logo J.G.バラード 長編小説レビュー




THE WIND FROM NOWHERE
J. G. Ballard
1961


狂風世界
創元SF文庫 宇野利泰・訳
JGBの記念すべき処女作である。徐々に速度を上げた風が世界中を駆けめぐり、地上の建物はどんな堅牢なものでも瓦解を余儀なくされる。都市は崩壊し、人々は烈風を避けて地下に生活の場を求めるが、風は地表の土砂を巻き上げ、川や海の水分も吹き上げて地上を荒れ地に変えて行く。そうした絶望的な状況の中で過酷な運命に翻弄される何人かの主人公の群像劇が本作である。

こうした筋立て自体はその後の「破滅三部作」と共通しているようにも思われる。しかし、本作がそれらの作品と決定的に異なっているのは、こうした危機に直面した人間の内面の変容や崩壊が描かれることなく、小説全体がハリウッド的なパニック・ドラマの視点にとどまっていることである。メイトランド、マーシャル、ラニヨンといった登場人物の造形は比較的はっきりしており、それぞれ魅力的に描かれてもいるが、ここでの自然の突然の変心は彼らの心のありようとは必ずしも連動していない。

突然風が吹き始めた理由について科学的な説明が一切ない点など、旧来の「空想科学小説」から逸脱して行くJGBの傾向は既に現れているし、メイトランドの妻が廃墟になった高層住宅に一人居残り、助けに赴いたメイトランドの眼前であっさりと狂風にさらわれて落下して行くシーンなどはJGBの面目躍如といった感はある(自然の驚異と内面の連動性という意味ではこの妻が唯一JGB的な人物像の先駆である)。しかしながら、終盤に至ってハードゥーンなる人物の築いたピラミッドが唐突に現れるところや、理由も示されないままなぜか風が収まって行くことを示唆するラストなど、小説的に未熟な点や予定調和に流れる点もあり、JGBにして最初期にはそうした「活劇SF」の枠に捕らわれざるを得なかったのが興味深い。

典型的なJGBワールドを楽しむには適さない作品だが、その出発点としての価値は失われないと言うべきだろう。




THE DROWNED WORLD
J. G. Ballard
1962


沈んだ世界
創元SF文庫 峰岸久・訳
太陽活動の活発化によって地球の電離層が破壊され、世界中の気温が上昇、極地の万年氷が融け始めたことで海面が上昇し、世界の海岸線はすっかりその形を変えた。温帯にあったかつての都市の多くはすっかり水浸しになり、人類の多くは極地近くに移住した。容赦なく降り注ぐ宇宙線によって生物の突然変異は頻繁になり、高温多湿な気候に適応して世界はジャングル化しつつあった。そんな世界で、かつてロンドンであった沼地に取り残された科学者、ロバート・ケランズを中心にこの物語は展開する。

ここではJGBはそのような気候変動上の説明を最初の数章で簡単に語るだけだ。ここで語られる多くは、そのような地球上の生物相の逆転によって呼び覚まされる我々自身の中の太古の記憶とそれに抗う術もなく飲み込まれて行く登場人物たちの内面の変容であり、生存可能な極地へ撤退するという冷静な判断よりも、迫り来るジャングル化の波の中で、朦朧とする高温の世界で夢うつつのような凝縮した時間を過ごすことを選ばずにいられない、内面にある未知の領域への傾きである。

地球の高温下とか海面の上昇とかはJGBにとってはただの舞台装置に過ぎない。そして、ここで描かれる人物は、困難な状況に当たってそれに前向きに取り組み、それを打開しようと努力する主体的、啓蒙的な人物像ではない。これは前作「狂風世界」と大きく異なる点だ。ケランズをはじめ、ここに登場する人物の多くは自然の変容に際してそれを受け容れ、それに呼応する自分自身の変化に身を委ねようとする。ここにおいてJGBは、活劇SFのステロタイプな人間描写から、SF的風景を起点にしてこそ描き得る「内的宇宙(インナースペース)」の奥行きを獲得したのだと言っていい。

もうひとつ特筆しておかなければならないのは、水の底に沈んだロンドンのプラネタリウムに潜水服を着けて潜って行くシーンの美しさと不気味さだ。そのイメージ喚起の強力さ、ホースから送られてくる空気が止まる場面の息苦しさ、この現実にはあり得ない光景のリアルさは、小説家としてのJGBの実力の確かさを示している。

後半、美術品をサルベージする海賊の出現によってやや活劇的に流れる憾みもあるが、そこでも人物造形は巧みで物語を損なうことはない。今日に至るJGBワールドの実質的なスタートとなった作品である。




THE DROUGHT
J. G. Ballard
1964


旱魃世界
創元SF文庫 山田和子・訳
前作が熱帯化し水の底に沈んだ世界なら、本作は海面を覆った分子膜のために水分が蒸発しなくなり、雨の降らなくなった世界を舞台にしている。

ここでも世界を襲う未曾有の乾燥の原因についても、序盤で通り一遍の説明が行われるだけだ。登場人物たちはその原因を探ろうとする訳でもなく、また、その災厄を克服して元通りの世界と取り戻そうと努力する訳でもない。物語は、雨が降らず、水が極端な貴重品になるとともに、旧来の政治秩序までが崩壊し、海辺に多くの人が寄り集まって海水を蒸留してわずかな飲み水を得ている「災厄後」の世界を所与の前提として、そこで生きる人たちの陰鬱な群像を描いている。

文庫本のうたい文句には「奇才バラードが描く自然と人間との闘争」とあるが、この本のどこを読んでも自然との「闘争」などありはしない。主人公のランサム医師を初めとして、ここに登場する人たちは皆、大旱魃という未曾有の驚異に対して何か積極的、主体的な行動を起こす訳ではないからだ。彼らはただ、わずかな水をめぐって相争い、殺し合うだけだ。そこには小説的な高揚はない。感動も、浄化もない。息苦しくなるような灼熱の乾いた世界で、いびつな人間の姿が描かれて行く。

