logo #18のブルース


日曜日の昼下がり、私は息子を連れて自宅の近所の公園に行った。休日の公園で一番混み合うのがお昼前だ。小さな子供たちはお昼ご飯を食べたあとお昼寝をしなければならないし、親も早い時間に遊ばせた方が、自分たちもそのあとの予定をたてやすいからだと思う。
私はそういう午前中に公園に行くことは極力避けている。知らない人との当たり障りのない会話が苦手だし、公園といえども静かであるなら静かなほうが好きだからだ。私が息子を連れていく時間帯は、私と同じような考えを持つ親が多いのか、今日もベンチでは文庫本を読んでいたり、ぼおっとタバコを吸っているおかあさんたちが多かった。
「お砂場行ってくるね〜」
息子は砂場に向って一目散に走り始めた。私はご多分にもれずベンチに腰掛け、読みかけのアーヴィングの小説を取り出した。ちょっと眩しいかなと思いベンチの端に座り直すと
「すいません、ありがとうございます」
と言われ顔を上げた。やはり私と同じく彼女も文庫本を手にしていた。私が日の光の眩しさに席をずらしたのを、彼女のために譲ったものと思ったらしかった。
「あ、いえいえ」
面倒なのでそのまま相槌をうつと、
「いつも日曜にはここに?」
と彼女は人なつっこそうな笑みを浮かべた。
「いや、そんなには来ません。いい母親でもないんで」
私がそう言うと彼女は前方を指差して言った。
「そんなことないですよ。いいお子さんじゃないですか」
見ると息子は彼女の娘と思われる女の子と、砂場で城のようなものを作っていた。
「私来週には日本を離れるんで、ちょっと今日はあちこち日本の公園を回っているんですよ。最後に娘への日本の公園の思い出を作ってあげようかな、なんて思って」
「はあ…」
「あ、読書の途中にすいません」
彼女はそう言いながら、だからといって自分の話しをやめようとはしなかった。
「なんかね、日本を離れるとなると、急に寂しくなっちゃって」
「そんなもんですよね」
私は彼女に聞こえないような小さなため息をつき、文庫本を閉じた。そんな私の横顔を見て彼女は
「あなた、若い頃には綺麗な肌してたでしょ」
と突然言った。
「え?そんなことないですよ」
「いやあ、そうよ。私わかるもの」
「まあ、たまには言われましたけどね、はは」
何故自分はこんな会話をしているのだろうと思いながら私は答えていた。
「私ね、肌にはうるさいのよ」
「あ、そういうお仕事か何か?」
「ううん。私ね、生まれたときから右半分にものすごいアザがあったのね」
「……」
「今はもうわからないでしょ?」
「はあ」
「だってレーザーを当てた大手術をしたから」
彼女は目を細めてそう言った。何事もなかったかのように。
「手術、ですか?」
私が聞き返すと彼女は笑った。
「今は日本の整形外科でもやってくれるんじゃないかしら?私は15年前だったから、アメリカでやったのよ」
私は彼女の話しを黙って聞いた。
「生まれたときから本当にコンプレックスだったのよ。女のコで顔にアザがあるってものすごくダメージよね。私ね、だから高校卒業するときも、このまま一生独身でもいいや、って思い込んでいたくらいだったのよ。だってアメリカに行けば、そんなアザがすぐ消えるなんてことも全然知らなかったし、アザはアザで、ずっと残るものだと思っていたからね。でもみんなそうよね?昔はみんなそう思っていたわよねえ?」
彼女が私に同意を求めたので、私はゆっくり頷いた。私の視界には息子と彼女の娘が、まだ砂の城を作ることに没頭しているのが見えた。
「アザはあったけど、自分のコンプレックスを見せないように誰よりも仕事を一生懸命やって、誰よりも明るくふるまってた。誰にも自分の気持ちなんかわからないって思ってたし、そういう同情かうのも嫌だったのね。今の主人と知り合ったときも、私はアザがあるからまさか彼が本気で自分と結婚なんか考えるわけないと思っていたもの」
そこで彼女は呼吸を整えた。
「主人からプロポーズされたときもね、彼は私のアザがかわいそうだと思って結婚なんて言葉を言ってるんじゃないかしらって思ったわ。何をするにも、私は自分の顔のアザのことを真っ先に考えずにはいられなかった。いいことも悪いことも全部アザのせいにしていたのよね。それは自分でもわかっていた。だからこそ、このアザがなければどんなにいいだろうとも思っていた。そんなときに主人がアメリカでのレーザーの手術の話しを持ってきてくれて…。私は思ったわ。このアザが消えるなら、アザが消えた状態で何かを考えてみたいなって。主人のことも、自分の性格のことも。何もかもアザのせいにする自分は、根っから卑屈な人間かもしれないでしょ?アザがあろうとなかろうと、いつも何かのせいにしながら生きているそういう人間かもしれないでしょ?だって多いじゃない、そういうひと」
