logo #21のブルース 彼女はデリケート


恋人の昔の恋の話を聞くのが好きだと言ったら、友人はやだあ、それと言った。
「悪趣味だよ、それって」
「どうして?彼がどんな恋をしてきたのか気にならないの?」
「そりゃあ気になるけどさあ」
友人は信じられないといった表情を浮かべた。
「聞いたってどうにもならないじゃない、そんな話。そして昔のカノジョと自分を比べたりするわけ?」
「比べはしないよ」
私はそこで反論する。
「誰かと自分を比べたりはしない。でも相手のことを知りたいという欲求が勝る」
「だからそれが不毛なんだって。過去は過去だし、過去あっての今よ。昔の恋に決着つけなきゃ今の恋に負けちゃうでしょ」

友人は断固として、そんな趣味は私にはないわと言い続けていたけれど、私はその悪趣味を相手を見る指針のひとつだと思うとやめられない。そして恋人に
「友人に話したら私がどうかしているというふうに言われてしまったけど、あなたの前の恋の話を聞かせて」
私はそう頼んだ。恋人は、またかよ?このあいだも話をしただろうとあまり取り合ってくれなかった。
「いいじゃない。私、前のカノジョと空港で別れるシーンがすごく好きなのよ」
私は自分の恋人のひとなつこい顔を眺めながら、その瞳からカノジョが搭乗ゲートに乗り込むときに見せた後姿が視界にはいった瞬間に、はからずも流れてしまったという彼の涙を想像した。
僕はそれまで誰かと離れる時に、こんなに辛いという感情が湧かなかったんだ。恋人は私の熱意に根負けして話し出した。

それは泉のように急に湧き出てきた感情だったんだ。辛いというか、胸の奥まで誰かが両手でぐぐーっと押しつづけているような圧迫感が襲ってきて、息苦しくて冷や汗が流れ、そして瞼から熱い液体がどくどくと流れてきたんだ。涙ってあったかいのな。顔の表面が青ざめて冷たくなっているから余計にそう感じるんだろうけどさ。泣こうと思って泣けてきたわけじゃなかったから、それが涙だと気がついたときには、そのあったかい液体は流れ出てしまっていた。ああ、こういうのが泣くということなんだなと僕は思った。無意識の領域を言葉で説明ができたフロイトは素晴らしいと思った。無意識下で、人間の感情というものはコントロールできないからね。
僕はそのカノジョのことは本当に心から愛していたんだ。カノジョもそうだったと思う。カノジョが飛行機に乗って自分の実家へ帰るだけなのに、僕は何もかも最後という気がしてならなかった。カノジョは僕のものすごく寂しそうな顔が瞼に焼き付いている、とそのあと手紙に書いてきた。僕はわかっていたんだ。ほんの小さなさよならが、そのまま永遠のさよならになる、そんなこともあるってことを。
生きているとさ、何かにひっぱられるように、そのとき持っている自分の力を100%出し切ってみても、その100%が50%にも満たないくらい役に立たない100%なときがある。そういうときは何をやってもうまくいかないし、やればやるほど裏目に出る。その渦潮が自分から遠く離れていくのを黙って見守っていないと、何度でもその流れにのってしまって、どこかへ漂流してしまう。そしてほうほうのていで陸まで戻ってきたときには疲労困憊で、自分の力が及ばなかったことを知る。どんなに幸せなひとにも、こういうことはある。10代でその流れを知るひともいれば死への床で察知するひともいる。とにかく、世の中にはそういう川の流れと言うものがあって僕はカノジョが飛行機に搭乗するときは、その流れの真っ只中にいたんだ。あのとき、僕はカノジョに側にいてほしかった。実家へ戻るのは明日にしてくれないか、とも頼んでみた。カノジョにその川の流れのフローを説明したけど、カノジョは笑って相手にしなかった。あなた、わがままよ、そういうのって。大体チケットだってやっと入手できたのよ。どうせ帰ってくるんだからいいじゃない、とカノジョはそう言った。しかし、結局カノジョは帰ってくることはなかったし、僕もカノジョを迎えに行くことはなかった。僕とカノジョは4年間一緒に暮らして空港で別れた。お互いの人生のヒストリーには、そう書けるだろう。そしてそれ以上でもそれ以下でもないんだろう。

恋人が一気に話をし、そして最後の「だろう」という言葉を吐き出したとき、私は自分の頭にこのストーリーを記憶させた。自分の恋人が終わったあとまで大事にしているその気持ちを汲み取ってあげたくて、私は何も言わなかった。友人は私を悪趣味だと言ったけれど、本当の悪趣味というのはこういう話を聞いたあとで、「こうすればよかったんじゃない?」という合いの手を入れることだと思う。すでに終わっている恋の話にIfを持ち出すほど、私は愚かではないということだ。
「ありがとう」
私は恋人に心をこめてそう言った。恋人はああ、と言っただけだった。こんな素敵な恋をしてきてくれてありがとうと私は思った。恋に対する感情を過剰でもなく、かといって自虐的でもなく捉えている。その恋のおかげで恋人はまた生きていくことができたのだろう。素敵な恋の記憶があるひとは、時々引き出しの中からそれを取り出したりすることもある。しかし取り出してただじっとそれを見ているだけではなくて、出したものをたたみ、そしてしまいながら、また新しい記憶を上に乗せていくことができる。恋人の過去の恋愛話を聞くのも悪くない、と思うのはこんなときだ。



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