「沈んだ世界」の登場人物が、熱帯化する世界の様相に呼応して遺伝子の中の記憶を呼び起こされ、退化する世界に抗い難く惹かれて行くように、ここでの登場人物たちもまた自ら、海岸でわずかな水を奪い合う生活を捨て、砂漠への旅に出て行く。そこには水脈を探しに行くという名分はあるものの、その成果の疑わしい試みよりは、むしろ彼らが自らの内側に広がる乾いた砂漠へと踏み出すことの方に主眼があるようにすら思われる。

干上がった川のモチーフは「奇跡の大河」に、閉じた世界の中で神性をすら感じさせる白痴の造形は「コンクリート・アイランド」や「クラッシュ」に引き継がれて行く。読むことで神経の一部がすり減るようなタフな小説であり、読んでも全然楽しくはないが、それでもここに僕たちを引きつける何かがあるのだとすれば、それはここに描かれた干上がった世界、砂漠と化した世界のイメージが僕たちの中にある砂漠とどこかでつながっているからだろう。

*  *  *

この作品は当初アメリカで『The Burning World』と題して発刊され、これを底本とした『燃える世界』(中村保男・訳)が創元SF文庫に収められていた。しかし1965年に本国イギリスで出版されるに際して章立てが変更されるなど大きく手が入れられ、『The Drought』と改題された事情がある。2021年にこのイギリス版を底本とした『旱魃世界』が同じ創元SF文庫から出版されるに至り、ここではそれを訳書として挙げているが、レビュー自体は旧版となる『燃える世界』を読んで書かれたものであることを付記しておく。




THE CRYSTAL WORLD
J. G. Ballard
1966


結晶世界
創元SF文庫 中村保男・訳
仮に「沈んだ世界」からこの「結晶世界」までを「終末三部作」と呼ぶのなら、この「結晶世界」こそはその中でもこの時期のバラードの嗜好、特徴を最も如実に表しているものだということができる。そしてそれは同時に、この時期のバラードの作品の中でも最も美しく、またそれゆえ最も優れた作品となっていると言ってもいいだろう。

主人公のサンダース医師がアフリカの街で目にしたものは、あらゆるものを水晶のような結晶に変える美しくも不気味な自然現象だった。そこでは森の岩や木々はおろか、人間までもが氷のような、水晶のような結晶と化してしまうのだ。

ここでもまた、その現象に対する科学的な説明はほとんど行われない。唯一与えられる説明は「時間と空間の結婚」、我々の「残り時間」が枯渇しかけており、すべての物質は水晶化して時間のない世界へ自閉しようとしているというのだ。これはもはや古典的な意味でのSFではない。与えられた説明は科学的であるというより文学的であり、ここで書かれているのもまた科学活劇ではなく、むしろそのような「時間の墓場」に近づこうとしている人間の心の中に必然的に訪れる変容のドラマである。

その意味でこの作品は「沈んだ世界」や「燃える世界」が指し示した方向をさらに推し進め純化したものであると同時に、甘美な滅びのロマンティシズムを「すべてが結晶化する世界」という秀逸な着想を得ることによって、目もくらむような喚起力で描ききった傑作である。自らが結晶化することはとりもなおさず死を意味するのにもかかわらず、結晶化した森に宿命的に惹かれて行く登場人物たち。結晶化することは現世での死を意味する一方で、別の形での不死をもたらしてくれるものなのだろうか。様式化された死へのある種の憧れはこの後もバラードの小説世界の底流をなす大きなモメントとなって行く。

主人公は最後に結晶化の嵐が吹き荒れる森へと戻って行く。卓越した着想と高い小説的展開力が見事に溶け合ったバラードの代表作の一つであり、発表から40年経った現在でもまったく色あせることのないSFの金字塔である。




THE CRASH
J. G. Ballard
1973


クラッシュ
創元SF文庫 柳下毅一郎・訳
交通事故によって人が傷を負う瞬間、それは機械と肉体の婚姻である。壊れ、歪み、ひしゃげた機械部品と、柔らかく傷つきやすい肉体、生暖かい血やその他の体液が一つになって織りなすタペストリーが、僕たちに新しい性欲の扉を開くのだ。

交通事故で自動車が壊れる瞬間に立ち会ったことがあるだろうか。高速で突進してきた自動車が、壁に、電柱に、別の自動車に激突する瞬間、決して聞き逃すことのできない金属音やガラスの砕ける音が暴力的に僕たちを振り向かせるだろう。それは甘美な調べだ。僕たちは足を止め、見慣れない格好に変形した機械を眉をひそめながら覗きこむ。それはある種の性的な昂揚に似ている。古典的な暴力とセックスの組合せに、自動車という現代の最も象徴的な機械が新しい可能性を示す。

初期作品で、本当に探索されるべきなのは外的宇宙ではなく内的宇宙であると看破したバラードが、内的宇宙の新しい広がりを見出したのは、もはやSF的な設定や自然の驚異すら必要としない、ごくありふれた生活風景の中だった。生身の身体を抱いた金属製の機械が僕たちに求める交合のことをバラードは指摘している。僕たちの意識が、壊れた機械の尖った先端に、こぼれた油に見出すエロチックな夢をバラードは白日の下に引きずり出してみせるのだ。

物語が進むに連れ、自動車へのオブセッションは亢進して行く。「コンクリートの斜線を滑空していく美しい自動車の記憶が、以前は鬱陶しいだけだった渋滞と車の列を、限りなく光り輝く行列、目に見えない空への上昇ランプを辛抱強く待ち受ける行列に変えた」。自らの名を付けた語り手の意識はもはや自在に渋滞をすら作り出せるかのようだ。内的意識と外的風景の混濁というバラードの最も根源的なテーマがここにも立ち現れている。

