logo #19のブルース


友人が私に会いたいと電話してきたのは夜の11時頃だった。
「今から行ってもいい?そんなに長居はしないから」
息子も夫も寝ているので、少しだけワインを飲む程度ならいいよ、と私は答えた。
友人は、だったらいただき物だけれどチーズがあるから持って行く、と言い30分もしないうちに彼女は家に来た。

「どうしたの?」 彼女の蒼白な顔色を見て私はそう聞かずにはいられなかった。
「のんびりワインなんか飲みながら話す用件ではないこと?」
「ううん、そんなことない。もう終わったことだから。話せば何かすっきりすることだから」
友人は乱暴にジャケットを脱ぎ捨て、こんな時間にごめんねと言った。うちのダンナも娘も寝入ったから、言い訳のように下を向いた。
「先月さ、ダンナのお父様が亡くなったのよ」
私は相槌をうった。こういう言葉に対する大仰なわざとらしいリアクションは今ふさわしくないと思った。
「前にも言ったけど、ダンナのご両親は15年前に離婚しているのね。離婚後はお母様がうちのダンナとダンナのお兄さんをひきとって、女手ひとつで息子たちを育ててきたの」
彼女は一気にそこまでいうと、ちょっと飲むわねとワインを口にし、ふーっとため息をついた。
「女手ひとつでふたりの息子を育てるっていうのは大変よ。今はシングル・マザーも多いけど私達が小さかったときって、大きな偏見があったじゃない?この国は。しかもお母様は自分の母親、つまりおばあちゃんね、彼女の面倒まで見ないといけなかったのよ。自分の母親と息子ふたり。お母様は大型免許をとって、トラックの運転手をしながら生計をたててきたの」
「その話は前にさわりだけ、聞いたかもしれない」
私は少しだけ口を挟んだ。
「うん、確か話したと思う。重複しててごめんね。でも今全部一気に話しちゃいたいのよ」
わかった、私は彼女の持ってきたチーズを口に入れながらうなずいた。
「でもね、離婚してもご両親はすごく仲良しで、歩いて2分くらいのところにお父様が住んでいたのよ。毎朝仕事に行く前にお母様のところへ寄って、お母様が作ったランチ・ボックス、おもにサンドウィッチとかそんなものだけれど、それを持って仕事に行くの。ダンナのお父様はアメリカ人でしょう?ミリタリーをリタイアしてからもずっと基地の中で仕事していたようだったけど、やっぱり異国暮らしが長いと人恋しいっていうのもあったんじゃないかな、私が思うに。だから離婚はしたけれど変則的ではあっても、家庭とかそういうあったかいものに憧れるというか。だってディナーも毎晩一緒だったっていうんだもん、うちのダンナによると」
「でも子供が小さいときに離婚をして、子供たちをお母様が引き取ったっていうんだから、離婚の理由はお父様に非があったんじゃないの?」
「…そうね、確かに」
私の言葉に彼女は一瞬目を宙に泳がせた。
「で、先を聞かせて」
「うん。そういうご両親の仲は息子たちふたりが結婚して所帯を持っても変わらなくて、そろそろ再婚しようかということになっていたらしいのよ。なんだかちょっと変な話だけれど」
「それで?」
「来月再婚しようっていうことになって書類の準備を進めていたのね。その矢先にお父様心臓発作で倒れてそれっきり…。そのまま亡くなったの」
「えっ」
「毎朝ランチを取りにくるのに来ないから、お母様がおかしいと思ってお父様のアパートに行って様子を見に行ったのよ。そうしたらそこで倒れていたって」
「……」
「あっけないものよね、人の死なんて。ご両親本当に来月再婚するつもりだったのよ。私から見てもすごく仲のよいご両親でね、どうして離婚なんかしたんだろう?どうしてこんな手間のかかる生活をしているんだろう?ってずっと思っていたの。だから再婚しようかと思うって話は私まで嬉しかったくらいだったんだもの」
「……」
「でね、悲しんでもいられないからお母様がアパートの整理とか始めて、あとはお父様の職場にも備品が残っているからそれを引き取りに行ったの。でもお父様基地の中で働いていらしたでしょ?」
