logo #13のブルース


「雨の匂いがするね」
朝、娘を起こさないようにそっと雨戸を開けたつもりだったが、子供用のベッドの中から顔を出さずに彼女は言った。
「でもまだ雨は降ってないぞ」
僕がそう言うと、今は降っていなくても今日は降ると思うよ、また娘はそう言った。

妻が家を出てからもう半年になる。僕は彼女が別れたいと言ったとき、さほど真剣に受け止めていなかった。だから
「出ていきたいなら、子供を置いていけよ。君には渡さないからな」
とそう言った。妻が娘を置いてまで家を出ていくとは思わなかった。母親と子供の因縁というものは、男親の僕が思うよりずっと深いと思ったからだ。
「あなたのそういうところが嫌なのよ。人間の感情ってね、みんなあなたが思うようにはいかないのよ。男だから、とか女だから、とか母親だから子供は絶対に置いていかないとか、そんなことケースバイケースじゃないの。あなたっていつも自分の狭い範囲でしか、物事を考えないんだわ」
妻はうんざりする様子でそう言った。

そのとき僕は初めて事態は、僕が思っているより逼迫していることに遅まきながら気がついた。僕をさげすむような憐れむような目で見ている妻が、まるで他人のように思えた。結婚して10年たっていた。でも僕の目の前のキッチン・カウンターに肘をついている女性は、僕たちの手垢のついた歩いてきた歴史をいとおしむ彼女ではなく、いかにもうっとおしそうな表情で、その場の空気をやり過ごしていた。ああ、と思ったときはもう遅かったのだ。ふたりの間を流れているつめたい空間が、僕をぞっとさせた。だめになる気運みたいなものがそこにはあった。八方手を尽くす前に僕にはもうわかった。今僕を疎ましく思っている妻でも、僕たちには一応僕たちなりの輝いていた時代だってあったのだ。僕は彼女を知っている。彼女をずいぶん長い間みてきた。だからわかった。もうじき物語の終焉が近づいていることを。

酒を飲んで家に戻ると、僕は酔っ払って「昔のおまえはよかったなあ」などと妻に言ったことがある。
「よくさ、夜中にオレの中古のゴルフに乗ってさ、意味もなく246の方へ行ったよな。クルマ降りて、ほら青山通りって今より人がいなかっただろ。おまえ変な歩き方してるから『なんだ、それ』つうと、『モンロー・ウォークよ!わからない?』なんて言ってさ。あの歌なんだっけ?よく佐野のコンサートふたりで行って、歌ってたやつ。Do what you like?そうだ、そんなタイトルだった。本当に楽しかったよな、あの頃は」

今思うと酔っ払いの僕の戯言を横で聞いていた妻は、何を考えていたんだろうと思う。顔を合わせば何かしら言い争いをしていたこの数年間だった。酒に酔って昔話ばかり何度も何度も繰り返す夫に何を見ていたんだろう。時がたち、緑が深まる木々もあれば、色褪せていく草木もある。僕は目に見えない絆を深めていったつもりだったのだが、彼女にとっては溝が深くなっていっただけなのだろう。すんでしまったことを悔やんでも仕方がない。僕たちはどちらも悪くはなかった。こういうことはよくあることだ。ただ僕だけが、凍りついた大きな塊が目の前を通りすぎていくのを、黙って見過ごしていただけだ。

「ほら、もう起きないと学校に遅れるぞ」
僕はまだ曇り空をみながら娘をせかした。
「ねえ、雨降ると思わない?」
娘はまたそんなことを言った。
「雨が降る時ってね、はっぱが泣くんだよ。だから空も哀しくて泣くの。それが雨が降る時なの」
ふうん、その話は学校で先生にきいたのか?僕はカーテンを閉めた。
「ううん。ママから聞いた。ママはね、その話しをしながらいつも泣いてたんだよ。だから私は雨が好きじゃないの。だから余計に雨が降る時の匂いがわかると、私も哀しくなる」
僕は目をつぶって、妻が涙をこぼしながら娘に話しをしている姿を想った。どんなことをしても、妻と娘を引き離すんじゃなかった。僕は、妻にも娘にも心に陰を落とすようなことをしてしまったのだ。それも無意識のうちに、勝手に。
「パパ?」
生意気そうな瞳を娘が向けた。今からでも遅くない、そういうことをひとつひとつ、やっていくしかないのだな。
「一緒に朝メシ食うか?」
「うん」
雨がぽつぽつと降り始めた。




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