これはイモラルなポルノ小説であり、現代の機械文明に対する危険思想である。しかし、およそ文学の世界にあってモラリスティックであること、安全であることに何の価値があるだろう。そのようなすべての「安心」に不穏な疑問を呈することこそが文学の存在価値だとしたら、本作は間違いなく最も重要な文学の達成の一つだ。




CONCRETE ISLAND
J. G. Ballard
1974


コンクリート・アイランド
太田出版 大和田始/國領昭彦・訳
主人公のロバート・メイトランドはある日、自動車で走行中にハンドルを誤って高速道路を飛び出してしまう。ケガは大したことがなかったが、彼が投げ出された場所は、高速道路に囲まれたインターチェンジの中の三角地帯であった。築堤と金網に閉ざされたその小さな世界は、最初の脱出への試みで足を傷めたメイトランドには決して抜け出すことのできない都会の中の孤島だった。

絶望的な脱出を試みるうち、メイトランドはその孤島にだれか自分以外の者が潜んでいることに気づく。情緒不安定な若い女、精神薄弱の初老のサーカス芸人とメイトランドの奇妙な駆け引きが始まる。

この物語の圧巻は、メイトランドが酔ったサーカス芸人に放尿して彼を侮辱し、彼らを支配するのに成功するシーンだろう。そのようにしてメイトランドはこの「島」の支配権を手に入れようとする。そして、彼の支配が芸人に、女に、島全体に及ぶにしたがって、脱出への具体的な欲求は次第に後退して行く。

この構造、災厄の裏側に潜む陶酔への傾きは初期の三部作と通底している。しかし、そこにあるのはもはや荒唐無稽な自然災害ではない。それはいつでも起こり得る交通事故という日常的なアクシデントの副産物だ。都会の中の盲点だ。オフィス街の植え込みで死んだまま何日も気づかれない浮浪者のように、我々の都市生活の中でそれぞれの無関心がぽっかりと口を開く異空間で繰り広げられる退行への甘美な誘惑だ。

読み進むに連れ、読者はメイトランドがこの島を脱出できないのは、彼が決して本心から脱出を願ってはいないからだということに気づくだろう。脱出が成功すれば彼はもはや脱出することができなくなる。この倒錯したパラドックスこそがこの物語の核心だ。

「ある意味で彼が自分に課した任務は無意味なものとなっていた。もはや島をぬけだしたいという切実な欲求はもっておらず、そのことだけでも、彼が島に対する支配を確立したことの証しであった」

芸人が死に、女が島を出て行ってメイトランドは一人になる。そして僕はメイトランドがこの島を出て行くことはないと悟る。そう、それはテクノロジーに囲まれた騒々しい現代社会に進んで捕らわれている僕たちの姿そのままなのだ。




HI-RISE
J. G. Ballard
1975


ハイ・ライズ
創元SF文庫 村上博基・訳
ロンドン近郊の倉庫街を再開発して新しく建設された高層マンションでは、住戸の階層による新しい階級が発生し始めていた。上層階の住人は下層階の住人を蔑み、下層階の住人は上層階の住人に反感と憎悪を抱く。その摩擦は次第に露わなものとなって行き、ついに暴力による衝突へと発展して行く。

それなりの所得があり、現代的な専門職に就いている知的で理性的な「個」の担い手であるはずの人たちが、少しずつ退化し始め、原始的な部族対立にも似た襲撃と殺戮の応酬を繰り返すようになって行くさまを、バラードは中層階に住むラングという医大の教授、下層階に住むワイルダーというテレビカメラマン、そして最上層に住みこのマンションを設計したロイヤルという登場人物を通して仮借なく描ききってみせる。

マンションは荒廃し、至るところゴミだらけになり、糞尿はそこいらじゅうに散乱する。しかし住人たちはむしろその不衛生で前近代的な生活の中に自閉するようになって行く。襲撃には銃器は使われず、外部からの干渉を受けないように扉を閉ざしたマンションの奥深くで、陰惨な殺し合いが繰り返される。

しかし、そうしたデタラメな暴力とセックスによってマンションでの生活は活気づいて行く。それは後に「コカイン・ナイト」や「スーパー・カンヌ」で描かれた世界とも似ている。また、物語の終盤、もはや原始的な部族抗争すら崩壊し、ひとりひとりが孤立して荒れ果てたマンションの部屋に閉じこもるようになったとき、最も秩序だち意気軒昂なのが女性ばかりの集団であることは「楽園への疾走」を思い起こさせもする。

現代社会での生活において巧みに覆い隠されている暴力やセックスへのやみくもな衝動を、高層住宅での階層間抗争という一見突拍子もない舞台装置を使って解放する手法は、「クラッシュ」や「コンクリート・アイランド」で提示した方法論と通底している。ここで顕著なのは、その道具立ては荒唐無稽なのに、そこに笑い飛ばすことのできない現実感があることだ。高層住宅という究極の孤絶した世界で、あらゆる世間での些事から解放された現代の自由な魂が向かうところ、求めるものは、結局のところ近代的なモラルからの解放、自由な暴力とセックス、自分の肉体の欲求への直接的な回帰であった。

ロイヤルが高層住宅を登高(ハイ・ライズ)したワイルダーに殺され、そのワイルダーが団結した女性のグループに殺される一方で、ラングが二人の女性を囲いながら静かに生き延びることの示唆される結末は、バラードの階級観を見るようで興味深い。バラードの傑作の一つだといえよう。




THE UNLIMITED DREAM COMPANY
J. G. Ballard
1979


夢幻会社
創元SF文庫 増田まもる・訳
奇妙な物語である。主人公のブレイクは何をやってもうまく行かない人生の敗残者であり性格破綻者だが、あるとき空を飛ぶ夢に取り憑かれて空港の格納庫からセスナ機を盗み出し、離陸させた揚げ句、ロンドン近郊の街シェパトンにそれを墜落させてしまう。だがその事故から奇跡的な生還を遂げたとき、ブレイクには自由に空を飛ぶ力、病気を治癒する力、街を熱帯のジャングルに変え、どこからか夥しい数の鳥たちを呼び寄せる力を身につけていたのである。