彼女は私に笑いかけた。私はどういうリアクションをしていいものかわからず、顔の表情が硬くなってしまった。昔顔にアザがあったという彼女は、早口で自分の過去を語る。見ず知らずの私に自分の過去を語る。
「だから私は手術を受けることを決意したの。そのとき私はいくつかのことを自分に課した。渡航はひとりですること。手術が成功しようがしまいが、そのときは何のせいにもしないこと。そして手術後に彼との結婚をきちんと考えること。そういうことをね、自分の中で箇条書きしたの。太平洋を渡る機上の中で、私はずうっとあるひとの音楽を聴いてね、自分で自分を鼓舞するように、目をつむり、彼の歌を聞き入った。私も頑張るよっていう素直な気持ちが不思議に湧いてくるアーティストだったんだよね、彼。サノモトハルっていうんだけど、あなた知ってるかしら?」
「いちお」
私は余計なことを言わずに彼女の話しを聞き取る大きな耳になっていた。
「サノモトハルの中でも、彼の初期のベスト盤ね、それを当時恋人だった彼が繰り返し薦めるもんで、それをずっと聴いていたの。ほら、恋をしているときって、相手の言葉は宗教でしょ?そしてそのアルバムのタイトルが私にぴったりだったわ、『No Damage』だもの。ね?私のためにあるような気がしたのよ。そうして私はひとりでアメリカに行き、手術を受け、アザがまったくなくなり生まれて初めてアザのない自分の顔をひっさげて日本に戻り、そして彼と結婚して子供を産んだの。それが私が肌にはうるさいって最初にあなたに言ったことの、ディテール」
私は、彼女のレーザーを当てて直したという部分を凝視した。しかし確かにアザの痕跡は、見当たらなかった。
「もうね、言い方が大袈裟に聞こえるかもしれないけど、革命よ、私にとっては。アザのない人生、アザのない生活なんて、夢のようなの!!」
彼女はそう言い放った。息子たちは砂場から、滑り台に移動したようで、砂場にはポツンと中途半端な砂の城だけがとり残されていた。
「夢よ、夢」
彼女はそう言いながらもどこか遠くを見つめていた。
「でも、やっぱり夢は夢なのよね。アザのない人生なんてあるわけないのよ、所詮。人間って結局見えるところにアザがあるか、見えないところにアザがあるか、そのどっちかだっていうことが最近わかった。私は確かに誰にでも見える部分に顔のアザがあったし、そういうところで卑屈になって心に大きなコンプレックスを抱えていたわ。でもそのかわり、見えないところにアザはなかったわ。心に大きなアザを持ってるひとがいるなんて、そんなことも思わなかったし」
「……」
「主人よ。あの人は私に勇気を与えてくれたけど、その分絶望も残してくれたわ。私が娘を産んだときにね、周囲にはこう言ってたのよ。『あのバケものが子供を産む』って。『どうしたらいいですか』ってお医者さんにも相談していたらしいわ。『生まれてくる子供にもアザは、うつりますか?』だって。うつる、なんてそういうことを平気で言えるひとだったのよ、あのひと」
「……」
「もうね、娘を産んだらすぐ離婚しちゃった、へへ。顔のアザをとったのも半分以上彼のためっていう気持ちもあったけれどね」
息子が遠くで私の名を呼び始めた。そろそろ行かないといけない。
「どうして」
「え?」
「どうしてアメリカに行くんですか?」
私はようやくかすれた声でそう聞いた。
「仕事があるから」
「本当に?」
「……」
「本当に仕事でアメリカに行くんですか?娘さんも連れて?仕事で来週アメリカに行くひとが公園を回り歩いているなんておかしいじゃないですか。思い出つくりなんて、無理矢理作りあげるものなんかじゃないでしょ?思い出って」
「……」
「あなたの話しすごくよくわかります。私が言うと安っぽい同情になるかもしれないけれど、あなたの辛さなんかもわかります。でも、さっきNo Damageって言ったじゃないですか。人間って、どんなひとにもアザがあるならば、その場所は関係ないでしょ?だったら今度は、あなたが誰かをアザのコンプレックスから開放してあげることもできるんじゃないんですか?それに、私は顔にアザはないけれど、きっとあなたの言うように見えないところにアザはあります。私の心の中にはアザがいっぱいある。蒼いのも、赤いのも。でもそれが生きて行くっていうことでもあるんじゃないでしょうか?アザのない人生なんて、ないですよ、やっぱり。絶対に早まったことなんかしないで、娘さんを大事にして、生き抜いて下さいね」
私は何かこう突き上げるような気持ちになって、大きな声で言った。そしてベンチから立ち上がり、振り返って会釈をした。見知らぬひとの、身の上話し。それなのに私は滑り台から嬉しそうに降りてくる息子を両手で受け止めながら、どういうわけか泣けてきた。ベンチのほうをもう1度振り返る勇気はなかった。ただ、私は息子を抱きしめ、涙でぼやけてくる瞼をきつく閉じた。



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