#22のブルース レインボウ・イン・マイ・ソウル
「ブライアン、結婚したんだって」
友人にふいに昔の恋人の名前を出されて、たじろいだ。
「え?」
「彼、ここのベースを離れたあとテキサス行ったでしょ?あっちで結婚して自分の娘もひきとって、相手も連れ子がいたみたいで、今じゃ4人の子供がいるらしいよ」
私は彼の温厚そうな顔をゆっくりと思い出した。
「それで今幸せなのかな」
「そう聞いてるよ」
「幸せならよかった」
そう言いながら私はぼんやり彼と付き合っていた頃の自分の生活をを思い返していた。
ブライアンは自分よりも10歳も年が下だった。AFのミリタリーで、私の近所の在日米軍基地に勤務していた。大概の男は成熟している大人に見られたいようで、彼も私に年齢のことを冗談でも言われるのを嫌がり、そのせいかヒットチャートにのぼるようなHip-hopミュージックを嫌い、Jazzばかりを聴いていた。時々自分のベースを弾きながら、自分は満たされていない、ということをよく言っていた。
当時私は離婚して自分の息子をひとりで手探りしながら育てていた。彼の言う、満たされない何か、を一緒に考えてあげる余裕もなく、毎日毎日をバタバタとやり過ごしていくのが精一杯だった。彼は穏やかな人だったが、私のいらいらが伝染するとたちまち怒りを爆発させ、部屋から飛び出して行った。電話で怒鳴りあい、一緒に骨休みに行った温泉宿でも喧嘩になり、ドライブ中にも険悪な雰囲気になることがままあった。それでも2人の調子のいいときは、クラブへ行ったりスシを食べに行ったりした。彼は本当はロマンティックだったと思う。仕事中にメールで詩を書いて送ってきてくれたこともあった。
「いいときも悪いときも、僕たちは同じ空の下で同じ木を見上げている」
そんな内容の詩だった。私は照れくさくて、でも嬉しくてその詩を別のフォルダを作って保管していたのだが、彼が仕事でテキサスへ行くことが決まったときに、削除した。もらったメールもジョークも画像も全部。
「どうせ結婚するとかじゃないんだし」
私は友達にそんなふうに嘘ぶいた。
「私はひとりで子供を育てているし、自分の生活でいっぱいいっぱいだから。だから痕跡を残すことはしないの」
たぶん私が彼と別れても泣かないと思った。そんなに長いつきあいではなかったし、何かを約束した仲でもなかった。彼に結婚歴はなかったが、娘がひとりいた。
「娘をひきとりたいんだ」
彼はそんなこともよく言っていた。
「オレの娘とキミの息子とオレたちふたりで、1軒家でも借りたら楽しいだろうな」
彼のそんな話もテキサスに転勤が決まったあとでは、そらぞらしく響いた。
私は自分の離婚経験から、人生に大きな希望を持たないと決めていた。彼の言う4人で住むアイデアも彼にしてみればほんの思いつきの会話であっても、私は耳を固く閉ざし、食卓の風景を想像することはしなかった。彼の転勤先がテキサスの米軍基地である限り、私と彼とは金輪際生涯会うことはないかもしれない。たぶん、ないだろう。そういう相手を恋人に持った場合のことは、私は若いときからよく知っている。そういう恋愛を何度か繰り返してきた。忘れられない思い出は作らない。守れない約束はしない。そうやって苦い経験を新しい夢に変えて結婚をし、そして失敗してまた戻ってきた。若いときよりも、もっともっと足元を救われないようにしなければ。私は身構え、そして取り繕った。
彼は
「最後の日に、さよならは言わないから。そういうの嫌だし」
と以前から言っていた。彼もまた、私と同じように必要以上に相手の将来を考えないようにするといった心積もりもあったのだろう、たとえ何か楽しい想像を一瞬したところで。いよいよ今日の午後の便で発つというときも、私は彼に
「See you!」
と言った。See you、と言ったのだ、あたかも明日も会うような言い方で。彼は笑わなかった。その代わり哀しそうな顔をした。玄関のドアが閉まった。彼が階段を下りる足音が聞こえた。私は全身で彼の足音を聞いた。自分の全神経を集中させて、どんな音も聞き逃さないぞ、といった手合いで。とうとうその音が聞こえなくなったとき、私はどうしようもなくこみ上げてくる涙をぬぐった。ここで喧嘩をした、ここでご飯を食べた、ここで笑った、ここでセックスした、ここで振り向いた、ここで話をした。あとから、あとから思い出がつきあげてきて、涙がぼたぼたと落ちた。側にいて欲しかった。行っちゃうんだね。それを正直に言葉にできなかったことが悔やまれた。言葉にしたからってどうにもならなかった。けれどせめてThank you、そう言って手を振ればよかった。
「大丈夫?」
友人が私の顔を覗き込んだ。
「彼が結婚したってことがショックなの?でもあなただって、再婚したんだから」
ブライアンと別れてほどなく、私は私で現在の夫と再婚をした。再婚するときに夫にはブライアンの話はしてあったが、何が楽しかったかとか、どうして喧嘩をしたのか、とかそんなディテールは喋っていない。それはどこの夫婦でもそうだろう。昔の恋人との思い出を微に入り細に入り話すひとはあまりいない。皆それぞれ自分だけの想いと記憶を持って、別の人生を歩き始める。
「お互いが別れたあと、同じようなタイミングでそれぞれ別のひとと結婚しているのが、不思議な気がして」
私はぼそぼそと言った。
「あなたたち、出会った時期が悪すぎたんだよ。お互いすごく家庭的で、家庭を持って新しい生活をしていきたいってどっかで思ってたのに、意地張ってるうちに離れちゃってさあ」
友人はうんうん、とひとりでうなづいていた。
「そうかもしれない。でもそうじゃないかもしれない」
縁がなかったんだと私は思う。私はたぶん「同じ空の下で同じ木を見上げて」はいなかった。少なくとも私はどこにその木があるのか、わかっていなかった。
「みんな私とブライアンがいつも喧嘩していたから、別れたって私がそれほど傷つかないと思ってたよね」
「………」
「すごく泣いたんだよ、ブライアンが出発した日。自分でもびっくりするくらいに泣けてきて」
「そうなんだ…」
「愛してるとか失いたくないとか、きっとそういう気持ちとは別だったのかもしれないけど、やっぱり側にいて欲しいと思ったの。そうしたら泣けてさ」
「それはやっぱり恋だったと思っていれば?」
「恋、ね」
「そうだよ。恋をして、終わったんだよ」
私には夫がいるけれど、終わった恋を時々思い出してもそれは罪ではない、と思う。
そしてそんな思い出があることも、それも罰にはならない。そう思う。
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