この作品で顕著なのは、タイトルにもあるとおり(原題は「限りない夢の仲間」)、夢と現実の混濁である。実はブレイクは飛行機が墜落したときにそのコックピットに閉じこめられたまま死んでおり、その後の物語はブレイクがその死から奇跡的な復活したことを起点として語られているが、読みようによってはこれらはすべてブレイクの頭の中だけで起こったできごと(つまりは夢)であるようにも思われる。あるいはブレイクは死ぬことによって街の人々の夢の中の世界に入りこむことができるようになったのだとも言えるかもしれない。

現実と夢の世界の隔壁がかくも薄く、便宜的であるということをバラードは繰り返し語りかける。ブレイクはついに街の住人たちを飛行させ、現実の世界から解放する。ここにおいて現実とは決して確固たるものでも明白なものでもなくなり、夢との境界は曖昧になる。夢の世界でこそ我々は真に解放されるのであり、その意味において真の現実はむしろ夢の中に(あるいは狂人の頭の中に)こそあるのだとバラードは力説するのだ。

熱帯の景色や飛行へのオブセッション、捕らわれた街から決して脱出することのできない状況など、これまでのバラード作品で見慣れた道具立てがここでも使われる。そして開拓されるべきフロンティアは我々の内側にあること、そしてそれが外側の世界の変容と深いところで共振していることが改めて(あるいはむしろより明確に)主張される。「おれはこの死せる生き物に深い憐れみをおぼえた。それはおれの魂が解放されたあとに残された物質的存在のすべてであった」。

幾重にも入り組んだ読み方のできる作品であり、宗教小説であると同時にドラッグ・ノベルでもある。真面目にストーリーを追うよりも、めくるめくような極彩色の小説世界とスピード感あふれる展開に身を任せた方が、この小説の重層性が分かるのかもしれない。




HELLO AMERICA
J. G. Ballard
1981


ハロー、アメリカ
創元SF文庫 南山宏・訳
2114年、石油資源が枯渇し、放棄されて無人の大陸となったアメリカに派遣された探検隊に密航者として潜りこんだウェインは、憧れのニューヨークに上陸する。ベーリング海峡に建設されたダムのためにすっかり気候の変わった東海岸は砂漠と化していた。ウェインらの一行は原因不明の放射性爆発の原因を確かめるため、大陸を西へと横断する旅に出発した。

バラードにしては珍しく伝統的なSFの舞台装置と作法に則った長編小説である。西部を目指す主人公のウェインという名前は当然ジョン・ウェインからいただいたものだろうし、彼が熱帯雨林の街に変わり果てたラスベガスで出会う狂った「アメリカ大統領」の名前はチャールズ・マンソン。悪意を持って「SF小説」をコケにしたとしか思えない作品だが、ここにおけるバラードの意図は僕にはよく分からない。

20世紀後半のアメリカに異常な愛着を抱くウェインや、隊員を見捨ててひとりアメリカの内奥へ踏み込んで行くスタイナー船長の人物造形にはいつものバラード節が顔をのぞかせるが、スタイナーは途中で反省し、窮地に陥ったウェインを助けに戻ってくるし、最後はみんなで「太陽飛行機」に乗って核爆弾から逃げ出すというハッピーエンドが用意されている。難解でシリアスで時としてシュールですらあるバラードの他の作品とは明らかに異質である。

ウェイン、マンソン、そして歴代大統領のロボットが巻き起こすドタバタ(ディックのシミュラクラを思い起こさせる)、あるいはJFKがベルリン封鎖の際に演説した「私は一個のベルリン市民だ(Ich bin ein Berliner)」というフレーズの繰り返し。これらはみんな、バラードがアメリカという国に対して抱いているある種の憧憬とか愛憎とかオブセッションを表しているのだろうか。僕はどうもこれがアメリカといういう国への、あるいはSFというジャンルへのバラードの意地悪な意趣返しにしか見えないのである。

たぶん腹を抱えて笑いながら読むのが正しいんじゃないかと思われるバラードとしては異色の長編。




EMPIRE OF THE SUN
J. G. Ballard
1984


太陽の帝国
創元SF文庫 高橋和久・訳
1930年に上海で生まれ第二次世界大戦の終戦までをそこで過ごしたバラードの体験をベースにした自伝的小説。太平洋戦争の開始とともに上海は日本軍に占領され、敵国人である11歳の少年ジムは両親とはぐれて捕虜収容所に収監される。それを起点に、収容所での生活や、第二次世界大戦の終結によりジムが収容所から解放され、曲折を経て両親と再会するまでを描いている。

実際にはバラードは両親とともに収容所に入れられていたらしいが、収容所での体験を「純化」し、そこで彼が否応なく刷り込まれた世界観のようなものを正確に、生き生きと描き出すには、ジムを寄る辺のない存在にし、すべての出来ごとの「意味」を一人で背負うしかない状況に置くことが必要だったのだろう。

最初に一読した時の記憶では、収容所とはいえそれなりに余裕のある生活だったような印象だったが、今回再読すると、特に日本の敗色が濃厚となった1945年には収容所の生活も相当窮乏しており、ジムの生活も飢えや衛生状態の悪さ、医薬品の不足などで、かなり死と隣り合わせの限界に近い状況として描かれている。

ジムの周りでは捕虜も、日本兵も、撃墜された米軍機のパイロットも、そして本来ならその土地の人である中国人たちもバタバタと倒れ、殺され、次々と死んで行く。死体はそこらじゅうにあり、そこでは生と死との距離は限りなく近い。ジムは自分が、いや誰もが実は既に死んでいるのではないかとすら考えている。

