうしてる?」
Kがふいに振り返って私に聞く。
「とってある」
「じゃあ、時々見るわけ?」
「見るものもあるけど、見ないものある」
「見ないものは何?」
「昔の彼氏の写真」
「だよねえ」
私は自分のアパートの狭いクローゼットの収納ボックスを思い浮かべた。正確には、どこにいれてあるのか思い出せない。しかし絶対に捨ててはいない。それは自信がある。
「みんな同じ状況なんじゃないかなあ」
私の声がKに届いたかわからない。Kはそのとき、しっと指を口に当て、何か聞こえない?と小声で言った。
「何が」
しっとまたKは声を落として、大きな声を出さないで、とひそひそ言った。
誰もいない夏の始まりの郊外の朝の川原で、何が聞こえるというのよ、私は不意におかしくなった。
Kの神妙な顔つきもおかしい。さっきまで昔の男の写真のゆくえをにやにやと話していたのに、Kの表情は真剣そのものだ。心なしか空が高く見える。大地と大空の距離が遠い。空気は冷たく木々の色は都会の草木よりも緑が深い。川の流れる音と、名前の知らない鳥の鳴き声。橋をゆきかう車のエンジンの音。Kの表情を慮って私は黙ってあたりを見渡し、自然の存在を確認した。
「聞こえたかと思ったのに」
しばらくしてKは静寂を押し破ってそう言った。
「え、何が聞こえたの?」
「声」
「誰の」
「彼の」
「なんで恋人の声が聞こえるのよ、ここで」
「持ってきたから、写真」
「え?」
私は大きめの石を探して座った。Kも私の横に腰を下ろした。
「別れて欲しいって言われちゃった」
「一緒に住んでる彼から?」
うんとKはうなづきながら、ディパックをごそごそと開けて写真を出した。
「初めて見た」
「初めて見せた」
Kの恋人はおだやかそうにKに寄り添って笑っていた。
「なんで彼は別れたいの?」
「私と一緒にいると息がつまるんだって。でもそれは自分のせいであって私のせいじゃないから私が家で我慢しているのを見ると、苦しいんだって。私に悪いと思うから別れたいって」
「そんな一方的な…」
「私はさ、たくさん恋をしてダメになってきたから、今度はがんばろうって思ってた。前に失敗したところを生かして、相手に要求しない、期待しない、自然体でいるってことを心がけてた。でもさ、私がそうやって頑張ってても相手がそんな私を見て息がつまるって言うんだよ。そういうこと言うなんて、私のアラを探してるだけじゃない?私のことを好きじゃないんだよ。私と離れたいんだよ」
一気にまくしたてるKの言葉のひとつひとつに、私は不意に数年前の自分の気持ちを思い出して泣きそうになった。
「わかる?相手に拒絶されて同じ部屋にいることの苦しさ。向こうは勝手に息がつまるだの、別れたいだの言ってて、それをじっと聞かないといけない私の耳と心。ずんずんと心の奥につめたい水が入ってきて、あふれそうになる。でもここであふれ出したら、相手はまた私に水をかけてくるだろうって思って、耳栓をする。でも耳栓をしても彼の言葉がずうっと鳴ってるの。今も聞こえたもん。早くって」
「早く?」
「早く別々の生活をしようって」
Kにどういう言葉をかけていいのかわからなかった。ぽたぽたと涙を流すKの横で私も泣けてきた。
ふたりでまっすぐ川面を見つめながら涙を流した。
「頑張ったのに」
「うん」
「ずっと一緒にいたかったのに」
「うん」
「どうしてなんだろう。どうしてこうなっちゃうんだろう」
バッグからとり出した写真に向かってKはつぶやいていた。恋の始まりの話はあれほど人を華やかにするのに、恋の終わりの話ほど忘れられなくなるのは何故だろう。傷つくためだけに出会ったわけでは決してないのに、人が人と交わると悲しみやあきらめが増えるのは何故だろう。
「さんざんなお誕生日祝いになってごめん」
Kがぽつんと言う。
「気にしないで。置いていこう、その写真。川にちぎって投げるって年でもないでしょ。置いていこう、それ」
「わかった」
私とKはおもむろに立ち上がる。
「置いていくってことは捨てていくってことだよ。生きていくのは捨てるものもないとさ」
「でもきっと捨てても覚えてると思う、私」
「記憶にあるうちはそういうものだと思う。無理に忘れる必要はないと思う。人間の記憶ってさ、そんなにすごいものじゃないよ。とげのあるナイフのような言葉の数々も、すべて頭にたたきこんだとしたって、いつかは忘れるよ」
「そうだね」
Kのほっとしたような表情で、私の涙も乾いてきたことを知る。誕生日。1つ年をとって1つづついらないものと必要なものを取捨選択する日。
「お昼になる前に帰ろう」
私は言った。



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