logo #10のブルース


待ち合わせの時間までまだ30分もあるが、女はその店の扉を開けた。夕方の6時前ということもあり、店の中にはカウンターのマスターを除けば、誰もいなかった。
「いらっしゃいませ」
聞こえるか聞こえないかくらいのちょうど良い声でマスターが言った。おいしい酒を飲ませてくれるバーは、どんな店も必要以上の声をあげないものだ。
女はカウンターの奥へ進み高めのスツールに腰をかけ、
「シン・トニックをください」
と言った。女の好きなクラリネットのジャズが流れていた。
そっと差し出されたジン・トニックを女はゆっくり口に流し込み、店内に飾られているヤマガタ・ヒロミチの絵を少し眺めたあと、思い切ってマスターに声をかけた。
「あの、すいません」
「はい?」
グラスをタオルで拭いていた寡黙そうなマスターは、親切そうな顔を上げた。
「このお店、10年前もここで営業してましたよね?」
「え?はい・・・。10年前来てくださったんですか?」
「来ました。ちょうど今と同じくらいの梅雨どきに」
「それはありがとうございます」
「そのとき、当時お付き合いしていたボーイフレンドとここで別れたんです」
「・・・・・」
「すいません、いきなりこんなお話して」
「僕は別にいいんですけど・・・」
「じゃあ、もう少しお話しても構わない?」
「どうぞ」
女はそっとまたジンを口に含んだ。
「その彼とここで待ち合わせしているんです」
「・・・・ええと、お席を別に用意しておいたほうがいいですか?」
「いえ、ここで結構です。でも・・・」
「?」
「彼が来たら、私少し怒ってしまうかもしれません。怒りたいことがあるんです」
「・・・・・」
「彼にはどうしてもここで言いたかったんです。もう10年もたってしまったんですけど」
「そういうことはありますよ」
「え?そういうことって?怒ることですか?」
「そうです。僕にもそういうことありましたよ」
「最近ですか?」
「う〜ん、正確な日にちは思い出せないけれども。でも僕も昔つきあっていた彼女を呼び出して、昔の自分の気持ちを後になって伝えたんですよ」
「彼女はなんて言ってました?」
「笑ってましたよ」
「・・・・・」
「女性ってそうじゃないですか?現在と過去がはっきり分かれているというかね」
「でも私は彼が来ても笑えないわ」
「・・・・・」
「笑うどころか、怒るつもりで今日来たの。文句を言いたいんです」
「あの、お客さん」
親切そうなマスターは、グラスを持つ手を止め、すいませんちょっといいですか?と言って煙草を取り出し、本当は営業中は禁煙なんだけどお客さんの話聞いてたらなんだか吸いたくなってしまって、と照れた。私のことは気にしないでください、私も愛煙家ですから、女は笑った。
「お客さんは、そのボーイフレンドのことが今でも好きなんですか?」
マスターはゆっくりと煙草を吐き出しながら女に聞いた。
「好き・・・そうですね、忘れられないというか」
「だったら、10年ぶりに会うボーイフレンドに怒っちゃいけませんよ」
「え?」
「男は10年ぶりに会う女の怒った顔を見たくてここに来るわけじゃない」
「・・・・・」
「女の笑った顔が見たくてここに来る」
「そう思いますか?」
「ええ、間違いなく」
女は何か考え事をしながら時計を見た。待ち合わせの時間にそろそろなろうとしていた。
「マスター」
「はい?」
「私10年前ってまだ21才だったんです」
「いいですね、若くて」
「ええ、若かったけど、どうしてもそのボーイフレンドと結婚したかった。もちろん周囲は 反対しましたよ、若すぎるって。でも当時は若すぎるからまだ結婚は早いとか言われるのが 許せなくて・・・」
「許せないものが多いのが若さの特権ですよ」
「今ならそれもわかるんですけど、当時はそんな余裕もなくて・・・」
「それでここでボーイフレンドと喧嘩したんですか?」
マスターは感じの良い笑顔を見せた。女は話を続けた。
「喧嘩じゃないんです、正確に言うと。ここで一緒にお酒を飲んで、私が先にここを出て、ボーイフレンドのアパートに先に帰ったんです」
「彼はここでもう1杯飲んでいたんだ?」
「ええもう1杯って言ってました」
「それで?」
「それで永久に別れたんです、私達」
「・・・・・」
「彼はここでもう1杯飲んだあと、大通りの交差点で自動車事故にあいました」
「・・・・・」
「それが10年前の今日。どうしてあのとき一緒にこのお店を出なかったのか、悔やんでも悔やみきれなくて・・・」
女は涙ぐんだ。マスターは何も言わず、女に新しいジンを差し出した。すいません、女はハンカチ を握りながら、ジンに口をつけた。
「10年って長いようで短かったです。毎年今日になると、ああ何年たったって思うんですけど人間ってだんだん記憶が薄れていくじゃないですか。この頃は最後の彼の笑顔も思い出せなくなってきて・・・。あの日以来、このお店に来るとどうしてもいろんな想いが交差するからずっと来れなかったんですけど、でもいつまでも彼の亡霊にひきづられてはいけないような気がして、10年という区切りもあって、今日は決心してここに来たんです」
「じゃあ待ち合わせっていうのは・・・」
「嘘じゃないです。ただ生きてる人間と待ち合わせをしているのではなくて・・・」
ふぅっとマスターは深いため息をついた。
「お客さん、待ち合わせは生きている人間じゃないとだめですよ。生きていない人間と待ち合わせをしたら、永久にこっちの世界には帰って来れないですよ」
「わかってます。だから今日は確かめたかったんです」
「え?何を?」
「私の彼が確かにあのときここにいた、という何かを」
「・・・・・」
「そして彼に会えたら、なんで勝手にそっちに逝ってしまったのか文句を言いたかった。私には何も残らなかった、彼の残骸が。そういうもの全部探しにきたんです」
「で、それは、見つかったんですか?」
「はい。マスターにお話していたら、蘇ってきました、あの日のことが。もっと辛い作業になると思っていたんですけど、案外すっきりしちゃいました」
女はにっこり笑った。
「10年間いろんなこと考えて生きてきました。あの、『So Young』って歌知ってます?」
「いや僕は知らない」
「リフレインの部分が『Yes you need somebody to love』ってあるんですけど」
「いいですね」
「この歌大好きで。彼もすごく好きだったんですよ」
そうですか。マスターが煙草を消したところで店の扉が開き、女と同じくらいの年齢の男女が腕を組んで入ってきた。いらっしゃいませ。マスターはまた聞こえるか聞こえないかくらいのちょうど良い声を出した。その男女が端のカウンターに座ったときに、女は店を出て行った。
彼女はもう泣いてはいなかった。




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