言うまでもなく、こうした世界観、死生観は、この後バラードの作品を決定づけて行くものである。原因はさまざまであっても、バラードの描き出す物語の主人公が、いずれも自ら進んで生と死の混じり合った境界領域(辺土)に足を踏み入れ、その薄明の中に最も強烈な生の意味を知るような宿命的な傾向を持つのは、おそらくこの時期に形成されたバラード自身のそうした傾向のせいだ。

その意味でこの作品は、見かけはバラードの他の作品とはいささか趣を異にする「普通小説」でありしかも第二次世界大戦下の上海という特殊な状況を背景にしたリアリズム小説であるが、そこに描き出されているものは間違いなくバラードの他の「SF小説」と通底し、共鳴し合っているし、むしろこの作品こそバラードのすべての作品の最も根底にあるものだとすら言っていい。

水のないプールや打ち捨てられた廃屋、飛行機や飛翔することへの異常なまでの執着、飢え、病むことによって変容する肉体への興味と仮借ない描写。バラードの作品の見慣れた風景はすべてここにあったのであり、そしてそれらはまた我々の何不自由ない情報資本主義のすぐ裏側にも常に存在しているもので、その様相は些細なきっかけで容易に遷移するものだということをバラードはこの作品で書こうとしたのに違いない。




THE DAY OF CREATION
J. G. Ballard
1987


奇跡の大河
新潮文庫 浅倉久志・訳
中央アフリカの奥地に赴任した医師マロリーは、ある時、地中に埋もれた大木の根を掘り起こしたことで地下水脈を噴出させ、サハラ砂漠に巨大な川を出現させた。自らが生み出したその川を殺すため、マロリーはゲリラの少女兵であるヌーンとともに水源を求めて川を遡り始める。

ここでも繰り返される主題は夢と現実の混濁である。アフリカの奥地、砂漠とそこを流れる川、その恵みで少しずつ緑化される流域の景色といった舞台装置は初期の破滅三部作を思い起こさせるし、栄養失調でやせ衰えながらあくまで水源を求めて航行を続けるマロリーの姿はバラードの作品に特有の破滅に魅入られた主人公の系譜に連なるが、ここで最も重要なのは、サハラ砂漠を横切って流れる大河が、果たして本当に存在するものなのか、あるいはマロリーの熱病に浮かされた頭が作り出した幻なのかということに尽きるのだ。

物語の終盤、この川の水源にたどり着いたマロリーは、川が本当に存在することを確信するが、それすらも読者には素直に信じ難い。我々にとってはこの小説自体がそのような両義性を持った存在だからだ。むしろ最後にこれが「夢落ち」だと明かされないことが、この小説の重層性を逆に裏書きしていると言ってもいいだろう。これは本当にサハラ砂漠に出現した川の物語かもしれない。しかし同時に、これはマロリーが自殺の代用として妄想の中で作り出した川を傷つけ、殺そうとする神経症的な物語でもあり得るのであり、その混淆、その重層性がこの小説の本質なのではないかと思う。

加えて、浅倉久志が「解説」の中で引用しているバラード自身の言葉にもあるように、カメラを携えてチャリティのためにやって来るテレビ・プロデューサー、サンガーの存在がこの物語をさらに複雑にしている。サンガーが示すステロタイプなアフリカのイメージを原住民の子であるヌーンが嬉々として受け入れる虚実の逆転もまた、この作品の重層的な構造を支えているからだ。サンガーのカメラを通して見る景色こそが本当の景色であり、現実は真に迫ったテレビ映画を撮影するための書き割りに過ぎないというオブセッションが、この物語を貫くもう一つの視点を提供している。

いささか難解であり、またそこで描かれる物語もかなり陰惨で陰鬱なものなので、読み通すには少々忍耐が必要だが、初期の作品と90年代以降の作品をつなぐ重要な位置を占める小説だと言うことができるだろう。




RUNNING WILD
J. G. Ballard
1988


殺す
創元SF文庫 山田順子・訳
前作「奇跡の大河」からわずか1年のインターバルで発表された作品で、分量的にも他の長編よりは明らかに短く、中編小説と言ってもいいだろう。ロンドン郊外に造成された高級住宅地で、その地区に住む32人の大人全員が殺され、13人の子供たちが忽然と姿を消した。事件の真相を究明するために招かれた精神分析医のクレヴィルは、やがてだれもが認めようとしない奇妙な結論にたどり着く。

世間が認めているように、何者かが大人たちを虐殺し、子供たちを連れ去ったのではなく、子供たちが大人たちを殺した後、どこかに姿を消したのだ。そう考えればすべての説明がつく。そしてその仮説を裏づける痕跡が次第に明らかになって行く。子供たちは、ビデオカメラで外界から守られ、社会的な地位の高い裕福な専門職の両親の大きな愛情を受けていた。「いい子」でいるしかない閉じたコミュニティの中で、子供たちは少しずつ取り返しのつかない鬱屈を抱え始めていたのだ。

この物語はミステリ調で進行する。事件は既に起こっており、謎が提示され、主人公がそれを解いて行く。だが、これは純然たる意味でのミステリではない。謎そのものの答えは比較的容易に想像がついてしまう(特にバラードのファンならば)し、謎解きの手順が鮮やかだという訳でもない。そんなことはこちらも期待していない。むしろ、ここで読まれるべきなのは、子供たちがなぜ、そしてどのように、自分たちの親を皆殺しにしなければならない場所まで自分たちを追いこんでいったのかということだ。

「監視カメラやめじろおしのレクリエーション・スケジュールのせいで、子どもたちは自宅に閉じこめられた囚人も同然だったのだ」。「あらゆる自己表現を否定され、両親の無限の忍耐によって、最大のわがままといえる衝動をも封じこめられ、子どもたちはほめられる行動しかできない、という終わりのない円の中に閉じこめられてしまった」。「全体的に見れば正気で健全な生活の中で、狂気だけが自由だったのだ」。