「何か問題あるの?」
「だってアメリカでは身内が取りに行かないと引き渡してくれないのよ。お母様は身内ではないでしょう?法的には。お父様と結婚して子供までいるのに、身内じゃないのよ」
「……」
「こんな話ある?亡くなる直前まで毎朝ランチをとりに来て、家族でディナーをとっていたのよ? 身内じゃないなんて。お母様そのとき初めて泣いたのよ。自分の人生はこのひとと、このひとの間に生まれた子供たちがいての毎日だったのにって。もっと早く籍だけ入れておけばよかったって」
「……」
「お父様は日本が大好きで、20年もこの国に住んでいて、死んだってアメリカには帰らないってよくおっしゃっていたらしいんだけど、縁をきったはずの遠い身内が皮肉にもお父様の職場の備品を取りにくることになったの。お母様は本当につらそうだったわ。うちのダンナもね、トラックの運転手までやって自分たちを育ててきたたくましい母親が、ただの弱い女だったっていう生々しさみたいなもの見せられて、落胆しちゃてね・・・なんだか私は何をどうしていいかわからなったわ」
「そうか…」
私は静かにそう言い返した。
「でもね、お父様のお骨は分骨してもらえたのよ。だからお母様と息子たちで日本にお墓を持てることになって、それはすごくよかった」
「うん」
「でもさ、この話どう思う?」
彼女はようやく一息ついたようだった。あら、このチーズやっぱりおいしかったわね、などと言っている。
「どう思うって言われても…哀しいなあって思う」
私は言葉を選びながら慎重に答えた。
「哀しいって、どっちが?お父様?それともお母様?」
「誰が哀しいのではなくて、生きていることが」
「そうね。誰が哀しいっていうのは卑怯だよね」
「うん。世の中ってさ、こういう話はきっとたくさんあるんだよ。そのことを想うだけで涙が出てきそうな話って」
「あるわね。それは」
「たぶんそれはほんの小さなことをするかしないかだけで、結果が違ってしまうこと」
「籍をいれるかいれないか、とか?」
「それだけじゃないよ。そうしたら離婚しなければよかった、このひとと出会わなければよかった、というふうに自分の人生をどんどん溯ってああすればよかった、こうだったらよかったのに、とか思うことになってしまう。そうじゃなくて」
「じゃなくて?」
「哀しいのは生きていること事体それの繰り返しだってことだよ。それを目の前につきつけられたから哀しくなるんだと思う。誰も間違っていないよ」
「お父様が亡くなって、お母様はお父様の身内でもなんでもないという事実を目の前につきつけられたってこと?でもそんなこと初めからわかっているじゃないの」
「そうよ。私が言いたいのはそれだよ。初めから離婚したことも、離婚してからの変則的な家族としての生活も、お母様はわかっていたはずだよ。身内じゃないっていわれて泣いてしまったお母様の気持ち、わからないわけではないけど、そのスタイルは誰からも強要されたり命令されたりするものではなかったはずでしょう?だったら、そのスタイルが亡くなったお父様とお母様が共に幸せに生きてきた道だったんだから、しかたないと思う。お父様の備品を受け取れなかった悔しさ、誰からも身内扱いされなかった悲しみ、もわかるけれど問題の本質はそれでも幸せだったっていう記憶だよ。記録や物じゃない。人々の記憶。それがあればこれからも生きていける」
私のやや強めの語気にもう友人は何も言わなかった。ただ
「この話、夜遅いと思ったけど、どうしても話したかったの。話せてよかった」
とそう言った。そろそろ帰らないと娘が夜泣きしても困るわ、という彼女のジャケットを渡しながら
「約束の橋、っていうの覚えてて」
唐突に私が言った。
「約束の橋、ね」
わかったわ、彼女はただそう繰り返した。



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