まだ雪解けには程遠いこの時期、娘の手をひきながら、札幌大通り公園を歩いていると、どういうわけかいつも僕は東京に住んでいた十数年前を思い出す。
若い頃に誰もがそんなことを思うように、僕も好きな音楽の道に進めたら、と思い大学生活をおくるためという名目で上京した。上京したのは3月で、東京は北海道に比べたら寒さは厳しくないが、時折散らつくぼたん雪のせいで、路面がぐしゃぐしゃとアイスシャーベットのように溶けていた。
上京した頃のあの何かに急き立てられるような高揚感と季節の肌寒さが、雪祭りも終わったこの街の喧騒後の静寂さと少しクロスするのだろう。そうしていつも僕はぼんやりと随分昔の自分を思い出すのだった。現実には音楽で食べていく生活が、そうやすやすと手に入るわけではないことを僕は知っていた。
けれど大学生でいられる4年間が、自分に与えられたささやかな夢の期限のような気がしていた。
僕はドラムを叩くことに夢中になった。キャンバスに行ったり行かなかったりしながら、あちこちのライブハウスで演奏した。そんなことを繰り返していくうち、その生活が少しも嫌ではない自分に気が付いた。別にプロにならなくたって。僕は思った。それがどうだというんだ。こういう生活を続けている奴なんかゴマンといる。大体プロなんてなれる奴は本当に一握りで、その上ものすごい強運の持ち主なんだ。そう思うことで僕は満足した、あの日彼女に出逢うまで。彼女は僕と同じ年だったが、短期大学の学生だったので、出逢った時にはすでに小さな音楽プロダクションで就職することが内定していた。髪をポニーテールにして赤いリボンをしていた。赤は私の象徴なの。そんなことをいつも言っていた。赤のリボンをしていると、自分が気弱になった時、自身を奮い立たせることができるんだ。僕が世の中をまっすぐ見ることをやめたのに、彼女はまだそんなことを言っていた。
「昨日も佐野元春の夢をみたの」
「それで」
「なんか、また生きるヒントをくれたんだけど・・・」
「けど?」
「夢の中だから。うまく説明できない」
彼女は口をつぐんだ。そして僕を見て「もう一度同じヒントをもらいたいから、また同じ夢をさがしたい、朝がくるまで」リボンを揺らしてにっこり笑った。いつも抽象的なことを言ってふわふわ生きているような女だった。それが若さのせいか、彼女の性格なのか、それとも僕があまり興味のない佐野ナントカの影響なのか、僕には理解できなかった。
その上、僕が自分の活動にのめりこむあまり仲間同士の対立で友人関係が難しくなっている頃に、彼女の方はどんどん新しい友人を増やしていった。そしてそのうち佐野ナントカのファンクラブの活動をサポートするようにまでなった。
「ねえ、いいでしょう?今日はミーティングがあるから」
「勝手にしろ」
デートもままならない時、僕はそう怒鳴った。よく似合っていた髪のリボンもとうにはずして、いつの頃か彼女は伏目がちで僕と話すようになった。何があんなに気に入らなかったのか。僕はうまくいかないことをすべて彼女のせいにした。
出逢った時には自分の方が現実に即して生きているはずだったのに、いつの間にか彼女の方が世の中をうまく渡って生きているように見えた。彼女の話す、そのアーティストの話や生き方や将来などが、今の自分にはない華やかさを帯びて見えた。僕は苛立っていた。無神経な女だと思った。
わからない奴には教えてやらなきゃ。僕はそう思って、ある晩いつもの様子でインタビューの経過を語る彼女を平手打ちした。そうして僕たちの短い恋は終わった。その後僕はなんとか単位をとって卒業し、札幌に戻った。
あんなに情熱を傾けたライブ活動も、卒業間近の慌しさの中でなんとなく終わりを迎えた。僕は彼女のことは自分の中で封印した。僕は知っていた。彼女を深く傷つけたことを。東京を去る時、一度会って詫びをいれようかと考えたが、そんな勇気もなくて結局逃げるように故郷に帰った。
小さな建築事務所に勤め始め、もう13年たった。結婚し、娘もできた。いつしか自分の東京での学生生活は忘れるようになってきた。しかし彼女のことは、いつまでも心の中にしこりを残した。
封印したはずなのに。彼女のことは封印したはずなのに、頬を抑えて涙をこらえていた彼女の姿が今でも鮮明に思い出すことができる。彼女は覚えているのだろうか。理不尽な恋人の冷たい仕打ちを。一緒に歩いていた娘がバランスを崩して転びそうになる。娘は驚いた声をあげて、僕を見た。
不意に僕は胸がいっぱいになった。娘の表情には僕のすべてが投影されていて、奇妙な郷愁にとらわれたのだ。朝がくるまで、夢をさがしたいと言っていた彼女が、あのときどれほど純粋であったかは今となってはわからないが、僕は何も平手で彼女の世界を叩くことはなかった。あの平手打ちは、彼女の透明な湖に泥を投げ、土足で侵入し、そして何も言わずに出て行った。たぶんそうだ。どこにいるのかわからないけれど、どこかにいるであろう彼女を、僕はそろそろ探し始めなくてはいけない時期に来ているんだろう。どのくらい時間がかかるかわからないけれど、いつかやってくるその朝がくるまで。