清潔で安全ですべてが行き届いたコミュニティの中で正気を保ち、生き長らえるためには、逆にデタラメな暴力やセックスが重要な意味を持つというパラドックス(本書にはセックスは出てこないが)。この作品には、「テクノロジカル・ランドスケープ三部作」から既にその萌芽が見られたバラードの思想が、最も無防備で、最も純粋な形のまま描かれている。

作品としては答えを急ぎすぎた印象があり、また、着想もバラードにしては理解しやすいものだが、その分、核心が直接読者の手に委ねられる近さがある。バラード世界への入口としては意外に入りやすい作品かもしれない。




THE KINDNESS OF WOMEN
J. G. Ballard
1991


女たちのやさしさ
岩波書店 高橋和久・訳
一応『太陽の帝国』の続編ということになっているのだが、「訳者あとがき」にもある通り、語りは一人称だし、冒頭の部分は『太陽の帝国』と時期的にもかぶっている。タイトル通り「女性遍歴」をモチーフに書かれたひとつの独立した自伝的小説と考えるべきもの。

もちろんここに書かれたすべてが事実という訳ではなく、より効果的に表現するための「仕掛け」はあるだろうが、この物語全体がバラードの実体験と深く結びつき、バラードが彼自身の生をどう受け止めているか、それがどうであって欲しかったと考えているかということのリアルなステートメントであることは間違いないだろう。

印象的なのは、バラードの世界観の根底に上海での生々しい戦争体験があるということだ。『太陽の帝国』ではそれがまだ幼い少年であったバラードにどう強く刷りこまれたかということが丁寧に書きこまれていたが、この作品では、それが長じてからも彼の行動を規定していたことが分かる。

バラードはおそらく、平和で穏やかなイギリスでの生活において、上海での体験に比肩できるような強烈な生の実感を求め続けたのではなかったか。それ故彼は、自分を取り巻く世界ではなく、彼自身の精神の内奥へと降り立ち、そこに息づく異形のものや血なまぐさいものの中に手がかりを求めたのではないだろうか。

『クラッシュ』や『残虐行為展覧会』に顕著に見られたケネディ暗殺や交通事故への傾倒が、彼自身がよりリアルな感情への探求を続け、現実世界の中にそれを見出そうとする中で必然的にたどり着いたひとつの里程標であったことも分かる。バラードはあるいは、自分の中に息づく危うい傾向を小説として汲み出すことで、精神的な平衡を保っていたのかもしれない。彼を現実につなぎとめていたモメントを、彼と関わった女性たちに仮託して描いたのがこの作品なのではないだろうか。

終盤、『太陽の帝国』がスピルバーグによって映画化された時に撮影所を訪ねたり、そのプレミアムに招かれたりして、少年時代の記憶が強制的に映像化されて眼前に提示された時の描写は壮絶であるとともに、バラードにとってそれがある種の救済であったことも示唆される。

上海での強烈な体験に規定された「あらかじめ失われた世界」と戦後のイギリスでの「今ここにある常識人としての生活」の二重写し、ギャップが彼の執筆の最も基本的なダイナモであったとするなら、それはこの時に統合されたのか。それは彼が身を切るようにして『太陽の帝国』を書いたことの報酬であったのかもしれない。

バラードのメイン・ストリームの作品群を好む立場からは異質な作品だが、『太陽の帝国』と同様、そこにはそれらの作品の背後にいる一人の人間の呻吟がリアルに写し取られている。重要な作品だ。




RUSHING TO PARADISE
J. G. Ballard
1994


楽園への疾走
創元SF文庫 増田まもる・訳
「殺す」のあと、自伝的作品である「女たちのやさしさ」を挟んで1994年に発表された長編。「アホウドリを救え」というスローガンの下に南太平洋に浮かぶフランスの核実験場サン・エスプリ島に上陸した16歳の少年ニールはそこでフランス軍の兵士に足を撃たれる。だがそのニュースのおかげで彼らの運動は一躍注目を浴び、サン・エスプリ島はやがて希少動物のサンクチュアリとして彼らに解放されることとなった。しかし、運動の主導者であるドクター・バーバラは次第に異常性を露わにし始める。

ドクター・バーバラはかつて自分の担当する患者を安楽死させたとして訴追された40代の女性医師である。ニールは彼女に抗い難い魅力を感じ、運動そのものよりは彼女に付き従って南海の孤島に赴くのである。環境保護運動に見えた彼らのグループの活動はいつの間にか変質し、ドクター・バーバラは男性を殺し始める。

「自然保護区がほんとうはなんのためにあるのか考えてみて。(中略)鳥のためなんかじゃない――アホウドリは世界中にいくらでもいるわ。(中略)絶滅の危機に瀕しているのはわたしたち。(中略)そうよ! わたしたち女よ!」

最も若いニールだけを「種付け役」とする以外、すべての男性たちはドクター・バーバラによって殺され、ニール自身もまた、彼より若い少年の登場によってコミュニティを追われる。だが、この極端な女性中心主義そのものはここでの主要なテーマではない。バラードが描きたいのはおそらく、ある集団が孤絶した環境の中で一人のエキセントリックな人物に導かれて異常な信条を奉ずるカルトにたやすく変化して行くプロセスそのものだったのではないだろうか。

ドクター・バーバラが初めから女性のための「保護区」を目指していたのかどうかは明確には描かれていないが、彼女はおそらく何であれ日常を激しく異化するものを求めていただけなのではないかと僕には思われる。安楽死であれ、アホウドリであれ、あるいは女性「保護」であれ。彼女にはそのエスカレーションのプロセスこそが重要であり、その妥協を許さない歪んだストイシズムだけが彼女を活気づけていたのだ。

ニールもまた、核実験の終末的な光景に魅せられている。次第に異常化して行くコミュニティを冷静に観察しながらも、そこから決して逃げ出そうとしないニールの心理はこの小説の重要なモメントを象徴している。

ある種の異常性によって活性化されるコミュニティという視点からは、この期間の他の作品に確実に連なるが、描写は陰惨で読み通すのは体力が必要だ。




COCAINE NIGHTS
J. G. Ballard
1996


コカイン・ナイト
新潮文庫 山田和子・訳
南スペインのコスタ・デル・ソルに建設されたリゾート地、エストレージャ・デ・マル。現役を引退したイギリス人が余生を過ごすその街のスポーツ・クラブでマネージャを務めていたフランクは、放火殺人の疑いでスペイン警察に逮捕されている。フランクの兄であるチャールズ・プレンティスが、弟の嫌疑を晴らすため、ジブラルタルに降り立つところからこの物語は始まる。

だが、5人を焼き殺した火災の真実を追い求めるチャールズが目にしたものは、罪を自認し対話を拒否するフランクと、エストレージャ・デ・マルを覆う奇妙な一体感だった。やがてチャールズは事件の鍵を握る人物、ボビー・クロフォードに出会う。彼こそは沈滞するコロニーを活気づかせる原動力であり、エストレージャ・デ・マルを一つにまとめ上げている張本人であった。

チャールズは次第にクロフォードの手法を理解し始める。そしてクロフォードに惹かれ、彼の「活動」に巻きこまれ始める。クロフォードがコロニーを活気づかせる手法、それは犯罪だった。彼は死んだように半醒半睡の状態にあった引退者達のコロニーに、盗み、レイプ、売春、放火といった犯罪やドラッグを持ちこみ、それによって住人たちを目覚めさせたのだ。

「残念なことだが、今では、私たちの精神をかき立てるものは犯罪しかない。私たちは犯罪という“別世界”――あらゆることが可能な異世界に魅惑される」とクロフォードは言う。チャールズは半信半疑ながらもクロフォードと行動を共にするうち、その理論に知らず知らず深くコミットしてしまう。そして、フランクが罪を負おうとしている放火殺人は、罪を共有することによってエストレージャ・デ・マルの覚醒をそのまま生かし続けるための儀式だったことを知る。それは罪のシンジケートであり、それによってエストレージャ・デ・マルはもはやクロフォードなしでもその活気を自ら再生産し続けることができるというのだ。

死んだような日常を異化し、生への欲求を目覚めさせるには犯罪や暴力が必要なのだというヴィジョンはこれまでバラードが繰り返し描いてきたことのストレートな延長線上にある。ここでは物語はミステリーの形式を取り、フランクが罪を自認する火災の真相を兄のチャールズが解き明かすという筋立てをなぞって行く。しかしそこで本当に語られているのは、言うまでもないことだが、放火犯がだれかということではなく、「罪のシンジケート」こそがコミュニティを生かしているという単純な事実に他ならない。

そしてそれは、南スペインの架空のリゾート地でだけ起こっていることではない。僕たちの住むこの世界、この国、この街もそのような罪のシンジケートによって固く結束し、それをガソリンにして走り続けているということなのだ。

語り口はオーソドックスで、何も知らない読者がミステリーと間違って手に取っても十分楽しめる作品である。しかし、バラードがこの物語に隠した迷宮のような人間の深層心理への入口を見つけなければ、この作品を本当に楽しんだことにはならないのではないかと僕は思う。




SUPER-CANNES
J. G. Ballard
2000


スーパー・カンヌ
新潮社 小山太一・訳
舞台は南仏、地中海沿岸に新しく建設されたビジネス・パーク、エデン=オランピアだ。主人公のポール・シンクレアは航空関係の編集者でありパイロットでもあるが、飛行機事故を起こし完治しない膝の傷を抱えて療養中の身である。ビジネス・パークの診療所に医者として赴任する若い妻ジェインに付き添うようにしてエデン=オランピアにやって来る。

エデン=オランピアは快適に整備され、セキュリティの行き届いた真新しいビジネス・パークだ。世界中の多国籍企業が穏やかな気候と至便な立地、優遇税制に惹かれて進出し、ビジネス・エリートたちが休みもなくハードワークをこなしている。しかし、ジェインの前任者であったデイヴィッド・グリーンウッドはここで突然錯乱し、ビジネス・パークの高級幹部7人と3人の人質を殺し、自殺したというのだ。

この小説はポールがグリーンウッド事件の真相を探る形で展開する。だが、「殺す」や「コカイン・ナイト」と同様、謎解きそのものはここでも重要ではない。むしろその過程で明らかにされるエデン=オランピアの病理、そしてそれに抵抗しつつもその中に取り込まれて行くポールの心の動きこそがこの作品の核心だ。

ビジネス・パークの分析医ペンローズは言う。「隅々まで正気が支配する社会では、狂気が唯一の自由になるんだ」。「われわれは人間を復活させなくちゃならない――殺戮者の眼を与え、死の夢を与えなくちゃならないんだ」。そこではビジネス・パークの機能を正常に維持し、ビジネス・エリートたちの活力を保つために、周辺の地区での人種差別的な暴行や略奪がプログラムとして意図的、組織的に行われていた。

だが、ジェインを倒錯した街娼に仕立てられ、殺人までもが「プログラム」の一環として行われていることを知ったポールは、最後に自らビジネス・パークの幹部たちを殺すことを決心する。それこそはグリーンウッドがしようとして未完に終わった仕事だったのだ。

清潔で快適な、超近代的ビジネス・パークの運動原理が無軌道な暴力と倒錯したセックスだったという見立て自体は既に「殺す」で看破されていたテーマの延長上にあるものだが、バラードはここでそれをより巧みに、念入りに構築しており、その寒々としたリアリティはより説得力を持って迫ってくる。

もっとも、こうしたバラードの着想が、「交通事故のエロティシズム」や「高層住宅の階級闘争」に比べると、いささか分かりやすくなっている感は否めない。ついに時代がバラードに追いついたのか、あるいはバラードの発想自体が時代のスピードを超えるオリジナリティを持ち得なくなったのか。それから、もうひとつ気になるとすれば――ここまでのレビューを読めば分かる通り――物語の構造が「コカイン・ナイト」と似すぎていること。同じ話を二つ書く必要がどこにあったのか、理解に苦しむ。




MILLENINIUM PEOPLE
J. G. Ballard
2003


ミレニアム・ピープル
創元SF文庫 増田まもる・訳
心理学者のデビッド・マーカムはヒースロー空港の爆破事件で先妻ローラを亡くす。既に別れたはずの女性なのにその死はマーカムに大きなインパクトを与えた。マーカムはその事件の真相を探るため、様々なデモや集会に出かけて行く。そこでマーカムは「中産階級の解放」を掲げる奇妙な過激派と出会い、知らずに彼らに巻き込まれて行くのだった。

現代社会で最も搾取されているのは従順に働き続ける中産階級であると主張するカリスマ的な医師ゴードンと、彼の意を受けた女性ケイに扇動される形で中産階級向けの新興住宅地であるチェルシー・マリーナでは暴動が発生し、地区は封鎖される。警官隊との衝突の中でマーカムもまたその中産階級革命にコミットして行くことになる。

マーカムやゴードン医師、ケイだけでなく、中国人女性、謎の牧師など、登場人物の造形ははっきりしており、メリハリの効いた物語の運びも魅力的。何より中産階級革命という着想がいかにもバラードらしく、斬新でありながら僕たちの日常生活の中での苛立ちや不安を的確にヒットしているところがさすがだ。

暴力、セックス、過激派という道具立て自体はバラードにあっては格別目新しいものではないし、現代社会の歪んだ出口を示唆する作風は、「楽園への疾走」「コカイン・ナイト」「スーパー・カンヌ」などにも見られた最近のバラードの興味のあり方を再確認するもの。小ぎれいな新興住宅地での中産階級の崩壊という意味では「殺す」にも通じる不気味さがあるし、住宅地から住民が次々と脱出して行き、焼き討ちにあって荒廃して行くイメージは「ハイ・ライズ」を思い出させる。

更にいえば、破滅への大きな流れの中でなすすべもなくその一翼を担うこととなる男の醒めた諦観、「巻き込まれる」ことへのひそかな傾きは早くは初期三部作からバラードの作品に顕著に見られた傾向でもあった。それを考えればバラードの朽ちつつある世界を見る眼差しは初めから何も変わっていないということが分かるのではないだろうか。

物語の終盤で、ローラを殺した爆弾テロが実はゴードン医師の一派によって仕掛けられたものであることが示唆されるが、マーカムの態度は最後までどこか煮えきらない。自分の中のもう一人の自分がじっと破滅を見つめているような奇妙に静まり返った感じ、ある種の既視感のようなものが特徴的な作品。南の島やリゾートといった非日常空間から再び都市に回帰したことでバラードは新たなリアリティを獲得した。




KINGDOM COME
J. G. Ballard
2006


遺作となった作品。ヒースロー空港とロンドンを結ぶ高速道路M25沿いに点在する郊外都市のひとつブルックランド、そこに建設された巨大なショッピング・モールである「メトロ・センター」で銃の乱射事件が発生した。この事件で疎遠にしていた父親を亡くした広告マン、リチャード・ピアスンは事件の真相を知るためにブルックランドに移り住む。しかし、犯人として逮捕された男はすぐに釈放されてしまう。いったいだれが父親を殺したのか。そしてブルックランドで何が起ころうとしているのか。物語は意外な方向に発展して行く。

小説の構造としては「コカイン・ナイト」や「スーパー・カンヌ」、前作「ミレニアム・ピープル」にも酷似している。ここで語られるのはスーパー・マーケットからホテルまでを擁する巨大なショッピング・モール「メトロ・センター」を核に形成されて行くファシズムだ。サッカーやアイス・ホッケーの試合が終わるたびに、セント・ジョージ旗のシャツを着たファンの一群がアジア人やスラブ人の商店を襲い、焼き討ちする。暴力的、排外的な騒乱の動因はショッピング・モールに象徴されるコンシューマリズムだった。

ショッピング・モールの店先に山積みされる商品が示唆する暴力。モールに設置されたスタジオから放送されるケーブル・テレビが扇動する略奪。現代的でクリーンなショッピング・モールが新しい種類のファシズムを育んで行く。ケーブル・テレビのパーソナリティであるデヴィッド・クルーズと手を組んで新たな広告戦略を仕掛けるピアスンは、いつしかショッピング・モール・ファシズムの先導者になってしまう。そして歯止めのない暴力はついに警官隊との衝突、モールへの籠城へとエスカレートして行くことになる。

既に前述のような作品を通り過ぎてきた読者としては正直「またか」と思う部分もないではない。しかし、そう分かっていても、アウトサイダーへの暴力がエスカレートして行くプロセスや、籠城中のモールの内部の描写は具体的、現実的でスリリングだ。籠城が長期化するに連れて荒れ果てて行くモールの描写は「ハイ・ライズ」を思い起こさせるし、ピアスンが衰弱しながらもモールに留まろうとする態度は「結晶世界」から「奇跡の大河」を経て現代に至るJGB作品の主人公に共通して見られる傾向のようにも思われる。

この物語でJGBが解放しようとしているのは、怪物化するコンシューマリズムだ。そこにおいてはメッセージがないことがメッセージだというJGBの見立ては、メディアがメッセージだと看破したマクルーハンにも似て、表層化する消費行動が生み出す余剰エネルギーの行き先の問題を小説的な角度から語ろうとしているのだろうと思う。陰湿化、粘着化するクレーマー、モンスター・ペアレンツ、電車内暴力…。僕たちの意識の深層でいつの間にか張り巡らされた性衝動と暴力衝動の意外な回路を見出すJGBの眼力は健在だ。



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